"Wonder Girl"
7
くちびるを切るような冷たい空気。ゆっくりと吸い込んで、ゆっくりと吐く。これは大切な宝物だから。願わなくてもそこにあるものだから。
それでもボクは時々不安になって、ちょっと歩みをゆるめてみたりする。頭の上を重い風が吹き抜けて、髪がなびいた。小さなボクは地面と一つになって、その上を人々が行き交っているような気分になった。
当然、先へ行く形になってしまった祐一君は、分厚いジャンパーを翻して立ち止まり、不思議そうにボクを見た。それだけのことで、ボクは安心してしまう。
祐一君は眉をしかめた。
「何だ、どうした?」
「ううん、何でも」 ボクはにっこりした。少なくとも、そのつもり。
「そっか。ま、あとちょっとで、広場だからな。たい焼きはたんまり食えるぞ」
「そんなことじゃないよ」
「あっそ」
祐一君は腹を立てることもなく、ひょいと首をすくめて、すたすた歩き出した。ボクはその後ろを小走りについていく。迷い込んだのか、灰色の空から真っ白なひとひらの雪がふわりと舞い落ちてきた。ボクは、かけらが祐一君の後姿を背景に通り過ぎていくのを、目で追いかけた。それは、あっという間に積もった雪に吸いこまれ、見分けがつかなくなってしまった。奇妙な二人組の子供を笑うように、足元の雪は音を立てた。
ねえ、とボクは先を行く祐一君に呼びかけた。雪はそれっきり降ってこない。
「全部夢かもしれない、って思ったこと、ある?」
「全部って、何のだ?」
「ぜんぶだよ。ボクと祐一君がこうやって歩いてることとか、全部、本当じゃないの。楽しいことも、つらいことも。ボクが何かを頑張っても、それは全く意味のないことだったりして、それでもボクは目覚めることは許されないんだよ」
「許され……何だそりゃ。新手のホラー映画か?」
「うぐぅ、違うよ…。ただ、ずっとこうしていたいな、って…だけど……」 ボクは続く言葉を飲みこんだ。
「それなら、そうすりゃいいだろ」 祐一君は強く言った。「嫌なことなんか考えるなよ。子供なんだから」
「自分だって子供のくせに…」
「いーだろうが。俺達子供は、遊んでなんぼの商売なんだよ」
「商売なんかしてない……」
冬休みが終わればボクはお祖父さんの所に行き、祐一君は自分の家に帰る。だから、ずっとこうして会えるわけじゃない。けれど、ボクが言ったのはそういう意味じゃなかったし、祐一君もそれは分かっていた。
祐一君に追いついて隣に並ぶと、ジャンパーの袖が触れ合った。二人とも無言のまま、人のまばらなお昼過ぎの商店街をゆっくり歩いた。流行歌の流れるCD屋さん。何だか照明の暗い本屋さん。ふと雪を踏む二人の足音が揃って、ちょっと気恥ずかしくなった。祐一君は何気なく、「本当に、いつまでもこんな日が続けばいいのにな」と、つぶやいた。本当のお願いとか、お祈りとかいうものは、いつも「そうならないこと」に対してしか、有り得ないことなのかもしれない。ボクはぼんやりとそんなことを考えた。
さっき降ってきた雪は、きっと、意地でも冬らしさを見せてやろうと、渾身の力をこめて降らせられたものだったんだろう。一面を覆っていた雲は力尽きて、もう流れ去っていこうとしていた。太陽が姿を見せ始め、ボク達は浴びるようにして日の光を味わった。寒さに弱いらしい祐一君は、生き返ったように襟元から首を伸ばした。それが亀みたいだと言って、二人で笑う。
ボク達がいつも立ち寄る、商店街の広場が見えてきた。祐一君が教えてくれた美味しいたい焼き屋さんがある広場だ。
「お、また来たな、少年少女! 今日は何がいい?」
髭の生えた陽気なおじさんが、この日も顔一杯の笑みで迎えてくれた。ボク達は揃ってメニューをじーっと睨んだ。勿論、いつもと同じ名前しか並んでいない。それでもボクは毎日悩んでしまう。
「それじゃボクは、こしあん」
「つぶあん」
「ほいほい」 おじさんは手際よく二匹のたい焼きを袋に入れる。「いつも、ありがとうよ。これからーも、ごヒイキに」
「あははっ」
おどけた顔に思わず笑ってしまった。隣で祐一君も吹き出していた。ボク達の反応に気をよくしたのか、おじさんはますますおかしな顔をしてみせて、ボク達は笑い転げながらその場を離れた。
「あやしいっ。あやしすぎるぞ、あの親父っ」
「髭がごわごわ〜」
「あのつぶらな瞳が――」
たい焼きを頬張りながら、口々に勝手なことを言い合った。好きな動物の話や、ペットの話(祐一君はレトリバーとかいう種類の犬を飼っていたそう。ボクは美沙伯母さんの家の近所にいる毛むくじゃらの犬の話をした)。ちょっとだけ家族の話をしかけて、それから祐一君が「いそうろう」しているお家の話をした。ボクが理解した範囲では、そこはお化け屋敷とあまり変わらない場所のようだった。少なくとも、前の学校の友達の中に、そんな家に住んでいる人はいなかったと思う。
日が傾いてきて、空が真っ赤に染まった。信じられないほどに、透明で深い赤。空一面、そっくりルビーに変わったような色だった。何かの赤いエネルギーが押し寄せて、見えない涙のようにボクの顔で弾けるのを感じた。
このきれいな夕日も、ただ雪のかけらでしかない。
いつもの駅前の広場が近付いてきたあたりで、ボクは前触れもなく尋ねた。
「祐一君、お母さんのこと、好き?」
「ん? ああ……前にも言ってたな、それ。おう、好きだよ」
ボクはうなづいた。
「夢じゃないんだよ。――――夢なんてものは無いんだよ。ボクはそう思う。だけどみんな、そんなこと忘れちゃって、それこそ夢みたいな世界が本当にあると思っちゃうんじゃないかな。そんなもの、無いのにね。……すごく怖いところに、みんな住んでるのに。それを忘れちゃいけないんだよ」
「良く分からないな……」
祐一君は、ポケットに手をつっこんで黙っていた。
「なあ、あゆ」
「なに?」
「俺、余計なことしてるか?」
「どうして?」
「まあいいけど…。何があったかは知らないけどさ。この前、言ってたろ。俺といると楽しい、って。だから俺は一緒にいるんだぞ」
「あ、ううん、そうじゃなくて――――」
「夢だの怖いだので片づけられてたまるか」
「い、今は楽しいよっ、ホントに。でも……冬休みが終わるまでだよ。そうしたら、また戻らなきゃ」
「戻るって、どこに」
「何もないとこに」
顔が赤くなるのを感じた。祐一君が穴が空くほどボクの顔を見つめたから。でも、その顔が段々険しいものになっていくにつれ、今度は冷や汗が出てきた。突然、意味のない八つ当たりをしているのに気付いた。
「ご、ごめんっ――」
「よし、そこまで言うなら、力ずくで納得させてやろう」 良く分からない対抗意識がめらめらと燃え上がっているのが、目に見えるようだった。「なるほど、確かに今日まではちょっと手加減していたからな」
「手加減?」
「明日は、俺の取っておきの場所に案内してやる。俺が見つけたときには感動の余り夕食を忘れたぐらいのポイントだぞ。あれで凄いと思わないんだったら、俺の負けだ」
「負け、って……」
「その代わり、凄いと思ったら、俺の勝ちな」
「だから、勝ちとか負けとかって……」
「さあさあ、約束の指切りだ」
「うぐぅ……」
祐一君の妙に嬉しそうな笑顔につられ、ボクは小指を差し出した。
「うぐぅ……」
「それ、何度目だよ……」
「疲れた……」
「我慢しろ。もうちょっとだ」
「うぐぅ……」
『取っておきの場所』は、まだまだ遠いようだった。真冬だというのに、額の汗を拭く。ゴミ袋を引きずるみたいに、足を交互に持ち上げて進んだ。数歩前の祐一君の後姿は、油断すると、あっという間に消えてしまう。また、うぐぅ、と言いそうになって口をつぐみ、代わりに枝を押しやって足を上げる。慣れ親しんだ空気だけが少しだけ元気付けてくれて、ボクの心は未来へ向かった。この先に何があるって言うんだろう。この山の奥に。
約束した翌日、会うなり祐一君が勇んでボクを引っ張ってきたところは、カンペキに他人の家の裏庭だった。慌てて文句を言ったけれど、祐一君は聞きやしない。仕方が無いから、おっかなびっくり、祐一君について庭の一角を突っ切った。身体をこじ入れながら、余り手入れされていない植え込みを抜けると、ボクはあっけないくらい簡単に、思い出の真ん中に立っていた。
甘酸っぱい、濡れ落ち葉の匂い。足の裏の、柔らかい地面の感触。奇妙に遠い記憶だったけれど、次の瞬間、それは現実となってボクの周りにあった。あの家から遥かに遠く離れた、この雪の街に、こんな場所があったなんて。しばらく、ボクはぼうっとその場に突っ立っていた。そう、ここが一種のスタート地点だったんだ。ボクを育てたゆりかご。ボクだけが変わってしまった。そしてボクだけが変わらずにいる。
気付けば、祐一君はその辺の木々や枝には目もくれず、ずんずんと奥へ進んでしまっていた。もう姿も見えなくて、落ち葉を踏む足音だけが聞こえてくる。仕方なくボクはその後を追った。道はどんどん細くなって、しょっちゅう背の低い茂みに邪魔されるようになってきていた。ボク達は縦に並んで、頑固な植物達と戦いながら進んで行った。
「うぐぅ、前が見えない…」
「俺の手を掴んでたら、絶対に大丈夫だから」
それから何十分も歩いた。実際はもっと短いのかも知れないけど、もう何が何だかわからなかった。あちこちの枝で服をひっかいて、いくつもの筋が付いていた。素足の膝にも泥がついてしまった。
「ついたぞ」
先を行く祐一君の声がした。ボクは、滅茶苦茶に手を振り回しながら深い茂みを抜けると、ようやく頭を上げた。明るい空に、目が眩みそうになった。それがおさまると、そこにあったものにボクは軽く目を見開いた。
「あ…」 声をあげた。「きれい」
「ここが、俺のとっておきの場所だ。でっかい木だろ?」
「うん」
飛行機か何かが地面に突き刺さってるんじゃないかと思った。それぐらいの、ものすごい太さの木がそこにあった。ただ見ているだけで安心してしまうような、笑い出してしまうような、それほどどっしりした、まるで家みたいな大木だった。一面に苔が生えていたけれど、触らなくたって、その下に固くて丈夫な幹があることは伝わってきた。そこから視線を上へ上へと滑らせていくと、信じられないような高みにしげる大量の枝葉に遮られてしまって、隙間からも天辺は見えなかった。多分、他の木の倍ぐらいの背丈なんじゃないかと思う。
「この木だけは街中からでも見えるんだぞ」
祐一君がニヤニヤ笑っていた。ボクは慌てて口を閉じる。また見上げて、小声で聞いた。
「どうやって見つけたの?」
「この木を目印にして、商店街からずっと辿って来たんだ」
色々と冒険談を喋ってくれたけど、半ばそれを聞き流すようにして、ボクはその木を見上げていた。立派な枝振りを一つ一つ確かめていく内、だんだんと笑みがこぼれてくる。手の甲についた引っ掻き傷がうずいた。疲れはどこかに吹き飛んでいた。そうだよ、そうしない理由なんて無いよ。
一歩踏み出したところで気付いた。
「祐一君」
「どうした?」
「ちょっとだけ、後ろを向いていてもらえるかな?」
「…それはいいけど」 困ったような笑顔。「どうしてだ?」
「どうしても」
祐一君は、分かった、と呟いて後ろを振り向いた。
「いいって言うまで、ぜっ・たい・に・後ろを向いたらダメだよ」
それから大木の方に向き直って最初の足がかりに右足を乗せ、ジャンプして大きなうろを掴んだ。左足のつま先を腰のあたりのコブに引っ掛け、両手を押し込め、右足で木の幹を引っかくようにして体を持ち上げる。やっと、最初の枝に手が届いた。ぶら下がりながら祐一君の方をちらりと見ると、まだちゃんと後ろを向いていてくれた。
初めての木なのに、ほとんど迷わずに登っていける。普通、大きい木は登りにくいもので、両手を広げたより太い木なんていうのは、ボクには、まず手に負えない。でも、この木は例外だった。果てしなく遠かった枝や葉っぱが、すぐに手が届きそうなところまで近づいてくる。ボクは体の動かし方を思い出しながら登っていった。中間あたりまで来ると古いツタが生えていたので、それを伝うと一気に高いところまで辿りついた。座りやすそうな枝を見つけて、一度それをまたぎ越してから、後ろ足も引き寄せて揃えた。
顔を上げると、とんでもない広さの空のふちで朱色の地平線が光り輝いていた。思わず目を細め、わぁ、と口の中でつぶやく。見たことも無い景色。沈みかけた太陽の周りに、完璧な『グラデーション』が広がっていた。本当にそれは、完璧、と言いたくなるような、素晴らしい情景だった。
神聖な感動はそこまでだった。足元のずっと下の方では、木々の先端が黒いじゅうたんになって、無言のまま、じっと何かを待ち受けていた。オレンジ色の羽を広げる太陽を? それとも、もっと別のものを? 硬く延びた地面は空と同じぐらい完璧で、空と同じぐらい無表情だった。初めて見る景色なのは、初めての高さまで登ったからだと気付いた。地面が果てしなく遠く感じられた。広がる。広がりつづける。
何かが、ボクを心底おびえさせた。パニックと戦いながら、本能的に目に見えるものにすがろうとした。でも、美しすぎる景色は、いつのまにか氷の素顔をあらわにして、遠くからボクを圧倒していた。森の黒じゅうたんの向こうには、伯母さんと暮らし、祐一君と歩いたはずの街が、雪をかぶって真っ白く凍り付いていた。冷たい夕焼け空は、ちょうど磨きをかけた金属のふたが虹色になっている所を思わせる。あまりにも静かで、耳鳴りがし始めた。風景写真の世界に閉じ込められていた。わけもわからず、そっと目の前に腕を伸ばす。大空に触れた。たった一人のボクが世界の中心にいる。たった一人のボクが。
その事実。
「そっか……」
ボクは呆然とつぶやいた。ゆらり、と頭が揺れる。
そうなんだ。何度も何度も、こんな景色を見ていたくせに、ボクは一度もそんな当たり前のことに気づかないでいたんだ。もうない。どんなに願っても、祈っても、隣にあの人を見上げることは、ありえないんだ。
ボクは幹に寄り掛かり、頭をもたせかけた。
失くしたんじゃない。
最初から何も持っていなかったんだ。
冷たい感触が体の中から沸き起こる。心がゆっくりと細くなっていく。みんな同じなんだ。過ぎていった昨日。ひどい点数のテスト。もういない大切な人。ひとひらの思い出は、ただこの街と同じように、楽しかったたくさんの思い出と一緒になって永遠に眠りつづける。置き忘れられ、静かに積もっていく。喜びも悲しみもない、夢のようなどこかで。だんだん冷たくなる太陽を浴びて……。
そんな。そんなことって無いよ――――
また視界が揺らいだ。体勢を立て直せない。傾いていく景色。
風が吹いていた。
木々を揺らす、強い風。
たとえそれが、どんな奇跡の上にあったとしても。
(あゆちゃん)
「えっ」
名前を呼ばれたような気がして、我に返った。そのまま横を見て、ボクはあっけにとられた。
「お、お母さんっ」
にこり、と隣に並んだお母さんは微笑んだ。いつもの活動的な格好のまま、思い出せる限りの優しい笑顔で。
頭の中が真っ白になった。それまでボクの心の中を我がもの顔にのし歩いていた怪物達が、一瞬で吹き飛ばされてしまった。あれだけボクを悩ませていたモノ達、恐怖とか、戸惑いとか、不安とか、苦しみとか、そういったモノ達は、吹き荒れる熱風の中でたちまち蒸発してしまった。その後には、とても爽やかな涼しい風が吹いた。だんだんと頭がすっきりしてくる。何の疑問も沸かなかった。これは夢じゃない、そう直感が教えてくれた。現実じゃないかもしれない。でも、ウソじゃない。
お母さんの口が、何かの形に動いた。
「え? なに?」
そのまま、ふぃっと前に向き直る。夕陽を浴びて、気持ちよさそうにしていた。ふと、その向こう側に、知らない男の人が並んでいるのに気付いた。そう、もちろん知らない人なんかじゃない。ボクは微笑んで頭を下げた。
太陽は元通りに穏やかな光を投げかけていた。押しつぶされそうだった空の広さも、ただ悠々と、どこまでも流れていく空気に変わっている。ぱぁーん、という遠い警笛が聞こえて注意を向けると、街の中心を通る高架の上を電車がするすると動いていた。良く見れば、そのガードの下には、たくさんの車が行き交っていた。渡ったことのある横断歩道の先に、いつだったか祐一君が蹴飛ばして遊んでいた街路樹が、ちらりと先端を見せている。そこからビルの隙間を辿っていくと、商店街の広場の一角がのぞけた。たい焼き屋さんまでは見えなかったけれど、砂粒のような人影がたくさん歩いていた。みんな忙しそうに、あるいはのんびりと、思い思いの方角に向かって歩いていた。
ボクは一体何を見ていたんだろう。この街が――この大切な街が、凍り付いているだなんて、どうして思い込んだんだろう。ボクが、美紗伯母さんが、祐一君が、知らない大勢の人が、毎日を暮らしている場所なのに。そう、前の町なら、お母さんが暮らした、つかの間だけど、お父さんも幸せに生きたに違いないのに。それが一番大切に決まってるのに。
お母さんがボクのふとももをつついた。横を見上げると、お母さんはそっと人差し指を真下に向けた。
「あ……」
遥かな地上で一人、祐一君が寂しそうに後ろを向いてうなだれていた。可哀想と思うと同時に、ちょっと可笑しくて自然と頬が緩む。お母さんはそんなボクをニヤニヤと意地悪な目つきで眺め、隣のお父さんに何やら耳打ちする素振りまで見せた。ボクは笑って、お母さんの肩をぴしゃりと叩いた。そして、ちょっとためらってから、思い切って声をかけた。
「あの……お母さん?」
ん? というように、首をかしげた。
「えっと、その、……ありがとう。その、何がって言うとむつかしいけど、色々と…」
お母さんは、何かボクが変なことを言ったみたいにクスクスと肩を震わせたけれど、お父さんが横からそれをたしなめると、ぺろっと舌を出して、それからボクを強く抱きしめた。お母さんらしい、明るい力強さだった。でも、お母さんのそんな陽気さは本当は照れ隠しだったのかもしれないと、その時ボクは思った。前髪に隠れた眼の端に、かすかな涙の光が見えたから。
やがて、名残惜しそうに、お母さんは身を離した。入れ替わりに、お父さんが右手を差し出したので、ボクは握手をした。お母さんがまたボクの頬を包み、ボクはその手に触れた。
「そっか。もう、時間なんだよね」
二人はわずかにうなづいた。その様子に、これが本当の最後だと感じた。これきりだ。
だから、ボクは笑顔を浮かべた。しっかりと背を伸ばして、二人に宣言してみせる。
「もう心配しないで。ボクは大丈夫、本当だよ。だから、二人とも元気でいてね……うぐぅ、笑わないで…」
相変わらず、お母さんはイヤになるほど受けまくっていた。ボクとお父さんは、仕方ないなぁ、と同時にため息をついた。そしてお父さんはボクの頭を撫でると、照れくさそうな笑みを浮かべ、そのまま、すうっと消えていった。
ようやく笑いやむと、お母さんはもう一度ボクの頬に手を当てて真正面に顔を近づけ、ゆっくりと口を動かした。ボクは必死にその動きを読んだ。
「あ、ん、ば……がんばって? うん、分かった。ボクも頑張るよ。だから、お母さんもお父さんと仲良くね?」
苦笑してボクの額を小突く。それでもお母さんは、うん、と一つうなづいた。そして、一瞬ためらったあとに、ボクの首に抱きついた。夕陽の放つ暖かいな光がお母さんの肩越しに飛びこんできて、ボクは思わず目を閉じた。
ボクはそのまま、軽く息を吐いた。胸の中にあった最後の未練が、その息に溶けて流れ出ていくような気がした。そして、それにしがみついていた自分も。
あと10秒だけ、祐一君には待ってもらおう。ボクは思った。雪の中に埋もれていた、大切な宝物を確かめるまで。この場所から見えるものが、みんなと同じように、ただボクだけのものなのだと確信が持てるまで。
目を開けば、雲も鳥も、森も街も、これからボクの出会う一人一人だって、それはボクだけが見つめ、護らなければならないもの達。
そして目を閉じたなら、懐かしいストーリィが輝き出す。
その全てが、ボクの見る世界なんだ。
大丈夫。
大丈夫、ボクは何も失くしていないよ――――
「もういいよ、祐一君」
祐一君はほっとしたように振り向いて、そこにボクがいないのに気付き――と言うか、声の方向ぐらい分かって欲しかったけれど――慌てて左右を見渡した。
「ど、どこだ?」
「ここだよ」
「ここってどこだ?」
「上だよ。凄いよ、街が良く見えるよ」
「上って…」 そこで、ようやくボクの姿を発見したみたいだった。「何やってんだ!」
「木登り」
「それは見れば分かる…」
聞けば、祐一君は『高所恐怖症』なのだった。高いところに登るのも恐いし、登ることを考えるのも恐いし、人が登ってるのを見てるだけで恐いらしい。なぁんだ、とボクは心の中で笑う。いっつも偉そうなことを言ってるくせに、ヘンなとこで情けない。ボクは頬の辺りでほつれた髪を払った。
「風が気持ちいいよ」
「そうか」
「街が、あんなに小さく見える」
「……」
聞こえているのか、いないのか、祐一君はおざなりに相槌を打つ。
「本当に、綺麗な街…。ボクも、この街に住みたかった」 小声で呟いた。
夕陽が傾いてきたので木を降りた。祐一君が振り返って、そもそも後ろを向かなきゃならなかった理由を尋ね――まだ気付いてなかったなんて…――ボクは無言でスカートを押さえた。祐一君が冷静な顔のまま「なるほど」とうなづいて、何故だかボクはさらに恥ずかしくなった。
二人で連れ立って山を降りた。本来、山歩きには慣れているから、ボクが先頭を歩いた。とりとめもない考えが、次から次へ頭の中を通り過ぎていく。吹き通る風のように、瞬間の情景達がボクの心を流れていく。もう痛みは無い。苦しさが消えて、悲しみは希望になるから。
祐一君が、後ろから首を延ばして言った。
「街の風景はどうだった?」
「秘密」 ボクは微笑いながら答えた。
「どうして秘密なんだよ…」
「あの風景は、言葉では説明できないよ。実際に見てみないと」
祐一君は、いつものようにひとしきり文句を並べる。ボクはクスクス笑って、それを一つ一つ却下していった。その内、いつの間にか祐一君が、こんなにも自分の近くにいてくれているのに気付いて、ボクは嬉しくなった。
「今度、写真撮ってくれ」
「カメラなんか持って、木には登れないよ」
ボクは、あはは、と笑った。
「それに……写真ではもったいないよ、やっぱり」