らんら、らら、ら…

 どこからか歌が聞こえてくる。
 ボクの一番古い記憶。
 蒼い空を見上げ、風を聞く。

 流れる水に手を差し入れる。
 涼やかな感触に、きゃっきゃと笑う。
 きれいな魚が泳いでくる。

 もうそれからどれぐらい経っただろう。
 あれは夢? それとも本当の記憶?
 ただ覚えているのは、土や草の暖かい匂いと、
 透き通るようなお母さんの笑顔。



"Wonder Girl"

5



「焦げてる」
「…ん?」
「たい焼き」
「ん……、うおっ!」

 おじさんは慌てて鉄板に取りついた。けど、また腰を下ろした。あーあ、という感じだ。
 横から丸焦げの哀れなたい焼き達を覗き込むと、彼らは恨めしげな目をしてボクを睨んだ。
 …ちょっと復活不可能。かな。この焦げ方は、ボクにも経験あるよ。それはもう、文字通り、苦い経験が。
 その意味では、固い経験、と言ってもいいのかな。

「もうちょい早く教えてくれよ、嬢ちゃん」
「ご、ごめんなさい」
「はぁ…。も、いーや。あゆちゃんの話を最後まで聞くとすっか」

 おじさんはそう言って、『 た い や き 』と書かれた赤い暖簾もどきを外した。小型エンジンにも手をかけたけれど、躊躇して、これはヒーター用に点けとこう、と言った。
 あんまりあっさりと決めてしまったので、ボクはちょっと驚いた。

「えぇっ、いいの?」
「いいって、いいって。夕方までしばらく休憩。それより続きを聞かせてくれよ」

 おじさんは言いながら、黒いたい焼き達を”あっため器”――とボクが呼んでいる物――に放り込んで、一応な、と首をすくめた。一応って…、あれを誰かに食べろというつもりなの? まさかボクに?

「その『特別な風景』って奴を、ますます知りたくなったぜ」
「うーん、考えてみると、そんなに大した物じゃないような気がしてきちゃった」
「自分にとって本当に特別なもん、ってのは、大抵そんな風に思えるもんだよ」
「ふぅん…。おじさんにもあるの?」
「まぁな」 と曖昧な笑みを浮かべた。「それより嬢ちゃんの話だぜ」
「うん」

 ボクはパイプ椅子をがたがた言わせて、ヒーターに近寄った。おじさんもそれに倣った。
 密談をしているみたいで、わくわくするシチュエーションだけれど。

「でも、何だか暗い話だよね」 ボクは苦笑した。
「カレシには話してないのか?」
「ほとんど知ってるハズだよ。でも、通してボクの気持ちを喋ったことは無いや。こんなに時間が経ったから、それで初めてこうやって話せるのかも」
「そういうことも、あらぁな」

 雪がまた一段と激しくなった。おじさんは立ち上がってキャンバス地の屋根を下からはたいて、積もった雪を落とした。

「うん」
「は?」 おじさんは訝しげにボクを見下ろした。
「つまり、それが一つのポイントなんだと思うんだよ。積もった雪を下ろすってことが。それをしないとダメだったんだね。雪を下ろさないまま頑張っても、いつか雪崩が起きるんだよ。理屈なんてどうでも良かったのかもしれない」
「…お嬢ちゃん、電波な方?」
「うぐぅっ! ちがうよぅ!」 ボクは慌てて否定して、それから笑った。「えっと、じゃあ続きね。ボクが今の家に来る時の話から――――」

 そう。ボクがこの街に来る時の話。みんなが暮らしてる、この素敵な街。でも、ほとんど最悪に近い出会いをした街。



    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇



 平たい空の天辺に向かって白い煙がもくもく昇り、すり込まれるように消えて行った。その日はずっと快晴で、風も弱くて過ごしやすい日だった。数人の大人がそばを歩き過ぎて、時にはついでに身をかがめてボクに声をかけていく人もいたけれど、どの人も、二言三言ですぐどこかへ行ってしまった。今となっては分からないけれど、多分その時のボクは、失礼になるほど間の抜けた顔を向けたんじゃないかと思う。
 入院からたった三週間後にあったお通夜とお葬式で、ボクは確かにお棺の中で花に囲まれたお母さんを見た。でも、それはぴくりとも動かなくて、瞳の明るい輝きも無くて、お母さんの形をした、とても良く出来たガラスの人形のように感じられた。みんなが「綺麗な顔してる」と言ってくれたけど、ボクは心の中で「本当はもっと綺麗なんだ」と思っていた。覚めない夢を見ているような、お話の中にいるような気分だった。しかも、ボクはそのお話を読んでいる女の子ですらあった。
 手に持った皮の固いお饅頭を食べていると、背の高い伯母さんがおずおずと、一緒にお骨を拾いましょうと言った。ボクは残りのお饅頭を一息で食べてベンチから飛び降り、伯母さんについて行った。空の煙はもう消えていた。

 ふわふわした感じは、それから一ヶ月も続いた。
 ボクは生まれてからずっと住んでいた家を離れて、三軒の親戚の家に次々に預けられたけど、見慣れない風景ばかりなのにちっとも興奮しなかった。そこがいつも歩いている通学路だというみたいに無関心だった。帆船の見える港町にも行った。ビルも木も道も大きい大都会では、お祖父さんにラーメンを食べさせられた。それでもボクは、自分が何でも出来て何でも分かって、だから何もしなくていいのだ、というような気持ちから離れられなかった。だから帆船に向かって駆け出しもしなかったし、ラーメンが美味しいとも美味しくないとも言わなかった。
 そのラーメンのお祖父さんの所に居た頃のこと。お祖父さんが縁側で「笑っていろ」と言うので、ボクは適当に作り笑いを浮かべてみせた。お祖父さんは満足して「そうしていれば、いずれ心が強くなるんだ」と言った。ボクはほとんどそれを信じかけたけれど、それを見ていたお祖父さんの妹さんが、後でボクを呼び出した。しばらくしたらお父さん方の伯母さんの所に行けるようにするから、ちょっとの間我慢してなさい。あの人はとてもいい人だから、と。ボクはちょっと混乱したあと、すぐにまた面倒くさくなって、黙ってうなづいた。
 結局、その「ちょっとの間」も一週間ぐらい延びた。

 『感情』と『考える事』は、それまで全然関係の無いことだと思っていた。どちらかと言えば反対のものだと。簡単に怒ったり泣いたりしないで、いつでも冷静でいる子が、大抵は一番頭のいい人達だから。
 でもそれは間違いで、感情を無くしたボクは、ほとんどものを考えられなくなっていた。
 眠ることも、食べることも、トイレに行くことも出来る。そういうことは考えなくてもやれた。でも、ものを話したり読んだりすることは、とても難しかった。人に何かを言われても、その人が何を期待しているのか理解できなくなっていたし、頑張って理解しようという気も起きなかった。ただ、日ごろの習慣みたいなものがボクを何とか人らしく見えるように動かしていた。
 それでも心のどこかでボクは、だんだんひどくなって行くように思える自分の症状を恐がっていた。このまま壊れた操り人形のようにしていることに、ボクの中の誰かが無言の抵抗を辛抱強く繰り返していた。
 でもそんな無邪気な抵抗は、とても大切なことを脇に追いやることでしか表に出て来られないのだ。



「すごい雪でしょう?」

 背の高い伯母さんは白く息を吐きながら、そう言って一人で笑った。
 ボクはリボンを結び直して、緑色の車を降りた。髪の毛が雪混じりの重い風に吹かれてなびく。知らない場所で、知らない匂いがしたけれど、不思議とそれを怖いとは思わなかった。

「玄関を上がったら、靴は靴箱に入れてね」

 伯母さんは車庫入れをしながら、運転席の窓を開けて声をかけた。ボクは無言でその通りにした。
 家に入って、上品で傷一つ無い木目調の家具ばかりが目立つ居間の、皮張りのソファに小さくなって座って待っていると、伯母さんがグレーのコートを脱ぎながら歩いて来た。
 脱いだコートや、その下の服の感じは、会社で働いている人のようだった。男の人みたいに背が高くて、そばに来られると見上げてしまう。
 お母さんよりもずっと年配の人だった。
 伯母さんは、やっぱり木の足が付いた長方形のガラステーブルを挟んで、向かい側のソファに腰を下ろした。伯母さんが足を揃え、その上で手を組み合わせたので、ボクも姿勢を正す。

「じゃあ、改めてご挨拶。私は月宮美紗(みさ)。美紗伯母さんで、いいわよ」
「…うん」
「あゆちゃんの、お父様の、お姉さんなのよ。あなたのお父様は、とても強くて優しくて、少しおっちょこちょいなところもあったけど、本当にいい人だったわ」

 ボクは目を伏せた。
 お父さんを誉められても嬉しくない。
 お父さんはボクがとても小さい時に天国に行ってしまったから、ボクはお父さんについて何も知らない。お母さんは、あまりお父さんの話をしなかった。
 ただ一年に一度、命日のお墓参りの前の日は、お母さんが物凄く悲しそうなので、そのせいでお父さんのことは何となく嫌いだった。

「お母様にも、以前には良くお会いしたわ。とても綺麗で明るくて、素晴らしい方だった。女手一つであなたをここまで育てて来たのに……。ごめんなさいね、こんな話をして」

 伯母さんは身をかがめて、ボクの目を覗き込んだ。
 ボクが、気にしない、という風に首を左右に振ると、安心したように、また背もたれに体をあずけた。

「本当は、最初から私が引き取るつもりだったんだけど、年越しの準備やら何やらで、向こうもこっちも用意が整わなくって。でも、もう大丈夫。これからは、ここがあなたの家になるのよ」

 そう言って、にっこりと笑った。頬骨の高い伯母さんは、笑うとちょっと骸骨めいた顔になる。それがかえって、本心からの笑みってことを教えてくれる。
 何となく、懐かしいような気分になった。
 でもボクはその笑顔の陰に、ボクの様子を伺うような、ボクの反応を怖がっているような気持ちを冷たく感じ取っていた。伯母さんの笑顔が、少しだけボクに考えて話す力をくれた。だけどそれは、どうしてか始めは意地悪な方向に働いた。
 ボクはいつものように無気力にうなづく代わりに、上目使いに聞いた。

「…難しい子、って言ってた?」
「うん?」
「…前のお祖父さんや、叔母さんと叔父さん。ボクのこと、難しいって言ってた?」

 伯母さんは目を見開いて、一瞬考えた後に、とても丁寧に言った。

「あゆちゃんは、大変な時期なんですもの。落ち込むのも、仕方ないわよね。あんまり…、あの人達を嫌いにならないでね。――ねぇ、私のお話も聞いてくれる?」

 ボクが「うん」とも「いや」とも言う前に、伯母さんはどんどん話を続けた。

「私もね、結婚して旦那さんが居たのよ。もう20年も昔ね。二人とも、とっても子供が欲しかったの。可愛い女の子が居たらな、っていつも思ってた。でも、きっと運が無かったのね、子供は授からなかったのよ。そして、あの人は5年前に亡くなってしまった」

 ソファの肘掛を触っていた手を静かに上げて、ボクの頭を撫でた。恐る恐る、といった感じで、これもお母さんの陽気な撫で方とは全然違った。
 でも、イヤではなかった。
 そっと髪の毛に沿って手は下りて、ボクの細い肩を軽く叩いて離れた。

「だからね、あゆちゃん。私はあなたを預かることになって嬉しいの。本当はこんなことを言っちゃいけないわよね。お母様の元に居られるのが一番いいもの。でも、その次ぐらいには、伯母さん頑張るつもりよ。二人で、頑張ろう?」

 ボクは他に言いようも無いので、単純に言った。

「うん」

 ほっとしたみたいだった。目に見えて、顔が明るくなった。

「学校が冬休みで丁度良かったわ。しばらくゆっくり出来るわね。家は自由に使ってくれて構わないわ。どこに何があるかは、後で教えてあげるから――」

 伯母さんがてきぱきと話すのを聞きながら、ボクはまた、不思議な居心地の良さを感じた。

 あ、そっか。

 ボクは思い当たった。篠宮さんに似ているのかも知れない。とても反応の早いところとか、とても背の高いところとか。美紗伯母さんは篠宮さんのように元気溌剌という人じゃないし、他にも違うところも多いけれど…。

「あら、笑ったわね」 唐突に伯母さんが言った。
「え?」

 ボクは聞き返した。

「あゆちゃん。今、笑ったでしょう?」
「そ、そうかな…」
「ええ、伯母さんも嬉しいわ」 その言葉を証明するように微笑んだ。「ゆっくりで良いから、その調子で頑張ろうよね」
「うん……」

 何かが引っ掛かったけれど、錆びついてしまった頭はそれを引き当てるのに苦労した。数秒経って、ようやく思い出した。

「あの…、ボクが笑うのって珍しい?」
「そっかぁ、気付いていなかったのね。みんな、心配していたわ。あゆちゃん、あなた、お母様のお葬式から、一度もちゃんと笑っていなかったのよ」

 ボク達は、その日初めて会ったとは思えないほど仲良く過ごして一日を終えた。



 翌朝、美紗伯母さんはボクの顔を見ると声をかけた。

「パンでいいかしら?」
「う、うん。いつも朝はパンだった……」

 では、と言って伯母さんは台所――コンロが三つもある――の奥から、何かを取り出して来て、それを持ち上げて言った。

「見たことある?」

 ボクは頭を振った。

「胚芽入りなの。ちょっと面白い味がするわよ」

 伯母さんは手際良くそれをスライスすると、トースターに入れた。
 ボクは少々緊張気味だった。知らない人の家で、慣れないベッドで一晩寝ると、翌朝起きた時に何かとんでもないことが起きていそう。昨夜に顔を合わせた人も、朝の光の中では同じ顔をした誰か知らない人になっているかも知れない。
 もちろん、そんなことは無かった。美紗伯母さんは、美紗伯母さんだった。
 不思議なことに、ここ一ヶ月近くずっと他人の家を渡り歩いてきたのに、こんな気分になったのは今日が初めてだった。

「キッチンは立派なんだけど、料理する暇が無いの。家で一番働いてる調理器具は、トースターと電子レンジなのよね。あゆちゃん、しばらくしてこっちの生活に慣れたらガスの使い方を教えるから、キッチンはあゆちゃんも自由に使ってね」
「うぐっ…、お料理はニガテ…」
「あら。じゃあ、ますます練習しなきゃあ」

 どこかで言われたような。

「でも、私の考えが古いのかも知れないわね…、近頃の若い娘さん達には圧倒されるわ。あゆちゃんは男の子に尽くすのと、男の子を使うのと、どっちがいい?」

 ボクは固まった。
 伯母さんは、口の端に人の悪い笑みを浮かべた。思っていたより――似てる。困ったことだ。

 焼きあがった胚芽入り食パンにかじりつくと、確かに香ばしくて面白い味がした。こうしてみると、普通の食パンはあんまり味が無くて寂しい。その代わり、この胚芽入りのパンには、ジャムやピーナツ・バターを付ける楽しみは、あんまり無さそう。
 さも当然のように木目の入った、重くどっしりとした食堂のテーブルを挟んで、格子模様のテーブルクロスの上で、伯母さんとボクは食パンと目玉焼きを食べた。伯母さんは、朝食を家で食べるのは久し振りだわ、と言った。いつもは仕事が忙しくて、車の中でサンドイッチを食べたりと言った調子らしい。

「でも、もう辞めようかしら」
「どうして?」
「だって、あゆちゃんが来たから」
「ボクのせいで、仕事を辞めるの!?」 思わず声を上げた。
「えっ? ……そうじゃないわ。ふふっ、違うわよ」 伯母さんは、あの骸骨の笑顔を見せた。「あのね、伯母さん、本当は絶対にお仕事続けなきゃならない理由は無いの。一人でお家に居ても寂しいからお仕事してるのよ。でも、あゆちゃんが来たから、ね」

 ボクは何も言えなくて、ただ顔を赤くして俯いた。

「それについてはゆっくり考えて決めるから、気にしないでいいわ」 壁の時計を見た。「さーて、もうそろそろ行かなきゃ。ごめんなさいね、一人にしちゃって。好きに遊んでいていいからね。お散歩してもいいし」
「うん」

 伯母さんはパン屑を払って立ち上がると、自分の分の食器を片付け、小さなバッグを取った。

「じゃ、行って来ます」

 ちょっと面白がっているような声を残して、伯母さんは会社に出掛けて行った。ボクはパンの残りをさっさと食べ終わると、磁器の皿を流しに片付ける。少し迷ったけれど、結局勝手に冷蔵庫を開けて、ジュースを見つけて、コップに一杯飲んだ。

 居間に戻ると、ボクは少しよろめいた。がらんどうの家に一人だった。
 ボクは昨日も座ったソファに深々と体を沈めた。フローリングに届かない足をぶらぶらさせながら天井を見上げると、四隅の小さなライトが逆にボクを見下ろしていた。
 寂しくは無かった。ただ、知らない家に一人という状態が、とても不思議に感じられただけだった。ボクは無力だったけれど、それもびっくりするほどあっさりと受け入れてしまっていた。あきらめと、何をあきらめたのかも分からない無感覚。ボクは相変わらず、書き手が居なくなって行き先が狂ってしまったお話の中に居て、同時にそれを読んでいる女の子だった。
 かぎっ子と呼ばれる子達は、みんなこんな風におかしな気分を感じるものなのかな、とボクはぼんやり思った。それとも、今にこんな状態にも慣れてしまって、何でも自分でやれるようになるのかも。そうなれれば、ちょっと嬉しいな。伯母さんは親切な人だから、ボクは迷惑を掛けたくないよ。それに、ボクが強くなって自信を持っていられるようになれば、この、胸にぽっかり空いて、もうそこに何があったのか分からなくなってしまった穴も、いつかは塞がるのかも知れないね――――。
 ボクはそんなことを考えながら、知らぬ間に溜まっていた一ヶ月分の疲れに襲われて、深い深い眠りに落ちて行った。
 夢のカケラがボクを裏切り、本当のお話を突き付けるなんて気付かずに。



         ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇



 本当は、どんな夢を見たのかは覚えていなかった。ただ、とても幸せな夢だった。真っ白い喜びみたいなものが降り注ぐ中を、ボクは飛び跳ねながら走り抜けた。時折ボクは立ち止まって、周りに生えている薄青く透き通った雑草の固まりを覗き込み、その中に大好きな何かを発見しては笑った。そこでは土くれや水の流れだって赤や緑にちらちらと花火のように光って、ボクの行く手を照らしてくれた。あちらの路地を曲がると、こちらの広場に出る、と言った具合に夢はどんどん折れ曲がって行った。やがてボクは、遠くに懐かしい人を見つけたような気がして、そっちに走って行った。
 ボクは自分の笑い声で目を覚ました。するとボクを抱えていたお母さんがボクの頭を撫で、どんな夢を見ていたのか聞いた。ボクは喜び勇んで、覚えていないはずの景色を、目の前の優しい瞳に向かって一気にまくし立てた。

「初雪が降って、一面真っ白なんだよ! 木の枝から見ると、遠くに綺麗な汽車が走ってて、その後を煙が追っかけてくの。ボクが近付いて行くと、動物達がみんな笑ってくれるんだよ。それでね、お母さ――」


   お 母 さ ん は い な い ん だ よ っ !


 ボクはお母さんの手の間をすり抜けて、一瞬の内に果てしなく落下していった。頭の後ろの膝の感触も、波打つ黒髪も、何もかも全部かき消えてしまった。あとに残る、ウソみたいな生々しさ。ボクは一人冷たいソファに、名前の無い子猫のように横たわっている。

 ソファのクッションにしがみついて息を吸おうとしたけれど、無理だった。何十秒も経っても息は吐くことも吸うことも出来ず、潰れたままの胸には何度も包丁で斬りつけられたみたいな激痛が走った。急に吐き気がこみ上げて、ボクはソファの上に胚芽入りのパンと目玉焼きを全部戻してしまう。苦い味がした。眼の端から涙が流れる。体は汗をだらだら流しながらしぼんでいく。それでも、ボクは意識を失わなかった。
 どうしてボクは生きてるの。どうしてボクは死ななかったの。
 なぜ自分がこれを忘れていたのかを思い知らされた。そんなことに耐えられるはずが無いから忘れていたのだ。

 ようやく泣き出した。赤ん坊のように、声を上げて泣くことで呼吸と意識が元に戻った。口の中に残るイヤな感じを味わいながら、喉が枯れて痛くなるまで泣き続けた。泣き声が部屋に響いて木目に吸い込まれる。誰も応える人はいない。体の奥底から来る震えは、いつまでも収まりはしない。
 好きな人の後を追う人達は、悲しみの余り自殺するんじゃない。苦しみの余りそうするんだ。ボクにはそれがハッキリ分かった。

「できないよ……」

 ボクは物言わぬ聴衆に訴え続けた。

「できないよぅ……」



 遠くから美紗伯母さんがやって来て、ボクの姿を認めると走り寄ってきた。数歩の距離に来ると、ボクの汚れた格好を見て息を呑んで立ちすくんだ。

「あ、あゆちゃん、どうしたの、それ!」

 ボクは黙って雪の中に突っ立っていた。白い息が薄くただよってうっとうしい。伯母さんは近寄ってしゃがみ込み、目線の高さをボクに合わせた。

「何があったの? 誰かに……何かされたの? もう大丈夫だからね、伯母さんに教えて?」

 ボクがなおも黙っていると、伯母さんは腕を掴んでボクの体を回し、服の汚れ具合を調べた。もう一度正面を向かせて、ボクの頬に手を当てた。ボクの体温がとても冷たいので、びっくりしたように一瞬手を離した。

「あゆちゃん、とにかくお家に帰ろう?」

 そうだね。と、ボクは内心答える。伯母さんの家に行こう。ボクの家はもうどこにもない。

 家に入ると、伯母さんは何も言わず、急いでお風呂を沸かした。やがて、お風呂から上がったボクの体を丁寧に拭くと、新しいパジャマを着せて、その上にタオル地の毛布を巻きつけた。暖かくした食堂で、テーブルの同じ側に並んで座る。お茶が置いてあった。

「気持ち悪くなったのね?」 伯母さんはボクと視線を合わせずに、でも優しく言った。「ソファは、もう綺麗に拭いたから大丈夫よ。気にしないで」

 ボクは、ごめんなさい、と小さく呟いた。

「お茶をお飲みなさい。落ち着くわよ。……それで外に出たのかしら。気分を変えようと思って?」

 うなづく。

「外では、どうしてあんなに汚れたの?」
「転んだの」
「いじめられたわけでもないのね?」
「誰にも会わなかった」
「そうね。そうだと思うわ。伯母さんはあゆちゃんを信じるわ――お茶、飲んだ方が良いわよ」

 ボクは茶碗を手にとって、一口すすった。砂場に水をまくみたい。染み込んで、あっという間に消えてしまう。かえって喉が乾いた。
 伯母さんは言った。

「今日は何も言わないから、ゆっくりお休みなさいね。明日、お話しましょう」
「うん」

 ボクはボクにあてがわれた寝室に向かった。



 あるいはその日の内に話し合っていれば、と言うのは無意味な考えなんだと思う。でも、翌日ではダメだった。伯母さんは一晩では変わらなかったけれど、ボクは変わってしまったんだから。



 明くる朝、目覚めると足が棒のようだった。昨日、がむしゃらに歩き回ったせい。体中が筋肉痛で痛かったけれど、どうにかベッドを抜け出して服を着替えた。いつものようにリボンを結ぶ。
 しばらくして、伯母さんが起きてきた。

「おはよう、あゆちゃん。早いのね」

 ボク達は何事も無かったかのように朝食を取った。胚芽入りの食パンとスクランブルエッグを食べ、今度はちゃんと頼んでジュースを飲んだ。昨日と同じように伯母さんは先に立ち上がって、行ってきますを言った。

「ちゃんと鍵をかけておいてね。それと、知らない人が来たら、例え伯母さんに呼ばれたと言われても、決してドアを開けないでね。伯母さんが重傷だ、とか言われてもダメよ」
「うん」 ボクは首を縦に振った。「でも、お母さんが帰ってきたら、構わないよね?」
「――え?」
「もしかしたら、だよ」 ボクは曖昧に笑った。
「…あゆちゃん?」
「あ、もちろん戸締りはしておくから――――」
「あゆちゃんっ」 美紗伯母さんはボクの腕を掴み、次いで両手でボクの顔を挟んで、目と目を合わせた。「何を言っているの? お母様が…え…?」
「多分、無いけど…、でも、もしボクが頑張ったら、もしかしたら、あるかもしれないから。諦めないで頑張ったら…」

 伯母さんは突然ボクをぎゅうっと抱き締めた。

「苦しいよ…」
「あゆちゃん。今日はお母様はいらっしゃらないと思うわ。だからきちんと鍵をかけておいてね」

 身を離した伯母さんの顔は、ほとんど泣きそうになっているように見えた。他人が泣きそうになっているのを見るのは珍しい。

「伯母さん、今日は早く帰ってくるから、それまではちゃんとお家に居てね?」
「うん。分かってるよ」

 伯母さんが首を振りながら出て行くと、ボクは言われた通りに扉を閉め、鍵をかけた。そして居間に戻り、ソファに座ってテレビをつけ、大人しくするように気を付けた。あんまり歩き回ると、また気持ち悪くなるかもしれない。
 一時間に一度、何気なく勝手口と玄関に顔を突き出して耳を澄ませた。伯母さんの言う通り、お母さんの帰ってくる気配は無かった。死んでしまったのだから当たり前だけれど、もしかしたら、ってことがある。備えあれば…何だっけ。とにかく、やってみて損は無いと思うから。
 その日、美紗伯母さんは本当に早く帰って来た。伯母さんは言うことは必ず守る。ドジで間抜けなボクとは大違い。昨日は六時ぐらいに帰って来たけれど、今日は二時だった。

「何も無かった?」
「何も無かった」
「誰も、来なかったのね?」 誰も、という言葉が不自然に響いた。不自然に明るい表情だった。
「うん。誰も、ね」 ボクは意地悪をする気は無かったから、ちゃんと付け足した。「お母さんも帰って来なかった」
「そう…」

 伯母さんは急に眉を曇らせた。ボクは急に気になって聞いてみた。

「美紗伯母さん。ボク、変かな?」
「え?」
「ごめんなさい」
「あゆちゃん…」

 大人の、それも年配の女の人が泣くのを初めて見たから、ボクはすっかりドギマギしてしまった。本当に申し訳無くて、何度も何度も謝った。やがて、きつく抱き締められて何だか安心したボクは、伯母さんのすすり泣く声を聞きながら夢心地になり、眠りこんでしまった。どうしてこんな時間に眠たくなるんだろう。子供じゃないのに…



 再び目を覚ましたのは真夜中で、ボクはパジャマを着てベッドの中に居た。むっくりと体を起こすと、隣に美紗伯母さんが眠っていた。伯母さんを起こさないように、慎重にベッドを抜け出す。
 トイレから出ると、ボクは暗い廊下を見つめて呆然とした。何度もこんな廊下を見てきたことを思い出す。こんな恐いところを、どうやって歩いてきたんだろう。体がひとりでにガタガタ震え出した。もう戻れない。誰も助けてくれない。同じ家にいるのに、伯母さんはもう手の届かないところにいる。床にべったり座って、シクシクと泣き出した。何度も、お母さん、と呟いた。あのあったかい胸が隣に居て欲しい。あの明るい声で励まして欲しい。
 いつまでもこうして願っていたい。
 30分ぐらいして、心配顔の伯母さんがやってきた。床にへたり込んでいるボクを抱え起こし、支えながら寝室に連れて行ってくれた。



 数日後、伯母さんはボクに、お買い物に行こう、と言った。そこで車で出かけることになった。伯母さんがハンドルを握りながら話しかけて来た。

「こんな街でも、一応ショッピングセンターがあるのよ。服でも買わない? 春物の服って、選んでるだけで春になった気分になれるし」
「うん、ボクも春は好きかな。でも、一年中好きだもん」
「そういえば、子供服にも春とか秋とかってあるのかしら。ま、いいわよね。あゆちゃん、ショッピングとかって、良く行くの?」
「ときどき」
「外食とかは? あ、お外で食事をすることよ」
「うーん、あんまり…。良くたい焼きを買ってもらうけど」

 伯母さんは、ふふふと笑った。

「それは外食と言うより買い食いね」
「うぐぅ…」
「甘いものが好きなの?」
「甘いものも好きだけど、たい焼きが特に好き」
「ふぅん、どうして?」
「うーん…、わかんないや」
「でも、確かにたい焼きは美味しいわよね」
「うんっ」
「帰りに買って行こっか?」
「うんっ」
「よーし、元気なお答えで大変よろしい。伯母さんは、元気な子が好きよ」

 伯母さんは片手でボクの頭をぽんぽんと叩いて、にっこり笑った。ボクはほんのり胸が温かくなって、顔を赤くしながら前を向いた。
 窓の外を流れる景色は、どこを見ても真っ白な雪だらけだった。こんなに沢山建物があるのに、その全部が雪にうずまりそう。こんなので人が暮らせるのかな、とボクは首をひねった。

「買い物、急いだ方がいいかもね」 とボクは呟いた。
「え、どうして?」
「帰る時には車が雪に埋まっちゃうかも」
「ふふっ」 伯母さんは可笑しそうに笑った。「埋まっちゃったらどうしようか? 一生雪の中で暮らそっか?」
「もぅ〜」

 からかっているのが分かったから、ボクは口を尖らせてそっぽを向いた。伯母さんはクスクス笑い続けながらレバーを操作してウィンカーを灯し、街中を抜けて郊外のショッピングセンターへ向かう道に入っていった。ボクは横の窓に顔を押し付けて、降り積もる雪の中で途方にくれているかもしれないお母さんのことを思った。
 センターには大きな灰色の立体駐車場があって、もちろんそこは雪に埋まりはしない。螺旋階段のような坂をぐるぐる回って登って行く。こんなもの初めて見たけれど、確かに便利な建物だ。ボクは心の中で、ぐる、ぐる、ぐる、と坂を数えていく。8回目の坂を登ったところで車を止め、エレベータに乗ってショッピングセンターに入った。店内は明るくて、流行歌が流れ、、意外なぐらいお客さんがいっぱい。ボクの中のスイッチが、いつものように、ぱたん、と切り替わった。それが無言のまま伝わったようで、伯母さんは心持ち肩を落としてかすかなため息をついた。
 それでも伯母さんはボクの手を引いて、ゆっくりと春物のファッションコーナーを歩いて回った。鮮やかな色や、奇妙なカットで目を引くものが見つかると、それを手にとってボクに見せた。ボクはほとんど視線も動かさないから、伯母さんがボクの前に回ってくる。目が合うと、胸の中に小さな罪悪感が生まれ、背骨に沿ってするりと登って後頭部のバケツにぽいっと捨てられる。次にスイッチが戻った時に、バケツの中身が心の中にぶちまけられるのが恐い。ボクは出来るだけ今の状態を続けようと、一層体の力を抜いて行く。
 ふと気付くとボクはセンターの中の喫茶店にいて、目の前にココアがあった。ボクは自分の意識を引き戻したものは何だろう、とぼんやり思った。ココアの甘い香りのせい?

「あゆちゃん、ココア冷めちゃうわよ」

 静かな声がした。伯母さんの声。ボクは手を伸ばしてカップを取り、一口啜った。まだ冷めてない。

「美味しい?」

 ボクはこくりとうなづいた。伯母さんは長い息を吐いて、祈るように組み合わせた両手の肘をテーブルに乗せ、首を垂れた。ついで、慌てたように顔を上げ、頬にかかる髪を払う。笑みを浮かべた。

「そろそろ、帰ろっか?」

 ボクは再びうなづいて、熱くて濃いココアを飲み干した。ココアだけが印象に残った。



「ええ…、物凄く閉じこもっているか、お母様が帰って来るって信じているか…、ええ、もうそのどっちかで…、はい、…はい…」

 ボクはまた悪いことをしている。立ち聞きはいけないことだ。だけどどうしようもない。伯母さんは電話機なんかじゃなく、ボクに話して欲しかった。でも、期待を裏切ってばかりのボクに話しかけてなんて言えない。伯母さんの笑顔と優しさは好きだった。伯母さんの言葉と手はもどかしかった。せめて誰かがはっきり、お前は悪い奴だと言ってくれればいいのに。何だか悲しくなってきて、ボクは静かに涙を流しながら寝室に戻っていく。背中に伯母さんが知らない人に話しかける言葉を聞きながら。

「ええ、分かります。時間をかけないと判断は難し…、え、数ヶ月も? ええ。はい、会話はしてます……」



 そして最後にその日がやってきた。原因は、ボクが門柱にもたれかかって通りを見つめながら、お母さんが帰って来るのを待っていたこと。その日は何となく、絶対いいことが起きるような気がしていたのだ。だから一日中「閉じこもり」もしなかったし、朝食の時も伯母さんと普通に話が出来た。そして、夕方になると浮き立つような気持ちがますます強くなって、今にもお母さんが長いポニーテールをなびかせながら、ただいま、と現れそうな気がした。おバカさんねぇ、今までの悲しい話はぜんぶ嘘だったのよ、と言ってくれて、また一緒に縁側で日向ぼっこしながら学校の話でも出来るような。
 そこでボクは長靴をはいてコートを着込み、月宮と書かれた表札の下に行って、その時が訪れるのを、まだか、まだかと待っていた。三方に延びる道路をかわるがわる覗き込む。時々車が目の前を通り過ぎて行く。お母さんがすぐに現れなくても、別に落ち込んだりはしなかった。待つのも楽しい。
 あんまりそわそわしていて、その緑色の車が伯母さんの車だと気付くのが遅れた。ボクが大慌てで家の中に駆け戻った時には、もう伯母さんはボクの姿を見てしまっていた。伯母さんを悲しませないために、お母さんのことは口にもしないようにしていたのに、こんな所を見られたら台無しだ。ボクは長靴を脱ぎ捨て、コートをハンガーにかけて、急いで居間に戻ってソファに飛び込み、テレビをつけた。次の瞬間に伯母さんが入って来て、一歩踏み込んだところで立ち止まった。ボクは恐くて顔が上げられない。

「どうして」 しわがれた声が震えている。「どうしてなの、あゆちゃん。どうしてそんなことするの?」

 とても振り向くことなんて出来ない。伯母さんが鼻を啜る音がして、泣いているんだと分かった。たまらないほど胸が痛む。それに刃向かうように、何かの衝動が背中の辺りからじわじわと涌き出て来る。心の中で、イヤだよっ、と叫んで、ボクはその衝動を押さえ込もうとした。でも、触れた瞬間に、ボクは逆にそれにとらわれ始めていた。

「…どうして誤魔化すようなことをするの。伯母さんが信用できないの? …そうよね、こんな歳になるまで子供を育てたことも無いし、夫を亡くしてからは仕事に逃げてばかりで」

 そんな言い方、止めて…。

「母親役は失格よね。でも分かってたわ、そんなこと。だから、お母さんと呼んで、なんて始めから言わなかった。ただ二人でやっていけたらいいと思っていた。あなたが一人前になるまでそばに居てあげられたら、辛うじて私が生きている意味になるわ」 衣擦れの音。フローリングの床に膝をつく気配。「いいえ。いいえ。あなたに責任を負わせる気は無いの。私が何を思っても、それは私の身勝手よね」

 止めてよ。

「でも、私、頑張ってるのよ。いつでもあなたのことを考えてるのよ。あなたももう少しだけ頑張って、って言うのは、そんなにひどいこと? た、耐えられないわ、こんなの――」

 まだ間に合う。全部締め出せば、まだ間に合うっ。本当に何もかも、大切なものがどれかなんて確かめずに全部捨てて、一気に自分の中に飛び込んで行けばいいんだ。いざとなればほとんど卒倒に近いぐらいのスピードで出来るはず。
 咄嗟にぎゅっと目をつぶって、両手を耳に押しつける。膝を上げて体ごと抱え込んで、消えた視界の中に本当の暗闇を見つけると、全力でそこに向かって行く。あそこに逃げ込めば、誰も傷つけずに済む。優しい伯母さんとイヤなことにならずに済む。
 もう少しというところで、両手が引き剥がされた。

「止めなさい、あゆちゃんっ! 強い子になるんでしょっ!」

 ボクは掴まれた腕をぶんぶん振り回した。頼りないこぶしが、伯母さんの腕や肩にでたらめに当たる。体がものすごく熱くなってきた。涙がぽろぽろこぼれ落ちた。

「楽しく生きるんだって、約束したんでしょっ。こんなやり方でいいの!? 閉じこもったり、お母様を待ったりするだけなの? あなたの――」

 イヤっ、聞きたくない!

「あなたのお母様は死んでしまったの! もういないの…、もう会えないのよ! お願いだからあきらめて!」
「できないよっ!!」

 ついに衝動が爆発した。ボクは小さな足で伯母さんの肩の辺りを蹴飛ばした。伯母さんは顔を背けながら倒れ、ボクは足に残るいやな感触を打ち消すために固い床に飛び降りる。それでも、心の中に蘇った痛みはひたすらにボクの心をえぐり続ける。
 「現実」は今じゃなくて、過去のこと。
 幾つもの可能性が消えて、たった一つ書かれてしまった歴史のこと。
 一度書かれてしまったら、もう変えられない。
 最初の予言のページを開いてごらんよ。

 幼い頃に見た川の魚はどこへ行ったの。
 手を伸ばせばさわれたはずだった。
 ボクと同じ名前の、とても綺麗で小さな魚。
 ボクの手の間をすり抜けて泳ぎ去って行くのを、
 お母さんはただ微笑んで見つめていた。


 そうだ。
 もう会えないんだ。
 もう会えない…っ


 ボクは滅茶苦茶に叫びながら、ガラステーブルの上のトレイを掴んで振り回し、ボクを取り囲んで圧倒する堂々とした木目の家具達に次々と打ちかかった。ソファや、飾り棚や、テーブルスタンドを殴りつけると、そこに深い傷が刻まれて行った。伯母さんが「あの人の形見なのに!」と叫んで泣き崩れ、ボクはたまらなくなってコートも着ずに家を飛び出した。
 泣きじゃくって息も出来ないほど苦しいのに、ただひたすらに走っていった。夕陽が雪の積もる街をオレンジ一色に染め上げる中に突っ込んでいって、その中に溶け込めたらいいと思っていた。いつまでも寒い夕陽の中にいて、誰にも知られず、誰とも会わず、ただ死ぬのを待っていたい。ボクは歴史の中にいたくない。
 ボクは闇雲に走って行く。何度も雪に転んで、何度も人にぶつかって、何度もクラクションを鳴らされながら、それでも走るのを止められない。泣くのも止められない。ぼやけた視界の中に沢山の人の足が見える。その足の列を全部追い越した時、ボクは誰も知らない場所に行ける。そう思った。

 ボクはそこで祐一君と出会った。




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