"Wonder Girl"

6



 真冬のことで日が落ちるのが早く、ボクは何より恐い真っ暗な道を、あやふやな記憶を頼りに歩き回る羽目になってしまった。いつもよりも更に回転の鈍った頭で何度も間違った道に迷い込んだ挙句、ようやく美紗伯母さんの家に帰り着いた時には午後7時を回っていた。開けっぱなしの門を通ると、それをきちんと閉めて錠を下ろす。窓から光がもれていないから、伯母さんはボクを探しに出て行ってしまったのかもしれない。やっぱり門を開けておいた方がいいのかな。
 玄関を上がって、思わず声を出しそうになった。凍りつくような数秒。美紗伯母さんが最後に見たときとほとんど同じ姿勢で、暗闇の中で床に座り込んでいた。ボクはすくんでしまった足を無理矢理動かして近付くと、かすれる声で「ごめんなさい」と言った。伯母さんは何も無い場所を見つめたまま、ボクの頬をわななく指で撫でた。その指が信じられないほど冷たくて、ボクは震え出しそうになるのを我慢した。

「お夕飯。これから作るから、しばらく遊んでいてね」

 指よりはずっとしっかりした声だったけれど、反対にそれ以上会話をしたくないという気持ちがはっきり伝わってきた。その後、お台所から何かを炒めている音が聞こえている間、ボクは自分が荒らしまわった居間中の家具の場所を直していった。ボクが飛び出した時と何一つ変わっていなかった。投げ出されたトレイやテレビのリモコンも、1cmも動いてない。伯父さんの形見の家具につけた沢山の傷は、ボクにはもう直せない。誰かに直せるのかも分からない。
 片付け終わると、台所を覗いて伯母さんの様子をうかがった。伯母さんはボクがいることには気付いたと思うけれど、まったく振り向かなかった。ボクは大人しく顔を引っ込めた。居間に戻ると木の床に膝をついて、こんな所に4時間近くも座り込んでいるのはどんな気分だろうと想像した。夕方になるとつける床暖房も入っていなかった。唇を噛み締めた。
 遅い夕飯を、二人とも無言のまま食べた。もっとも、ボクに関しては全くの無言じゃなかった。何かを言おうとして、そして謝ろうと思って、「えっと…」とか、「あの…」とか切り出していたけれど、それ以上は言えなかった。伯母さんの瞳が目の前を真っ直ぐ見つめたままだったから。
 とても静かだった。時間を噛んでいるような気がする食事は初めてだった。
 最後まで会話の無いままにベッドに入ったけれど、目が冴えて全く眠れない。何度も寝返りを打つと、かけ布団がくしゃくしゃになって足が出てしまった。
 ドアをノックする音が聞こえた。

「起きてる」

 かちゃり、と音がして、伯母さんが入ってきた。電気を点けないまま、伯母さんはドアの柱によりかかる。暗闇の中に声がする。

「少し、いいかしら。今夜の内に話しておきたいの」
「うん。あの――」
「まず伯母さんの話を聞いて。あのね……。本当にごめんなさい、伯母さんにはあなたを育てるだけの力が無いような気がするの」

 だからやっぱり、ここに来る直前の、お母さん方のお祖父さんの家に預けることにした。もう電話で話もついた。と伯母さんは言った。
 ボクはそれを聞きながら背筋が凍るような気がした。それは、ここを離れると聞いた瞬間に浮かんだ顔が、こんなに尽くしてくれた伯母さんではなく、街で出会ったあの男の子のものだったからも知れない。

「ウソ…」
「嘘なんかつきません」
「あのっ、ボク、本当に酷いことしてごめんなさい! もう絶対しないから…」
「そうじゃないの、あゆちゃん」 不意に気配がゆるんで、伯母さんが微笑んだような気がした。だけど寝室は暗くて本当の表情は分からない。「伯母さんは勘違いしていたのよ。何が一番大切なのか、分かっていなかったの。あなたを好きだし、親身になれるから大丈夫だって。私はもうこんな歳だから本当にあなたと同じ場所には立てないけれど、私なりにやっていけると思っていた。自信もあったのよ」
「伯母さんは悪くないよっ! ボクがバカなんだよ…、ボクが――」
「だけどね。今日あなたを叱りつけて、あなたを本当に傷つけた時。伯母さん、本当にショックを受けたわ。私は決して間違ったことを言ったとは思ってないけれど……」

 伯母さんはしばらく黙っていた。

「とにかく、あなたのお母様を本当に尊敬するわ。素晴らしい方だったのね。あなたをこんなに良い子に育てるのに、どれほど苦労したのかしら。お母様の娘に生まれて、良かったわね、あゆちゃん」
「うん…。でも、あのっ、ボク、伯母さんの家も好きだよっ。伯母さんも…あの…本当に…」
「優しい子ね」 闇に目が慣れて、今度はハッキリ見えた。見なければ良かったと思った。とても悲しげな笑顔だった。「でも、だめよ。問題は、あなたが、あなたにとって一番いい人の元に行くことだもの。残念だけど、伯母さんはそうじゃなかったの。経験不足に過ぎたわ」
「うぐぅ…でもぅ…。ここがいいよぅ…」
「もう決めてしまったのよ。それとも、また伯母さんに辛い目を見させるつもり?」
「ここがいいのっ」
「だーめっ。…そうね、中学に上がる時に考えなさい。その時になっても伯母さんのところが良いと思うなら、私も考えるわ。何度も行ったり来たりすることになっちゃって、本当にごめんなさいね」

 ボクの心に浮かんだ沢山の言葉は、どれも伯母さんの意思の固さに打ち負かされた。ボクがこの先どういう風に暮らすのか、分かったような気がした。もうどこにも希望は無くなってしまった。
 けれども、とてもおかしなことに、どこか清々しい気分がボクの心の中に残った。ボクはベッドの上で姿勢を正して、真正面から伯母さんの瞳を見つめた。
 伯母さんが尋ねた。

「ね、あゆちゃん。お母様のこと、今でも…?」
「わかんないの。おかしい、って自分でも分かるのに、止められないんだよ」
「そう」 ベッドの端に腰掛け、ボクの体を包む。
「すごく苦しくて…、どうしても帰って来てほしくて…」
「そうね、本当に……」
「でも、あの、今日ね。飛び出して行って、街で男の子と会ったの。それで、うぐぅ、少しだけ泣いて、それで、ちょっとだけ楽になったから…」
「あらら」

 伯母さんは拍子抜けしたように言って、ボクの頭を軽く叩いた。

「何よ、意外とやるじゃない――いいの、分かってるわ。冗談よ。それで?」
「その…、明日会うって約束したの。同じ時間に」
「そう」 伯母さんはボクの隣に並んで足を伸ばして座ると、尋ねた。「会いたいの?」
 ボクは首を縦に振った。「うん」
「何て名前なの?」
「分からない…覚えてないの」
「覚えてないって…、会ってどうするの?」
「た…」 ふと、自分が奇妙なことを喋っているのに気付いて、顔が赤くなった。「たい焼きを食べるの」
「ええ、どうして?」
「うぐぅ、そういう約束したんだもん」

 改めて言うと、ひどくおかしな話に聞こえる。ボクは初めて、どうしてこんなことになったんだろう、と考えた。

「あ、あの、本当に約束したんだよ。ボクが行かないと、あの子も困るし――」
「あゆちゃんは、どうしてその子に会いたいの? ただ遊びたいだけなんて、だめよ」
「うぐぅ、行きたいの…」
「良く考えてごらんなさい。どうして? もし理由が無いなら、伯母さんが代わりに行って、その子に謝って来るわ。あちらさんにもう電話しちゃったもの」
「あのっ、えっと、お礼言ってないの! ボク、その子にたい焼きおごってもらったのに、お礼言ってないから…」
「初めて会った男の子の胸で泣いて、食べ物をおごってもらった?」 伯母さんのゆっくりした口調。「さぁ、一体どうしようかしら。こんなことになるなんて夢にも思わなかった。困ったわ。本当におかしな話」
「でも、お礼…」
「そうね。じゃあ一晩考えておくわ。明日の朝に決めましょう」

 伯母さんはボクの頭をぽんぽんと叩くとベッドから下りて、ドアの方へ向かって行った。ボクはその背中に無我夢中で叫んだ。

「絶対行きたいんだよ! 会わなきゃいけないんだよ!」

 伯母さんはびっくりして振り向いた。ボク自身、自分の声に驚いた。伯母さんは、微笑んで繰り返した。

「明日、決めましょう。……それから、お母様のこと。お母様の仰ったことを思い出して、がんばりなさい。おやすみ」

 まだ鼓膜に自分の甲高い叫び声の余韻が残っていた。ボクは閉じたドアに向かって、おやすみなさい、と言って横になり、今度はあっという間に眠りに落ちて行った。今日の出会いを、繰り返し思い起こしながら。



 夢。

 道行く人々が振り返る。

 困った顔。笑った顔。

 初雪が降っていた?

 夕陽が傾いていた?

 覚めない夢。

 終わらない物語。

 ボク達は色んな道を駆け抜けていく。



 ボクはぐにゃぐにゃに歪んだオレンジ色の足の列を掻き分けながら不器用に走り続けていた。どこまでも突き抜けて行って、全てを忘れられる場所に行きたかった。踵から汚い雪解け水が背中に飛んで、それが風に吹かれて凍り始める。ひょっとしたら目的の場所はずっと先じゃなく、この寒さの中にあるのかもしれないと思い始めた矢先、ボクは何かに顔からぶつかった。ボクはまた泣き始める。その何かが振り返る。男の子。ボクの顔を見て、何か言っているけれど、ボクには聞こえない。
 ボクはずっと無意識に、それを考えまいとしていたんだ。ボクが今までやってきたことは全部、出来るだけそれに気付かずにいるためだったんだ。
 もう永遠に会えないなんて。
 最初は悲しみに負けそうになった。次にお母さん自身の苦しさや恐ろしさを考えた。でも最後に残ったのは、ただ、会いたいという思いだけだった。食事なんて作ってくれなくていい。遊んでくれなくてもいい。二人で家にいなくたって、会話さえ無くていい。ただもう一度お互いの顔を見て、二人で笑いたかった。そんな願いももう叶わない。けれど、嘘だと分かっていても、それを信じなければ苦しさに圧倒されてしまいそうだった。
 はっと気が付くと、ボクは知らない男の子の分厚いブルーのジャンパーの裾に必死にしがみついていた。

「だから、キミの名前は?」 と男の子が言った。

 変声期らしくかすれた声が、街の騒音から浮き上がってボクの頭の中に滑り込む。全く思いもかけない瞬間だった。茜色の背景に浮かぶたった一対の真っ黒な怖い物知らずの瞳が、ボクの目を強く見つめていた。ボクは息を飲んだ。ヘビに睨まれたカエルのように、ただその瞳に吸い込まれていく。
 その子は、ボクに掴まれたジャンパーを意地になって引っ張りながら、苛立たしそうに立っていた。同い年ぐらいの、ちょっと乱暴そうな子。寒さのせいか顔を赤くして、石畳をこつこつとブーツで蹴っている。
 ボクは無意識に、つかまっている手を強く握り締めた。また涙が込み上げる。
 何とか口を開けたけれど、しゃくりあげるのが止まらず、せっかくの簡単な名前がなかなか言えない。数回、あー、とか、うー、とか呟いた末に、やっと言えた。すぐに名字を聞かれたけれど、それには答えなかった。口が8の字を横にした形のまま固まってしまって喋るのが難しかったし、何よりボクには自分の名字すら確実じゃなかったから。ボクがどの家の厄介になるかによって、お母さんの昔の名前になるかもしれない。特に前のお祖父さんの時は、変えろとしつこく言われた。
 「あゆ」と名前を言ったきり、何を聞かれても無言のままのボクにしびれを切らした男の子は、突然ボクの手を引いて走り出した。

「行くぞ、あゆあゆ」
「あゆあゆじゃないよぅ」

 どこに連れて行かれるんだろうと思いながら、変なことを言うその子にボクは口だけは抗議した。交番に行くのかもしれないと思ったけれど、単に場所を変えたかっただけらしく、人気の少ない商店街の出口の辺りで立ち止まった。植木の囲いに二人で座る。
 男の子はボクが声を上げて泣いている間ずっとそばにいて、ボクに話しかけ続けていた。引っ切り無しに聞こえてくる高い声がとてもうっとうしくて、一人にして欲しいと言おうと何度も思った。男の子は、何があったのかとしつこく尋ねた。

『キミに分かるわけないよっ!』

 ボクは心の中で叫ぶ。

『キミはボクをなだめて追い払いたいだけなんだ。ボクは絶対泣き止まないんだから、勝手に帰ってよ!』

 でも、ボクはそれを口にしなかった。
 それから10分以上もボクは泣き、しゃくり上げ、鼻をすすって、また泣くのを続け、その子はその子で辛抱強く幾つかの行動を繰り返していた。ボクの肩を揺さぶったり、頭を撫でたり、ボクが唯一反応を返した「あゆあゆ」という呼び方で呼んでみたり、とにかく邪魔だった。しまいに、ボクは何のために泣いているのか分からなくなってきた。ボクには自由に泣く権利も無い。涙が自然に止まった。
 男の子は身を起こすと大げさに肩をすくめ、一体何があったんだ、と尋ねた。「一体」と「何が」と「あったんだ」を、やっぱり大げさな身振りで強調する。ボクは目の端の涙をこすりながら、かすかに、ああ普通の子だな、と思った。元気で、いつもはしゃいでいて、先生に怒られても5分後には忘れてしまう。そんな子。ボクが泣くのをなだめたのだって、特に意味は無いんだと思う。
 うらやましい。ボクもこの子みたいだったら、お母さんがいなくなっても平気でいられるのかな。

「…おーい。何か喋ってくれ。それとも、もしかして、生き別れの兄にそっくりだとか?」

 ほら、ね。そんなギャグばっかり言って…。でもボクには全然面白くないんだよ。
 ボクはその子に心の中で語りかけた。
 キミは顔では困り果てたような、ほとんど怒ってるみたいな表情だけれど、とても幸せなんだよ。分かるかな。キミは多分、まだ大切なものを無くしていないよね。ボクは、全部無くしちゃったんだよ。ボクはこれから、たった一人なんだよ。多分、誰かの家で暮らすんだろうし、ボクなりに知り合いだって出来るかもしれない。だけど、本当に大切な人には、もう会えない。二度とお母さんの笑顔を見ることはない。二度とお母さんと一緒に遊ぶことはない。ボクの行く手には、もう本当に大切なものは無いんだ。だから、面白いことなんて何にも無いんだよ。キミに分かるかな。
 ねぇ、分かるかな…。

 男の子はそわそわとした素振りで言うだけだった。

「…俺、そろそろ帰るから。落ち着いたみたいだし」 ボクの顔を無遠慮に覗き込む。「もう大丈夫だよな?」

 そう、伝わるわけは無かった。ボクはほんの少し肩を落とした。

 うん、ボクは大丈夫。なるようになるから…。もう行ってよ。引き止めちゃって、ごめんなさい。もう迷惑はかけないよ。

 男の子の背中が一歩ずつ遠ざかって行った。ちょっと切なくて胸がうずくけれど、それも吐いた息の白い蒸気が透明な空気に溶けるみたいに消えて行く。そう、多分この気持ちが完全に消えた時、ボクは全部忘れられるのかもしれない。星の数ほどの不可能と一緒に、全てを捨てられるのかもしれない。

 その時、く〜、と情けない音を立てて、ボクのお腹が鳴った。あんまり唐突で、理不尽で、ちょっと笑ってしまいたくなった。前にもこんな風に思ったことがあった、とちらりと思い出した。ボクがどんなに思いつめても、ボクの体はお構いなしだった。
 立ち去りかけた男の子が振り返って、腹が減ってるのか、と尋ねた。
 そう言えば、ずっと門柱のところに立っていたから、朝ご飯以来何も食べてないことになる。お昼ご飯を食べようなんて思わなかった。もう一度お腹が鳴った。男の子の再度の質問に、ボクはかすかに頷いた。ボクが黙っていたのはお腹が空いているのを隠していたのだと思ったらしく、その子は急に元気になった。何か買ってきてやるから、と、小遣いで買える範囲での好物を聞かれたので、ボクは、たいやき、と答えた。男の子は早くも体の向きを変えると、無造作に人の顔に指を突きつけて言った。ボクはちょっとのけぞる。

「すぐに戻るから待ってろよ」
「…まってる」

 よし、と言って笑うと、雪が跳ね散らかって周りの人が迷惑顔をするのも構わずに、いっさんに駆けて行った。
 不意に、肌が痛くなるほどの冷気の中にいることを思い出した。両腕で自分の体を抱える。自分がとても疲れていることに気付いた。
 わずか数分後、男の子が盛大に湯気をあげながら帰ってきた。たい焼きの入った袋から上がる水蒸気と白い息が同じぐらいの量だった。ボクの顔を確認すると歩調を落した。

「ちゃんと待ってたんだな」
「待ってろって言われたから」
「よしよし」

 自分も子供のくせにボクの頭を撫でてきた。ボクは恥かしくて、身をかがめてそれから逃げる。その子は、悪かった、と素直に謝って、引っ込めた手と逆の手で、もうもうと湯気のあがるたい焼きの袋を差し出した。
 ボク達は再び植木の端に腰掛け、並んで温かいたい焼きをかじる。ボクはもう考えるのをやめていた。泣き疲れていたのかもしれない。傾きかけた夕陽の中、知らない男の子に買ってもらったたい焼きを無心に食べていた。二言三言言葉を交わして、でも肝心のことには何も触れなかった。男の子も無理に聞き出そうとはしないで、ただボクの隣に座って、足を揺らしていた。
 嵐が過ぎ去ると、ボクは自分がとてもひどいことをして逃げ出したことを思い出した。帰らなければいけないことも分かっていた。
 男の子は、たい焼きに豪快にかじりついては喉を詰まらせていた。そのたびに足もとの雪の固まりを見て、何かでたらめな行動をボクに見せびらかすべきかどうか考えているようだった。いつもだったら、ボクが恐くて近寄れないような子だな、とふと気付いた。今のその子はボクを意識しているようでもあったし、丸っきり無視してたい焼きと格闘しているようにも見えた。
 その子が食べ終わった頃には、風が本格的に冷たくなっていた。不意に袋をゴミ箱に投げ込んで、ひょいっと立ち上がる。ボクもつられて立ち上がった。男の子は、そろそろ帰るから、と軽く笑った。その子がそんな風に笑うと、まるで次の瞬間には本当に魔法のように消え失せてしまいそうに思えた。無遠慮な笑顔が掻き消えて、自分だけが取り残される。その予感が、ボクの胸を騒がせた。どうしようもなかった。自分だって家に帰らなきゃいけないのに。どうしてこんなに……

「じゃあな、あゆあゆ」
「待って!」 ボクは反射的にまたその子の上着を掴んだ。どうしようもなく混乱して、上手く考えがまとまらなかったけれど、辛うじて何かを口走った。
「ボク、あゆあゆじゃないもん」
「そうだな」 男の子は首を傾げた。
「うん」
「じゃあ、俺行くから」
「…うん」

 その子は困った様子で、伸び切ってしまいそうな自分のジャンパーと、それを握り締めているボクの手と、ひたすら上目使いに自分を見つめているボクの顔に順番に目をやった。ボクはふと自分の手に視線を落とし、掴んだ手にほんの少し力を込めた。もう一度、暖かい二つの瞳を見上げる。

「放してくれないと歩けないんだけど」 と男の子は言った。

 ボクは、その子が浮かべるはにかんだ微笑みに誘われるように、思い切って嘘をついた。

「…また、たい焼き食べたい」
「そんなに気に入ったのか?」
「…う…ん」
「だったら、また今度一緒に食うか?」
「うん」
「それなら、明日の同じ時間に、駅前のベンチで待ってるから」
「やくそく」
「ああ、約束だ」 男の子はボクに分かるようにうなづいて見せた。
「…ゆびきり」

 ボクはようやく上着から手を放すと、震えを押さえて、小指を差し出した。

「指切りなんかしなくても、ちゃんと来るから」
「うぐぅ、ゆびきり…」
「まぁいいけど、指切りぐらい」

 男の子は、仕方ないなぁ、と言いたげに自分の小指を出してボクの指に絡め、ぶんぶん振った。でも、すぐにボクの無表情に気付いて力を弱めてしまう。その拍子に、指が勝手にほどけた。男の子は、あ、と小さく口を動かしてそれを追ったけれど、ボクはもう走り出していた。

「あの」 ボクはちょっと走ってから立ち止まり、半分振り向いて小さく手を振った。「ばいばい」
「ああ」 男の子は踏み出した足を止めて、夕陽に溶け込むように片手を挙げた。「また明日な」

 その子はボクが走り去るのをずっと見送っていた。ボクはもう振り返らなかったけれど、何故かそれを知っていた。



 ごんごんごん、じゃりじゃりじゃり、と言うような、チェーンを履いたトラックの立てる音で目を覚ますと、傍らに美紗伯母さんが居た。小さな緑色のお財布と、小さなピンク色のポシェットを膝に乗せたまま、椅子に座ってハードカバーの本を読んでいる。部屋は明るかった。伯母さんはボクの顔を見ると、読みかけのページにきちんと紐を挟んで本を閉じ、ささやいた。

「お姫様のお目覚め」

 ボクは跳ね起きた。もう太陽はずいぶん高くまで上って、半開きの雨戸越しに冬場にしては強い陽射しが射しこんでいた。

「あのっ」
「王子様のもとへ行ってきたらいいわ。でも、もうおごってもらったりしちゃだめよ。ちゃんとお金も返すこと」
「ほんとっ?」
「どれが?」
「え。…あの、行っていいの?」
「ええ」

 伯母さんは頬骨を光に浮き立たせながら、ポシェットに財布を入れて差し出した。でも、ボクがおずおずと手を伸ばして受け取ろうとすると、ニンマリ笑って引っ込めた。

「まずはお着替えなさいね」



 高いところでは風に乗って雲が流れて行く。太陽がまた顔を出すと、駅ビルの全面ガラスが光り輝いてロータリーを照らし出した。道行く人は眩しそうに目を細めている。ボクは俯いた。頭のリボンがかすかに揺れるのが感じられた。

『楽しく生きるのよ』

 お母さんはそう言った。二人で交わした、最後の約束。

『あゆちゃん。楽しく生きるのよ。精一杯楽しく』

 空気は冷たく澄んでいた。ボクは真新しいガラス張りの駅の前の真新しい木のベンチに座って、一人で昨日の男の子を待ちながら、初めてあの言葉を思い出している。お母さんは、ボクが物凄く悲しむのを知っていたから、そんな約束をしたんだと思う。いつもそうだった。ボク自身よりも、ボクのことを知っていた。

『お母さんはあゆちゃんと暮らせて、本当に楽しかったわ。あゆちゃんは?』
『楽し…ひぐっ…かった…』
『それなら、大丈夫。一人でも楽しめるはずよ』
『分かん…ないよ…』
『分からなくても、お願い』

 今でも分かんないよ、お母さん。とボクは心の中でつぶやく。こんな風に、何もかもがどうでも良くなるなんて思わなかった。あんまり苦しくって、他にほとんど何も感じないんだよ、お母さん? 知ってたの?
 そう、多分お母さんは知っていたんだと思う。ボクは、お母さんが知ってたということだけなら、ちゃんと知ってる。そう。伯母さんだって、きっと同じだ。冬休みの間だけこちらに居ていい、と言ってくれたのは、ボクに立ち直るための時間をくれたんだと思う。

「ふぅ…」 と、ボクはため息をついた。

 やっぱり分からないよ。この気持ちが消えるなんて思えない。
 だけどボクは決めたんだ。指切りだってしたんだ。
 だから、探してみるよ。
 あきらめないで、がんばるよ。

「よぉ、あゆあゆ」
「あ」

 顔を上げると、あの男の子が立っていた。人のことをパンダみたいに呼んでおいて、ポケットに突っ込んだ手でジャンパーの裾をバタバタ言わせている。何となく腹が立ってきた。うん、まず始めにその変な呼び方を止めてもらうことから始めよう。
 月宮あゆ、とボクは自分の名前を教えた。伯母さんに聞いたら、もしどうしてもと言うのなら、と、月宮という名前を保証してくれた。ボクは別にお父さんの家柄なんて全く知らないけれど、ずっと月宮でいたからそのままがいい。
 相沢祐一、と男の子は名乗った。昨日のどこか落ち着かない様子とは違って、単に遊びに来ただけ、という気楽そうな雰囲気だった。
 ボクはまず、昨日のお礼を言った。祐一君は頬の辺りを掻いた。

「いいって、そんな大したことしたわけじゃないし」
「だって…、うれしかったから」

 祐一君は目を丸くすると、明るい声で言った。

「何だ、笑うと可愛いじゃないか」 ボクが自分の耳を疑っていると、さらに付け加えた。「泣いているよりは、笑っている方が似合ってる」

 ふしぎ。
 本来は照れてあげるタイミングだった気もするけれど、その時のボクの心に浮かんだのは、不思議だな、という懐かしい思いだった。
 そうかぁ。ボクを見て、そんなことを言う人もいるんだね。
 脇に降り積もっている雪の表面を、片手に軽く一すくいする。氷のビスケットみたいな手ざわり。

 祐一君が思いのほか優しい声でボクを呼び、ボクは素直にうなづいた。


「行こうか、あゆ」
「うん」




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