"Wonder Girl"

3



 お母さんとの約束は、星の数ほどあった。
 例えば、計算のドリルを一ヶ月やったら可愛いスカートを買ってあげるわよ、とか、学校で一度も泣かなかったらたい焼きを作ってあげる、とか。
 約束する時は必ず『指切り』をした。それが、ずっと小さい時からの、ボクとお母さんの間だけの決まりごとだった。

 確か幼稚園の頃に、こんな風に教えられた。

「ゆびきりって言うのよ」
「ゆびきり?」
「そう。大事な約束で、絶対破って欲しく無いときは、そうするの」
「やぶってほしくない時に…」
「その代わり、自分もそれを破っちゃダメなのよ」
「えっと、やぶったらどうなるの?」
「針を飲まされるの」
「うぐぅっ」 ゾッとした。
「それも千本」 お母さんはにっこり笑った。
「うぐぅぅっっ!」

 自分の細い喉を触って、そこがハリネズミのようになるところを想像して震えあがった。
 同時に、千本も一体誰が数えるんだろう、と不思議に思ったのを覚えている。

 結局それは冗談だと分かったけど、お母さんは遂に一度も約束を破らなかった。
 お母さんは、「あきらめないのが大切なんだ」といつも言っていた。

 あきらめないで、と。





「月宮さん、ホントにやる気あるの?」 向かい合わせた机を挟んで、正面の、ロングヘアーでふっくらした女の子――篠宮さん――がボクを見下ろしながら、きつい調子で言った。「別に3人でやったっていいんだよ」
「止めなよ。いいじゃねぇか、少しぐらい遅れたって」 と、右側の小橋君。
「そんなこと言ったって、限度ってもんがあるっしょ」
「第一、3人にはならないだろ。月宮さんが抜けたら」
「来るかもしれない」
「月宮さんが頑張る可能性と、あいつが来て働く可能性とどっちが高いんだよ」
「…。結構どっちもどっちなんじゃないの?」

 左側には本当はもう一人、男の子が居るはずだった。でも、その子は特別乱暴な子で、こんな班活動には絶対姿を見せない。だから、夏休みの課題であろうが、運動会のマスゲームであろうが、あるいは遠足であろうが、この班は3人で動かなきゃならなかった。
 でも、その中の一人のボクは、相変わらず不器用で引っ込み思案で、いつでもワンテンポ以上遅れている。
 残りの二人が絶望的な気分になるのも仕方がなかった。

「あーもう、貸しなよっ。何書けばいいのか教えてあげるからっ」

 篠宮さんはボクの紙を取り上げて、僅かしか書かれていないボクの字をざっと眺めると、自分のノートのページを一枚破って、たちまち書くべき内容の概要をまとめた。
 ボクには、篠宮さんが一体いつ物を考えたのか理解できなかった。ボクが書こうとしたことを一瞬で読みとって、一瞬で答えを出した。
 ボクはそのノートの切れ端を受け取って読んだ。
 来週やる料理実習の計画書。何を作るとか、それに必要な材料とか。どうやって作るとか。

「こういうのって、考えても仕方ねぇんよ。パターンなんだから。エネルギーは他に取って置きなって」 小橋君が苦笑しながら言った。
「次は何とかしてよね。実習中にぼーっとされた日にはたまんない」
「うぐぅ…」

 ボクは恥じ入るばかりだった。
 何故か自習時間に「算数の問題が終わったら料理実習の計画書を書いてください」という、関係の無い二つの課題がセットで出てしまって、ボクは算数に手間取って、計画書まで時間内に手が回らなかったのだ。
 二人が料理の作業の押し付け合いを楽しそうにしている間、ボクは一生懸命、篠宮さんのメモを自分の紙に書き写していた。
 余計なことは、何も考えないようにしていた。
 とにかく、この輪の中に意地でも留まっていたい。ボクにとって、今はそれだけが重要なのだ。

 ここ数ヶ月、そればかり考えている。嫌われても、呆れられても。





 お母さんが笑ってくれない。

 そうなり始めた時期は、はっきりしている。ボクが4年生になった頃からだ。
 ボクは、ボクの心を一瞬で天国に連れて行ってくれる陽気な天使のような笑い声が大好きだった。
 夕ご飯の後、テレビを見ながら、お母さんが時々くすくす笑うのが楽しみで、横目でそっちを見ながら、早くおかしな場面にならないかな、といつも思っていた。
 だから、お母さんが笑わなくなったのは、すぐ気が付いた。ボクが視線を向けると、こちらを向いて微笑んではくれたけれど、本当に可笑しそうに笑うことは、ずっと少なくなった。不意に辛そうな顔を見せる時もあった。
 ボクは色んな笑い話をしたり、お母さんが喜びそうな、ボクにはちょっと良く分からないテレビ番組を二人で見たりしたけど、あまり効果は無かった。

 夏休みが明けて、また秋が訪れた。

 お母さんは昼間、家を留守勝ちになった。次第に、夜中になるとふさぎ込むようになった。
 ボクが顔を覗き上げると、寂しそうに微笑んだ。お母さんは、自分がそんな顔をしてるって気付いてなかったような気がする。

 ボクが楽しい話をしている時が多いかもしれない。

 じゃあ、ボクのせいかもしれない。

 ボクが悪い子だから。

 ボクとお母さんは沢山の約束をしていた。
 学校のことが多かった。
 トロいボクが他の子と同じようになれるように、お母さんがボクのことを心配しているのが、ボクにも良く分かった。約束の内容は、悔しいぐらい、良く意味が分かることだった。
 そしてそれが守れると、お母さんはいつも笑顔を、毎回、新鮮な笑顔を見せてくれた。
 ボクの頭をくしゃくしゃにして、額と額を合わせ、ボクの頬を両手で挟んで、「良く頑張ったね〜」と誉めてくれた。

 でも、ボクは余り約束を守れなかった。
 学校で泣いたことが、いつの間にかお母さんにバレていたこともあった。テストの点数は相変わらずだったし、宿題も一人ではどうにも仕上げられないことがあった。
 それに、やっぱり学校は苦手だった。周りの子も怖かったし、何かヘマをやるのも怖かった。その二つは相乗効果があって、どんどん事態が悪くなるのがボクの「パターン」。ボクは学校に行くと、じーっと大人しく引っ込んで、どうか何も起きませんように、と願うぐらいだった。学校に行くより、裏山の木に登っていたかった。

 これじゃ、いけないんだ。
 ボクはもっと頑張るべきだった。あきらめちゃだめだ、とお母さんも言っていた。お母さんは一度も約束を破っていないのに、ボクだけがあきらめちゃいけないんだ。

 お母さんを悩ませている本当の原因が他にあるかもしれない、という考えは無意識に頭から追い出されていた。
 頭の中にあるのは、お母さんが、ボクが一向に、活発で、周囲に溶け込める子に育ってくれないので、悩んでいる、という想像だった。そんなのは耐えられない。

 ボクが約束を守って、もっと友達の間でちゃんと遊べるようになれば、お母さんは喜ぶだろう。
 もっと、笑ってくれるだろう。








「大根とって」
「うぐ」

 すかかかか…

「ざる」
「うぐ」

 ぱっぱっぱ。

 ボクは小橋君の鮮やか過ぎる手並みに唖然としていた。こと、これに関しては篠宮さんも同様だった。まるでテレビでやってる料理番組に出てくる人みたい。

「何なの一体。私、女子として、大切な何かを否定されたカンジなんだけど」 と、篠宮さん。
「ボクも…」
「慣れだよ、慣れ。しょっちゅうやらされてるからな」 小橋君は照れながら言った。「二人とも、やってみる?」
「遠慮しとく」 篠宮さんは即答した。お米を研ぐ作業が終わって、計りながら水を入れている。
「月宮さんは?」
「えっと…」 ボクは迷った。正直に言うと、やってみたい。

 小橋君は澄ました顔で、ボクに包丁とニンジンを差し出した。ボクの顔から、ボクの気分を読み取ったみたいだった。
 ボクは意を決してまな板に向かい、包丁とニンジンを構えた。板にニンジンを置いて、右手で押さえて、左手で包丁を当てる。押し込む。

 …。
 ……。
 ………とん。
 …。
 ……。
 ………とん。
 …。
 ……。
 ………とん。

 全く切れないままのニンジンが転がり、後ろで二人が笑い出した。ボクは赤面した。

「…うー」
「うっし。じゃあ、今日のまな板係は全部、月宮さんな」 小橋君が笑いながらとんでもないことを言った。
「そ、そんなの無理だよっ」
「そうよっ。私達、明日になっても家に帰れないっ」 篠宮さんも血相を変えた。ひどいよ…。
「だって、もう出来る奴がやっても仕方ねぇだろ。今日は月宮さんの特訓」
「冗談よしてー」「うぐぅー」

 実習室の一角から女子二名の断末魔の悲鳴が上がった。

 2時間経った。
 やっぱりというか、当然と言うか、最後の班になってしまった。側に立つ、大柄な篠宮さんの諦めたような顔つきを見上げてボクは焦るけど、すぐに小橋君が、急がないで、と注意した。
 ボクは残りの大根と、ニンジンと、ジャガイモを切って、本当は小橋君の担当だったおかずの野菜炒め用に、キャベツと、タマネギと、ピーマンと、しいたけも切った。切って切って、切りまくった。しまいには左手が包丁になったような気がしてきた。
 右手の指を数カ所切ったし、左腕は痛かったけど、やり遂げた満足感はあった。
 ボクが最後まで切り終えると、二人は「ご苦労さん」と言って、残りの作業を一気に展開した。篠宮さんはボクの担当だったお味噌汁を手際良く作った。そして、二人で小橋君のフライパン捌きを、一種の尊敬を込めて見守った。油のはぜる心地良い音を聞きながら、この人はきっと中華料理人になる、と思った。

 やっとのことで、お楽しみの試食会になった。給食の食器だけが回され、自分達で作った料理をよそって食べる。ボク達のメニューは、ご飯と、お味噌汁と、野菜炒め。
 美味しかった。
 そうとしか言えない。

「ごちそうさまでしたーっ」

 実習室中の生徒が叫んで、後片付けが始まった。後で反省を書いて提出しなきゃならないので、それを話し合いながら。
 いい加減に切ると食べにくい、というのがボク達の一致した感想だった。



 教室に戻る途中の廊下で、後ろから篠宮さんが追いついてきた。さらさらで綺麗な髪の毛。
 幾らかつっけんどんな調子で言った。

「月宮さん。遠足、誰か一緒に行く人、ちゃんとできたの?」
「え?」
「だーら、秋の遠足の自由行動だって。班行動じゃないっしょ。ちゃんとグループ組めた?」
「…うぅん」

 そんな当て、あるわけは無かった。多分そのままにしておけば、先生が適当に決めてくれる。先生自身が一緒に連れ歩いてくれるかもしれない。
 やっぱりね、と言う風に、篠宮さんは肩をすくめた。

「仕方ないから、私達に入れてあげるよ」

 ボクはいきなりの申し出にびっくりして、篠宮さんの目を見上げた。篠宮さんは慌てて一歩下がって、苦笑いした。

「やめてったら、その顔。捨て猫じゃないんだから」
「ご、ごめん…」
「入る? 入らない?」
「入るっ! 入るよ」 ボクは必死に答えた。
「よしよし、これで限界定員6人に達したね。一緒に食べまくりツアーに行こう!」

 ボクは背中をバンバン叩かれてよろめいた。
 食べまくりツアーのことは全然聞いてなかったけど、そんなことは勿論気にならなかった。
 胸の中が春の陽気で満たされたような気持ち。空気の感触が変わった。とっさに出そうになった涙を慌ててこらえる。
 お礼を言おうと思ったら、篠宮さんはさっさと次の話に移っていた。

「実習ん時の月宮さんの顔ったら無いよ。もう、真剣勝負! さぁ、日本、これを落としたら後がありません! ってカンジ」
「うぐぅ…」
「そう言えば、何で『うぐぅ』って言うの? 凄く気になってたんだけど」
「え…変かな…」
「変とか何とか以前に、そういう音を思いつく方がすごいと思う」
「うーん、何か、自然と口に出るんだよ」
「天賦の才ね。神の意志を感じる」
「…照れるよ」
「誉めてないって」

 ケラケラ笑う篠宮さんに、緊張して受け答えをしながら、何で突然、篠宮さんが怖くなくなったんだろう、とボクはぼんやり思った。さっきまでは、迷惑をかけるボクを睨んでるような気がして、すごく怖かったのに。
 今は、とっても暖かいよ。



◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



「ええっ、本当? グループに入れてくれたの?」
「そうなんだよっ。嬉しいよっ」
「良かったわねぇ〜〜っ。そーだ、今日はお赤飯にしよっか!?」
「そ、そう言うことじゃないと思うけど…」
「あははっ、でも本当に良かったじゃない! お母さんも嬉しいわ。あゆちゃん」

 ボクは、鼻先にあるお母さんの満面の笑みに圧倒された。
 そうだった。こんな風に、夏の陽射しのように笑うんだった。ボクはすっかり忘れていた。
 頬が緩むのを抑え切れなくて、ボクは両手を広げてお母さんに飛びつき、その痩せた体の肩口に自分の頭を滑り込ませた。お母さんはボクの体を強く抱いて乱暴に揺さぶった。ボクはすっかり嬉しくなって笑い声を上げた。

 やっぱりボクは正しかった。お母さんはボクのことを心配していたのだ。
 そして、学校に少しずつ「友達」が出来ていくこと自体も、ボクは嬉しかった。みんなに混じってやっていくだけの自信が、やっと少し出来てきたような気がした。お母さんの言うことはいつでも正しいんだ。
 ボクはお母さんに応えようとして、あきらめずに頑張ってきた。そうしてきて、良かった。

 お母さんは体を離して、ボクの顔を感慨深げに見た。ボクは幾らか胸を張ってその視線に応えた。お母さんは微笑んだ。目元のしわが綺麗だった。

「今日はどうするの? 森に行きたい?」
「行きたいっ」
「じゃ、着替えてきなさいね」
「はぁーい」
「今日はお母さんも木に登ろっかな。そんな気分だわ」
「ええっ? お母さん、登れるの?」
「あら、お母さんも田舎育ちだもん。ナメないで欲しいわね」
「そっかぁ」

 お母さんが木登りが出来るなんて初耳。でも、二人で見る景色はきっと最高だね。





 その頃住んでいた場所は、今の街よりもずっと田舎だった。
 家のすぐ近くに小さな山があって、そこには鬱蒼と茂る深い森があった。他の子供達と遊ぶことの少なかったボクは、この森を自分だけの秘密基地のようなものにしていた。1時間ぐらいで行って帰って来れる範囲の中に、知らない木、知らない鳥の巣、知らないキノコ自生場所は無かった。
 勿論、野生のキノコを食べたりはしなかったけれど。
 ボクはその小さな王国の小さな女王さまだった。時々、木々の間にひょっこり顔を出したリスやタヌキを見かけると、彼らはご機嫌を伺うようにボクをじっと見て、真っ黒な瞳でボクと会話をして、それからそそくさとどこかへ行ってしまう。それをボクは小さく手を振って見送った。

 ボクは木登りが上手になった。
 何で木に登りたいと思ったのかは、良く分からない。お母さんは「うぐぅと何とかは高い所が好き」と言って笑っていたけど、それも何のことだか分からない。でも、高いところから見渡す景色は本当に素晴らしかった。それはボクだけの世界だった。
 小さい体は沢山の足がかりが必要で木登りには不利だったけど、その森にある木は、コブやら枝やらツタやらがそこら中に付いていて、まるでボクの練習台にあつらえたんじゃないかと思うようなものばかりだった。
 適度に登りやすくて、とても下りやすい、ボクのお気に入りの木があって、夕方になると、二日に一回は2階建ての家ぐらいの高さの枝に登って景色を眺めた。
 西から南に向けて視界が開けていて、きれいな夕日と、それに赤く照らし出される一面の畑と家屋がはっきり見えた。人通りが少なくて、ミニチュア模型みたいだった。それが無限に続いていた。

 ボクとお母さんは、いつもの木に登って、苔が生えた幹を挟んで互いに反対側の枝に腰をかけた。お母さんは汗を拭いた。久しぶりだったせいか、ちょっと緊張気味で疲れたみたい。でも、腰を落ち着けて顔を上げると、そんなのは吹き飛んだらしかった。

「わぁ〜、すごい景色〜っ」 お母さんは歓声を上げた。

 今日は風も弱く、雲も少なくて、最高の日よりだった。
 時間が早かったから、蒼い空の高いところから明るい太陽の光が射して、遥か彼方の山々まで広がる緑野をしっかりと照らし出していた。
 すぐ近くにはボク達の住む町。そこから三方に道路が、ずうっと伸びている。
 街を囲むじゅうたんのように、どこまでも広がる緑の畑。その所々に家がある。あぜ道沿いに、決まった距離を置いて無数の電柱が生えている。数えると200本以上ある。
 遠くには、左側に、薄っぺらい灰色のせんべいみたいな隣町が見える。右側には、青灰色の丘陵。真ん中は、地平線。夕方になると、あそこに陽が沈む。

「ほら、雲の形が地面に映るんだよ」 ボクは腕を振って平野の様子を示した。
「ホントね。わ、動いてるじゃない」
「カッコイイでしょ〜」
「うんうん」 お母さんは目を細めた。でもすぐにその目は、限りなく続く畑から、近所の住宅街に移った。「お家はどこ?」
「あれ。あの青い屋根」 ボクは幾分それを残念に思いながら、見慣れた家を教えた。
「本当。あらやだ、洗濯物が見えちゃってる。えっと、あの赤いのが芳子ちゃんの家?」
「うぐぅ、違うよ〜。その反対側だよ」
「だって、屋根しか無いだもん。お母さん、分かんないわ」
「えーっ、簡単だよぅ。道見ればすぐ分かるよ。それよりあっちの畑の方がすごいよ」 ボクはそっちを見て欲しくて、今度ははっきり指差した。
「そうねぇ。ずーーっと続いてるわねぇ」 お母さんは素直に感心した。「あゆちゃんは、ああゆうのが好き?」
「うんっ。見てるとあきないよ」
「どういうところが一番好き?」
「…うーんと…」 むつかしいこと聞かれちゃったよ。
「じゃ、どんなものが見えるか言ってみて」 ボクが考え込んだのを見て、お母さんは質問を変えた。
「えっとね、あぜ道が見える。で、畑があって、あ、畑は夕方真っ赤ですごいんだよ…、それで鳥よけの風船がいっぱいあって…、で、農家の建物があって、納屋があって、横に大きなトラックがあるの。そう言うのも沢山ある。その向こうに…うぐぅ、あれ、何だろ?」

 ボクは、遠方で視界を横切る黒い線の正体を、すぐには思いつかなかった。ボクが指すものを一つ一つ頷いて、しっかり確かめていたお母さんが、横から言った。

「川でしょう」
「あ、そっか。川が見える。で、その先は…、良くわかんなくて、最後に長〜い山が見えるよ」
「空も見えるでしょ」
「うん、空には雲があるよ。どんどん流れるけど」
「どっちに?」
「うーん、色々だよ。お昼間はあっちに行くことが多いかな」 と右手を指した。「そう言えば、雲の下で雨が降ってるのを見たよ! 面白いよ!」
「そ、そっか〜。きっと面白いわね。でも、お母さん、ここに登って雨に降られたくないなぁ」 お母さんは苦笑いした。「そう。あゆちゃん、とっても沢山のものを見てるのね」
「うぐ?」
「そうでしょう?」
「うん」 言われてみれば、そうかも。「でも、今、お母さんも見てるよ?」
「そうね。でも、気を付けないと分からないわよ」 お母さんは幹の前に首を突き出して、こちらを見た。

 急にお母さんの声に真面目なものが混じったけど、ボクはそれを、さして重くは捉えていなかった。
 お母さんの意図が分からなくて、ボクはただ肩をすくめた。
 そんなボクの仕草が如何にも子供っぽかったらしくて、お母さんは吹き出した。

「あっはっははは。あゆちゃんってば、かわいーーっ」 近くの家に届きそうな声でお母さんは陽気に笑った。
「笑わないでよぅ〜っ!」 恥かしくて顔から火が出そうだよ。
「ふふっ。あゆちゃん、学校で、妙に優しい男の子とか居ないの?」 お母さんは目の端の涙を指で拭いながら言った。
「ええっ?」
「仲のいい男の子」
「いないよっ! いるわけないよっ!」
「おっかしーなぁ、こんなに可愛いのに〜」
「うぐぅ…、お母さん、ヘンなこと言わないでよぅ」

 ボクはお母さんが面白半分に、今度は男の子と仲良くなろう、なんて言い出すんじゃないかと内心、冷や冷やしていた。幾らなんでも、それだけは恥かしすぎるよ…。
 それから、陽が傾いて周りが真っ赤に染まるまで、最近の学校の話をした。考えてみれば、そんな風にまとまって学校の話をするのは初めてだった。お母さんは楽しそうに話を聞いて、しょっちゅう口を挟んできた。今日の料理実習で小橋君にしごかれた話をすると、お母さんはしばらくお腹を抱えて動けなくなるぐらい笑った。
 また、こんな日々が戻って来た。
 ボクは嬉しくなった。
 やっとボクは、お母さんの悩みの種じゃなくなった。






 夜中に目が覚めた。

 目を開けると、部屋は、よろい戸の隙間から差し込む月の光で、テレビで見るマリアナ海溝のように青く染まっていた。ぶら下がっている電灯の中の電球をじっと見つめていると、唐突にトイレに行きたくなった。
 ボクはベッドからもぞもぞと起き出して、扉を開けた。電気を点けた。それでも、夜の廊下を行くのは怖い。お母さんを呼ぼうと思ったけど、お母さんは寝室に居なかった。
 仕方ない。一人で行こう。

 トイレから出て、寝室に戻ろうと思った時、お母さんが一体どうしているのか気になった。
 ボクは階段を一段ずつ、音を立てないように降りた。何故だか、音を立てることは悪いことに思えた。多分、こんな夜中に起きてきたら怒られると思っていたのかもしれない。
 階段を降りて一階の廊下に立った。応接間に通じるドアの隙間から光が漏れている。
 ボクは正体の分からない不安と共に、寝巻きを直しながらそちらに向かった。

 ――かすかな音が聞こえた。

 最初はしゃっくりかと思った。
 もう一度聞こえた時、それが違うと分かった。
 それは、お母さんが泣いている声。しゃくりあげる音。
 ボクは寝巻きの胸の辺りをぎゅっと掴んだ。
 切れ切れに聞こえるお母さんの泣き声は、ボクの心臓をすりこ木ですり潰した。

 イヤだよ、お母さん。泣かないで…。

 ボクは吸い寄せられるようにドアに歩み寄って、聞き耳を立てた。
 軽いボクが歩いても、床はミシリとも言わない。
 ほんのわずかにお酒の匂いがするのが嗅ぎ取れた。

「あなた――」

 お母さんの唐突な言葉に、ボクは飛びあがった。その声は枯れていた。
 天国に居るお父さんに話し掛けているみたい。

「見ていてくれたでしょ? やっと、あの子はスタートラインに付いてくれた」

 ボクのことだ…。

 言葉の中身なら、安心していいはずだった。
 でも、お母さんの声に含まれた何かが――不思議なことに「喜び」に近い何かが――ボクの心を激しい不安で満たした。
 不安はボクの体を飛び出して廊下中を荒れ狂い、ボクを押し潰そうとしていた。
 目が見えなくなった。
 ボクが何も考えない内から、体がひとりでにガクガクと震え出した。
 何かが決定的に間違っていた。ボクは何も知らなかったんだ。

 その先の言葉を、ボクは聞きたくなかった。
 立ち聞きなんて悪いことだ。
 今の内に、耳をふさごうと思った。階段を上って、ベッドに入ろうと思った。
 間に合わなかった。
 ため息と共に吐かれたその台詞を、ボクは聞いてしまった。
 ボクは崩れ落ちた。

「もっともっと見守っていたいけど…、もう限界。そろそろ、あなたの所に行くことになりそうね――」





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