良く晴れた日にプールに行った。
 楽しみにしていた、市民プール。

「それっ」 と、お母さんが青と白の縞模様のビーチボールを投げる。
「わっ」

 ボクは腰ぐらいの深さの温かい水をじゃばじゃばと掻き分けてボールに飛びつく。つるん、とボールは逃げて行く。何度目かで、ボクはやっとこさそれを掴まえ、両手で頭の上に構える。ボールから、ボクの頭に水滴が垂れる。そのままゆっくり近づきながらボクは不敵な笑いを浮かべ、お母さんは大げさに怖がって見せる。長い髪に太陽がきらめく。

「えいっ! ……あれ?」

 思いっきり振りかぶった拍子に、ボールはボクの体の後ろに落ちてしまう。お母さんが遠慮なく爆笑して、ボクは赤面しながら、慌てて再びボールを掴まえに行く。



 ボクは泣きながら目を覚ます。





"Wonder Girl"

4




 ボクはしばらく言葉を切って、目をつぶって深く沈み込んで行った。今でも、時折あの頃の記憶、あの頃のボクの叫びに苛まれることがある。誰の手も届かない場所に居た。ボクはちょうど子供一人分のささやかな地獄でのた打ち回っていた――――

 『時間』という名の、鉛のように重く忍耐強い氷河が、飽くことなく緩慢にボクを押し潰し、すり潰し、がりがりと削り取って行く。ボクは言い訳をする暇も無いままに情け容赦無くぺちゃんこにされ、ずたぼろの雑巾のようになるけれども、決して許しては貰えない。そして氷河はその狂暴な感情の爪で、のた打ち回るボクから少しずつ着実に何かをこそぎ取っては、集めた欠片を、あの恐ろしい、常しえにたゆたう灰色の海に持ち運んで行く。ボクは二度と元には戻れない。
 傷の痛みは際限無く深まって行き、ボクは必死になってそこから逃げ出して、あるはずだった地面の形を懸命になぞる。花が咲き、小鳥が囀る野原。飛び去る雲の形を映して表情を変える、青く美しい湖。風が吹けば爽やかな緑の香り。
 手の届かない幸せの夢からずり落ちながら、いつまでも崖の上を見つめ続ける自分の横顔を、ボクは冷たく眺める。

 夜中に目を覚まして耳に流れ込んだ涙を拭く。ボクは上半身を起こし、カレンダーに付けられたような確実な予感がもたらす苦痛にまだ全く慣れることのない自分を見つけて、半ば安堵し、半ば絶望する。
 じっとしていると、そのまま悲しみの底を突き破ってしまいそうで、ボクはベッドの上で膝を抱えて、時が止まったような夜の闇がボクを包み込むのに身を任せる。今ではこの闇だけが熱心にボクの味方をしてくれる。その暖かい手でボクの目から現実を隠して、ゆっくりとボクを癒してくれる。
 何も感じなくなれればいいのに、とボクはぼんやりと考える。そして、誰もボクを知らないでいて欲しい。
 胸にあるもの全てを麻痺させて、ただ透明な存在になりたい。太陽の矢も月の雫も、行き交いつづける人の波も、そこにある、切れ目にナイフを隠した会話の全ても、ボクに構わずに、ボクを通り過ぎて行って欲しい。ボクはそんなものに関わりたく無い。気付いてしまったら、ボクには抵抗する事も我慢する事も出来ないんだから。それが肌に迫ってきていることを、ボクは知りたくない。

 それでも最後には必ず何かが足を引っ掛けてボクを転ばせ、誰彼なく均等に照りつける現実の光の中にさらし者にする。例えば、雨戸の隙間から部屋に射し込む朝日とか、道行く人の声高な喋り声とか、あるいは自分のお腹が鳴ったり、トイレに行きたくなったりすることで、ボクは唐突に自分が普通に生きていることに気付いてしまう。
 胸の辺りに詰まった塩辛い夢が苦しくて、大きく深呼吸をする。息を吸い切ると一瞬の恍惚が満ちて、息を吐くと清冽な現実が汗で濡れた寝巻きの袖に触れる。悔しくて、情けなくて、ボクは深呼吸を繰り返す。そうしている内、ボクの体は勝手に空気と折り合いをつけてしまって、ボクは何かに置いてけぼりを食らったような気分のまま着替えをすませて、一階に降りて行く。

 朝食を用意していたエプロン姿のお母さんが、色あせた唇に静かな微笑みを浮かべて「おはよう」と言う。
 ボクも「おはよう」と言う。

 …―――――そんな風に一日という時間は始まるのだ。





 電車が大勢の小学生を吐き出して、ホームは一気に騒がしくなった。
 列をなして改札を抜けた。周りの子達は今しがた終えて来た秋の遠足の新鮮な記憶と、普段の校舎にいないという開放感で、ひっきりなしに喋りあっている。遠足の行き先は紅葉のハイキングコースだったから、話題は主に、あの場所が「ポイント」だったとか、途中で変な物を見つけたとか、あるいは歩きながら話していた芸能人の話の続きとか。
 大人達がうっとうしそうに避けて通る中、ボク達は駅の外に並んで、先生の言うことを聞いていた。最後に声の大きな体育の先生がいつもの台詞を言って、解散になった。

「えー、それじゃ、家に帰って『ただいまー』を言うまでが遠足です。寄り道をせずに帰りましょう」

 のろのろと振り向くと、人影が近付いてきた。見上げると、また篠宮さん。意外だった。
 ジーンズに明るい色のセーターを着た篠宮さんは隣に並ぶと、今朝の事など何とも思っていない調子で簡単に言った。

「あゆちゃん、帰ろっ」

 ボクがじっとしていると、肩を回して自分のリュックをボクのリュックに軽くぶつけると、もう一度言いなおした。

「どしたの? 帰ろうよ」
「…帰りたくない」
「はぁ?」 と、ボクの顔をうかがう。「何だろ。登校拒否ならぬ、下校拒否ってのもあるの?」

 そう言って、それが冗談である印に、にやりと笑ってみせる。

「ごめんなさい。でも、一人で帰るから…」
「帰りたくないんじゃなかったっけ?」
「うぐぅ…」
「うぐー……。ううっ、それ、難しいな」 と後ろから声がして、後頭部を軽くはたかれた。

 調理実習から後は班活動が無かったから、小橋君と面と向かって会うのは久し振りだった。篠宮さんとは時々話をしたけれど。
 周りを見れば、殆どの生徒はもう残っていない。めいめい、好き勝手な方向へ散らばって行ってしまった。
 小橋君は、にやにやしながら言った。

「よぅ。帰り道でも忘れたか?」

 篠宮さんが冷たい視線を向ける。

「あんた、女子に気安く触んじゃないよ。スケベ」
「おめーには、頼まれたって触らねぇよー。でかぶつめ」 鼻にしわを寄せて言う。
「ばっかじゃないの。好きに言えばァ? あゆちゃん、帰ろっ。こんな奴ほっといて」
「うぐぅ…」
「どーしたの」 小橋君はすぐにボクの様子に気付いた。
「帰りたくないんだって…」

 小橋君は、おお、と言った。

「そりゃ丁度いいや。俺んちの近くの公園、来ねぇ? 最近リスが出るんだよ」



 確かにリスがいた。ボクの知っている裏山のリス達とは違って、体全体が地味な色で、尻尾が余り大きくない。ジャングルジムの上に覆い被さった枯れ枝の上をちょこまか逃げ回るそのリスを、小橋君と篠宮さんは歓声を上げて追いかけていた。
 ボクはスカートを押さえてブランコに座ったまま、どうしてボクはこんな所にいるんだろう、と思った。

「今朝は大丈夫だった?」 篠宮さんがジャングルジムの天辺から聞いた。「調子悪そうだった」
「大丈夫…」
「何、今朝って?」 鉄棒に座っていた小橋君が篠宮さんに尋ねる。
「あゆちゃん、体調悪いって、ハイキング来なかったから。うちらも歩きながら結構心配しちゃった」
「公園で待ってたのか?」
「そ」
「げ、勿体無い。途中で団子売ってたのに。月宮さん好きそうな奴」

 ボクは思わず口元をほころばせた。でも、次の瞬間には理由の分からない罪悪感に駆られてしまって、顔を伏せた。
 今朝、ボクはハイキングコースの入り口で篠宮さんに話をして、折角の誘いを無下に断ってしまった。自分でも冷たい言い方をしたと思うし、篠宮さんも少しびっくりしていた。
 ボクは他の人達を見送った後、入り口の公園で、待機組の年取った先生達と一緒に居た。ずっとベンチに座って、膝を揃えて、下を向いて、何も見ないように、何も聞かないようにしていた。じっと時間が過ぎるのを待っていた。
 馬鹿げた話だけれど、山や紅葉が怖かった。公園の管理人が植えた赤い寒椿が怖かった。自分がそこにいることを信じたく無かった。

「みんな、あやしげなお菓子持ってきて面白かったのに〜」

 と篠宮さんは残念そうに言う。そのお菓子や弁当の持ち寄りが「食べまくりツアー」の正体だった。

「鹿児島限定のスナックとかさ。賞味期限切れだったけど」 軽く笑う。「チョコのお菓子なんか、箱の中で一体化してたし。しかもそれ、夏に一度どっかに持って行って結局開けなかった奴だとか言うし。信じらんないよねー」

 小橋君が「って言うか、んなもん食うな」と小声で言っていた。

「うぐぅ…ごめん」
「いや、謝られても困るんだけど。あゆちゃんは何か持ってきてた?」

 当然、何も持ってきていなかった。そんな気になれなかった。ボクは半ば投げやりな気持ちで、何も用意できなかったから、と言った。二人は、ふぅん、と言ったきり、何も言わなかった。カラスが一声鳴いて飛んで行くのを、三人で眺めた。

 砂場では幼稚園の男の子が二人で遊んでいた。知らない人の家のブロック塀には、英語の落書きがあった。遠くからバイクのエンジンが上げる甲高くて物悲しい音が聞こえた。

 木枯らしが吹いて、ボク達は同時に身をすくめた。

 太陽はいつだってボク達に関係無く、決められた時間割に従って天の道を下る。
 赤みを増した光が、周りの家も、塀の落書きも、ジャングルジムも、木も、個性の無い同じ色に染め抜いて行く。遠近感も現実感も無くした景色は、赤いものしか映せない壊れたテレビの画面のよう。
 ボクの視界はゆっくりと一つにまとまって、不意に歪んだ。

「お母さんが…」 ボクはこみ上げるものを必死に堪えて、それだけ呟いた。
「え?」 二人が同時に聞き返す。
「重い病気なんだよ……多分、もう治らない……もうダメなの……」

 二人は絶句した。しばらく、ボクのしゃくりあげる音だけが聞こえていた。

「そんな…、おいマジかよ」 小橋君がぼそりと言うと、
「バカっ」 と、篠宮さんが小声で制した。
「だって、月宮さん、お父さんいないんだろっ」
「本当だよ…、もうきっとダメなんだよ……」 ボクは鼻を啜りながら切れ切れに言った。自分がこんな事を必死に喋っているのが不思議だった。二人に何かを納得させることで、それをボク自身に納得させようとしていた。「おかしいと思ったんだよ、昼間に家に居ないから。……病院に通っていたんだよ。本当は入院しなきゃいけないのに、無理して家に居たんだよ。……このごろは、”発作”も起こすよ。……ボク、何も出来なくて、おたおたするばっかりでっ、泣いてばっかりでっ――――!」
「ちょ、ちょっと!」

 篠宮さんがたまりかねたように声を上げて、ボクを止めた。曖昧な笑みを浮かべて、ボクのくしゃくしゃの顔を覗きこんだ。

「ね、落ち着こうよ」
「うぐぅっ…落ち着いたってダメなんだよっ! ボク、もうイヤだよっ!」

 最後は悲鳴になってしまった。ボクは両手の甲で涙を拭い続けた。ブランコの鎖に、痛くなるまで体を押しつけた。痛くしたかったのに、それほど痛くならなくて、それが間抜けでイヤになった。
 二人はずっと黙っていた。



 家への近くて遠い帰り道で、ボクは、最後に小橋君が「こういう事、言って良いのか悪いのか分かんねぇけど」と前置きして言ってくれたことを思い出していた。

「戦いなんだってよ。何か引いちゃうような話だけどさ」 小橋君はぶっきらぼうに言っていた。「親父が良く客に言うよ。人生は戦いだって。逃げてもダメだ、やらねぇよりやった方がマシだって。自分のやりたいようにやるんだって」
「…どういうこと」 ボクは聞いた。
「知らねぇ」

 それっきりだった。篠宮さんも肩をすくめて、否定も肯定もしなかった。…多分、賛成していた。

 結局、初めからボクには選択肢が無かったんだと思った。
 幸せな夢に浸る事も出来なかった。暗い思いで全てを忘れる事も出来なかった。ボクには、ただ大好きなお母さんに付いている事しか出来ないんだ。
 例え自分がすり切れてしまっても、ボクにはそれしかない。




    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇




 それから2ヶ月が経った。辺りには雪が積もって、動物達も姿を消して、もうすっかり冬だった。もう森に行っても木には登れなかった。元より行く気も無かった。

 時々起きるお母さんの発作はどんどん悪化して行った。前にはちょっと我慢していれば平気だった。近頃は、どしん、と鈍い音がしてボクが駈け付けると、お母さんは床の上で引きつったように全身を強張らせていて、とてもお母さんのものとは思えない、耳をふさぎたくなるような声で小さく呻くのだった。
 その度にボクは、泣いて逃げ出したくなる気持ちを堪えて、冷蔵庫に飛んで行ってお薬を取ってお母さんに飲ませる。そうすると、しばらくしてお母さんは楽になって、そのままソファやベッドで眠った。お母さんの寝息は浅くて短くて、そのしゅーしゅーという紙が擦れあうみたいな音を聞きながら、ボクは静かに涙を流した。そんな晩には、ボクは疲れ切った体をベッドに横たえると、ただ形の無い不安だけが漂う、夢の無い眠りにまっ逆さまに落ちて行く。すすり泣きがこんなに体力を使うなんて、思いもよらない事だった。

 ある晩、お母さんはそれまでで一番ひどい発作を起こした。いつも通りボクが薬を飲ませ、その後はソファで苦しそうに寝ていた。2時間ぐらい眠っていたと思う。

「あゆちゃん?」 ソファから声がした。
「何、お母さん」
「ご飯、まだだったわね。今作るからね」 お母さんは大儀そうに起き上がった。「今日は寒いからシチューよ。昨日から用意してあるんだから」
「え、いいよ、ボクお腹空いてないから」
「ウソおっしゃい。子供が気を回すんじゃないの」
「うぐぅ…、だって…」
「シチューと聞いたら子供は喜ぶものなの。太古の昔からそう決まってるの。だから喜びなさい」 お母さんは、くすっと微笑んだ。「太古の昔からシチューがあったのかは知らないけど」
「う、うぐ。うん、シチューは好きだよ。嬉しい」

 喜びなさい、なんて言われても困ってしまう。

 ボクのご飯を作るためにお母さんが少しでも消耗するなんてイヤだけど、ボクには相変わらず料理なんて出来ない。店屋物を取ろうと言っても、お母さんは断固反対する。外に食べに行くのはかえって体に障るから、それなら無理にでも自分で料理を作ろうと思ったけれど、お母さんの懇願にあって挫折した。じゃあ、ちゃんと教えて、と言っても渋ったままで、結局教えてくれなかった。だから、相変わらずお母さんがご飯を作っている。ボクは自分が情けなくて、とてもじゃないけど喜んだり出来ない。

 ボクは、いつの間にか笑えなくなっていた。
 それとは反対に、お母さんは透き通るように優しく微笑むようになっていた。

 吹きすさぶ冬の風がよろい戸を揺さぶっている。家の中は暖かかったけど、そこでの物音は、ただボク達が立てるカチャカチャという食器の音だけだった。

 シチューをふーふーしてから、すすった。少ししょっぱい気がする。でも味なんてピンと来ない。
 お母さんは頬杖をして、ボクが食べるのを眺めていた。この頃、お母さんはほんの少ししか食べない。頬の辺りがこけて、でもかえって綺麗になった気がする。瞳も限りなく澄んで。

「あゆちゃん、今日は学校どうだったの」 お母さんが不意に尋ねた。
「いつもと変わんないよ。どうして?」
「変わらなくは無いでしょ。体育の時間はどうだった? 活躍できた?」
「え」

 体育は休んだのだった。ボクはみんなに混じってはしゃいだりする気持ちになれなくて、イヤだイヤだと思っていたら本当に気持ち悪くなったので、ずっと保健室にいた。

「跳び箱だったよ」
「何段飛べた?」
「5段…」
「あら、すごいじゃないっ。この前まで3段だったんでしょ?」
「頑張ったんだもん、ボクにもこれくらいできるよ」
「えらいわね。案外、運動神経が一本ぐらいあったのかも知れないわね」

 お母さんは悪戯っぽく瞳を輝かせて笑みを浮かべた。ボクは後ろめたい気持ちで一杯だった。ボクは残りのシチューを急いで食べて、ごちそうさまを言った。食器を洗うのは手伝わせてくれた。

 シチューの味は最後まで分からなかったけど、お母さんの作ったものだから、本当は美味しかったんだと思う。





 翌日、降りしきる雪の中を親戚の人がどやどやと何人もやって来て、お母さんを病院に連れて行くことになった。お母さんは世話を焼かれながら申し訳無さそうにしていた。叔父さんや叔母さん達が、どことなくお母さんに対して偉そうで、ボクは無性に腹が立った。
 お母さんは一足先に伯父さんの車で行ってしまった。叔母さん達は口々に勝手なことを言いながら、お母さんの服や身の回り品をあさって鞄に詰め込んでいる。ボクはその人達の言うことに、心の中で耳をふさいだ。
 一人だけボクに優しい、お父さん側の伯母さんが居て、ボクに言った。

「あゆちゃん、今日は学校お休みして、お母さんに付いていてあげようね」

 言われなくてもそうするつもりだった。
 雪を孕んだ風が一層激しくなって、車の運転をする人達は慌てて外にエンジンを掛け直しに戻った。

 お母さんに何か持って行ってあげよう。突然、そう思った。
 ボクはお母さんの好きなものを色々思い浮かべた。何を持って行ったらいいだろう。お母さんの好物は一杯あったけど、食べ物は良くないに違いない。花…は、ちょっと自分で買って持って行けるかどうか分からないし、何だかお母さんって感じがしない。
 そうだ。お母さんが気に入ってくれた服を着て行くのも良いかもしれない。きっと楽しい気分を思い出してくれるだろう。
 そう思った時に声がかかった。

「あゆちゃん、もう行くわよ」

 もう着替えている暇は無い。ボクは二階に駆け上がり、タンスの引出しを開けて、何度も使って少しよれよれになった白いリボンを取り出した。これなら車の中でだって結べる。
 その時、脳裏に蘇った思い出があった。
 あの作文、まだお母さん持ってるのかな。
 ボクはお母さんの部屋のタンスや机の引出しを次々に開けていった。机の一番底の深い引出しにあったファイルの中に、幾らか黄色みがかり始めた原稿用紙を見つけた。きれいにしわが伸ばしてあった。
 ボクはファイルごとそれを持ち出して、階段に向かった。





 入院後の最初の検査が終わって、柔らかな髪を短めに切ってしまったお母さんが病院用の寝巻き――変な話だけどレインコートを思い出させるような――みたいなものを着て、病室に戻って来た。個室だった。「義姉さんが気を利かせてくれたのね」とお母さんは言った。枕もとにお父さんの写真があった。
 お母さんはスリッパを脱いで、年配の看護婦さんの助けを借りながら何秒もかけてベッドに上がった。
 その動きが本当に大変そうで、いつの間にそんなに弱っていたんだろうと不思議に思った。
 看護婦さんが点滴を用意する間、ボクはじっと口を結んで待っていた。

「じゃあ月宮さん。何かありましたら枕元のボタンを押して下さいね。ナースセンターに通じてますから」

 看護婦さんが出て行くと同時に、ボクは点滴をしていない方の腕の側からベッドに飛びついた。

「お母さんっ」
「あら、あゆちゃん……。何も喋らないから、いないのかと思ったわ」
「だって…うぐぅ…泣いちゃいそうだったんだもん」
「ほぅら、しゃんとなさいっ。あゆちゃんは強い子でしょ」 ほんの僅か首を上げて叱った。
「うぐぅ…」

 こんな時でも、お母さんはお母さんだった。ボクは反射的に涙が引っ込むのを感じた。

「あら、久しぶりね、その白いリボン」
「あ、気付いてくれたんだ」 ボクは思わず顔をほころばせた。
「当たり前よ。お母さんは、あゆちゃんのことなら何だって分かるんだから」 そう言ってお母さんは自由な方の腕をボクの頭に延ばした。細い腕だった。冬の太陽のように穏やかな声で言った。「結び方、上手くなったわね」
「……お母さんの病気、きっと治るよね?」

 ボクは上目遣いに聞いた。お母さんは首を傾げた。

「そうねぇ。奇跡でも起こればね。でも、お母さんは奇跡が起こせるなら他のことに使いたいな」
「どんなこと?」
「さぁ?」 お母さんは、くっくっと咳き込むように、だけど可笑しそうに笑った。「でも、もっと楽しそうなことに使うわ。もう子育てなんて沢山よ!」
「うぐぅ…」 ボクは拗ねて見せた。
「あはは」

 ほんの少しだったけど、久しぶりにお母さんの心からの笑顔を見た。笑うと、お母さんがとても綺麗なことが良く分かった。随分痩せてしまっているのに、かえってそれがお母さんを美しく見せていた。
 ボクはちょっぴり嬉しくなって、例の作文を取り出した。

「じゃーん」
「あっ、それ持ってきてくれたのね」 お母さんは目を丸くして小さく叫んだ。
「喜んでくれるかな、って思って」
「もっちろん、嬉しいわ! さぁ、ここに座って、読んで聞かせて」

 そこで、ボクはお母さんの脇に座った。お母さんは片手をボクの腰に回した。少し骨ばった手の感触がした。ボクはお母さんの肩に少し寄り添った。長い髪に触れないのが残念だった。

「おかあさん、3年2組、月宮あゆ。ボクはお母さんが大好きです…」

 それを読みつづける間、お母さんはキュロットスカートから伸びたボクの足を、指で軽く、トン…、トン…、と叩いていた。
 ボクはゆっくり、ゆっくり、出来るだけ時間を引き延ばすように読んだ。それは沢山の懐かしい出来事が何の脈絡も無く連ねられた、ボク達二人だけに通じる暗号だった。駅前のたい焼き屋さんのことや、小さな体で風を防ぎながら花火をしたこと。雨の日、ボクが漢字ドリルとにらめっこする隣で、静かに文庫本を読んでいる姿。河原のざりがに。森の中でのかくれんぼ。
 どれもこれもボクの大好きな楽しい思い出だった。
 これで、今の境遇を忘れられたら。
 これで、お母さんが少しでも元気を出してくれたら。

「針はこわいけど、お母さんとの指きりは好きです」

 指の動きが止まった。ボクはお母さんの様子を伺った。お母さんは顔を上げて、目で、『続けて』と言った。また指がトントンとゆっくりとしたリズムを刻みだす。
 ゆっくり読んだけど、やがて、ボクは作文の最後に差し掛かった。

「お話みたいに、いつまでも――」

 ボクはいきなり言葉を止めた。

「どうしたの。最後まではっきり読みなさい」
「うぐぅ…」
「代わりに読む?」
「いい…。――お話みたいに、いつまでもお母さんとしあわせにくらしたいです」

 ボクは最後の文を早口に喋り切った。これを持ってきたことを後悔していた。最後にこんなこと書いたのを忘れていた。
 お母さんはしばらくの間、ボクを抱きかかえながら、毛布の下の自分のつま先を見つめて、何かを考えていた。
 お母さんの唇が動いた。そっと小さな声で、聞こえないぐらい小さな声で、お母さんは言った。

「本当にそうできたら…お話みたいに…」



 天井の蛍光灯が、かすかにブーンという音を立てていた。
 窓を閉めきった病室のカーテンは、ストーブの起こす空気の流れに沿って光と影にゆらめいている。
 廊下から聞こえてくる雑音は、魔法の鏡越しに遥か遠い世界の人々のざわめきを聞いているかのよう。

 四角い病室に二人きり。お母さんと、ボクと。


 ―――― 小さい頃から、ずっとこうだった。ボクにとって、お母さんが全てだった。



 お母さんは何も表情に出さず、一言も口にしないまま、ただじっとつま先を見つめていた。
 ボクは何も言えなかった。
 長い沈黙が続いた。

 突然、お母さんは弱気を振り払うようにボクをぎゅっと抱き寄せて、明るく言った。

「あゆちゃん。指切りしましょう!」
「え?」
「約束してほしいことがあるの。絶対に守ってほしいこと。あゆちゃんは守れる?」
「うんっ」
「今までの約束は、全部忘れてもいいの。今まで悪いことしてたら、それも許してあげる。でも、これだけは守って欲しいの。できる?」
「悪いことなんてしてないよ!」
「夕べ、ウソついたでしょ」
「…うぐぅ」
「お母さんには何でも分かるんだから。でもそれも、ちょっと早いけど時効ってことにしましょう」
「じこう?」
「悪いことしても、長い時間が経ったら許してもらえるのよ。…でも、他の人にウソついちゃダメよ」
「うぐぅ…。ごめんなさい」
「それじゃ、約束」

 お母さんは、ボクを抱いていた腕を引いて、ボクの短い小指を取って自分のを絡ませた。
 真面目な顔で、力強く、噛み締めるように言葉を紡いだ。

「あゆちゃん。楽しく生きるのよ。精一杯楽しく。……それができるなら、お母さんは必ずあなたを助けてあげる。どこに居ても。必ず」

 どこに居ても――…

「お母さんっ!」 ボクは悲鳴を上げた。お母さんが、これをお別れにしようとしているのが分かった。
「約束して。お願い」

 お母さんの瞳が揺れていた。
 ボクは小指をぎゅっと折り曲げて、お母さんの細くて冷たい小指を締め付けた。すぐにその輪郭がぼやけた。きつく目をつぶると、眼の端から色んな思い出がこぼれ落ちた。

「それって…、それって、ボクがお母さんの事なんか忘れて遊ぶってこと? そんなことできないよっ!」
「今は分からないかも知れないけど、でも我慢して約束してちょうだい」
「…うぐぅ…で、できないよぉ…ぅ」
「お母さんのことを忘れたりしなくてもいいのよ。そんなことになったらお母さんも悲しいもの。でも、あゆちゃんにはまだ長い人生があるんだから、それを頑張って楽しんで欲しいの」
「お母さんがいないなんて…、イヤだよぉ…」

 ボクはお母さんの肩に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
 何が何でも引きとめたかった。ボクがここで諦めなければお母さんは行ってしまわない、という理不尽で自分勝手な思いで一杯だった。
 お母さんは小さくため息をついて、絡めた指を揺すった。そして口調を変えた。

「お母さんはあゆちゃんと暮らせて、本当に楽しかったわ。あゆちゃんは?」
「楽し…ひぐっ…かった…」
「それなら、大丈夫。一人でも楽しめるはずよ」
「分かん…ないよ…」
「分からなくても、お願い。これはお母さんのわがままね。ねぇお願い、あゆちゃん。お母さんのわがままを聞いてくれない?」

 ボクは首を垂れ、口を閉じて考えようとした。
 でもダメだった。
 あんまり悲しくて、何も考えられなかった。

 だから、ただお母さんの言う通りにしよう、と思った。ボクはお母さんの言うことを信じる。

 ボクは黙って一つ頷いた。そして指を切った。

「ありがとう、あゆちゃん。約束、よ」

 ボクは涙を拭いた。
 お母さんは微笑んだ。
 目元には、ボクの見慣れた、美しくて親しみやすいしわが寄っていた。






 ―――― 一ヶ月後。

 夜中に、親戚の人の大きな車の後部座席に乗り込んだ。
 違う町に行くことになったみたいだった。
 ただ、人に言われるままにしていた。
 ボクにはどうすることもできなかった。

 何もかもが、広がる闇の彼方に飛び去って行った。



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