"Wonder Girl" Chapter 2

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 小学校のボクは、学校が大嫌いだった。
 毎日が憂鬱だった。
 秋も深まった頃のその日は、特に最低の日だった。



「はい、月宮さん。気持ちは分かるんだけど、もう少し考えて書いてね」

 若い女の先生に返してもらった作文についた点数を見て、ボクは仏像みたいに硬直した。

 35点。

 ウソ! ボクは一生懸命書いたんだよ! 先生、ちゃんと読んでないんだよ!
 作文をくしゃっと閉じて、ボクはふらふらしながら席に戻った。ストンと座席に腰を下ろすと、隣の女の子が「見せて」と言ってきた。放心状態のまま、「いや」と一言で断った。その子は気を悪くしたように何かつぶやいたけど、ボクは聞いてなかった。窓の方に近い男の子が、ボクの様子を興味深く見ているのも、まともに気付いていなかった。
 信じられなくて、もしかしたら85点の見間違いじゃないかと思って、少ししわが寄った原稿用紙をそっと開いてみた。3文字下げて書かれた「おかあさん」という題名の上の数字を良く読む。
 やっぱり35点だった。

『だれが何をして、どう思ったのか、くわしく書きましょう』
『がんばって!』

 という赤いコメントと、沢山の誤字訂正と、「もっと努力しよう」のマークがあった。

 このマークは悔しかった。「努力しよう族」という良く分からないグループに投げ込まれたような気分。
 本当は他の科目でも沢山、この「努力しよう」を貰っていたけど、何度見てもイヤな気持ちになった。「良く出来ました」のマークの方が豪華なのが納得いかなかった。これからもっと努力しなきゃいけない人の方を励ましてくれてもいいのに。

 でも、今日はそんなことよりも、この作文にひどい点数がついたことが、信じられないほどショックだった。
 作文なんて大嫌いだったけど、これだけは違った。
 その作文は、本当に特別だった。ボクの全部だった。ボクはボクの心の中にあることを全部書いた。ボクが、ボク自身なんかよりずっと大切にしてることを書いた。
 それが35点なんて!

「うぐぅ…」

 ボクは涙目でもう一度原稿用紙をたたんで机の上に置き、その上に覆い被さった。この世の終わり、みたいな気分だった。
 先生がそんなボクには気付かずに全員分の作文を返すと、それで国語の授業は終わりだった。
 ドライなところもあるけれど、優しい先生だと思っていた。好きな先生だった。でも、やっぱり先生は先生なんだ…。生徒一人一人のことなんて分かってくれない。
 先生が出て行くとすぐに、さっ、とボクの下の原稿用紙が引き抜かれる感覚がして、ボクは驚いて顔を上げた。

「おかーさん、3年2組、月宮あゆ! ボクはおかあさんが大好きです〜!」
「ぎゃはははは、女のクセに『ボク』だってよーっ」
「うぐぅっ!」

 いじめっ子の男の子が、ボクの作文をありったけの大声で朗読していた。さっきボクを見ていた男の子だった。恥かしくて恥かしくて死にそうだった。
 ボクは作文を取り返そうとして、必死に机や他の子達の間を泳ぎまわった。
 ううん、泳ぎ回る、なんて器用じゃなかった。ボクは沢山の机にぶつかってあざをこしらえて、色んな人にぶつかっていやな顔をされながら、飼育係の撒く餌に群がる動物園のペンギンみたいに不器用に走りまわった。

「たい焼きがおいしかったです、っておい、何でいきなりたい焼きなんだよ」
「うぐぅっ!」
「花火も楽しかったです。はぁ? たい焼きの花火?」

 ボクは顔が真っ赤になるぐらい頑張って追っかけたけど、涙目になってしまって、うまく体が動かなかった。ようやく追い付いてその子に飛びつくと、しわの寄った原稿用紙は空中を舞って次の男の子の手に渡っていた。何で悪い子のやることはうまく行くの!?
 起き上がって、また追っかけっこになった。口の中に髪の毛が入って気持ち悪かった。ほつれた髪の毛を払うと、その拍子に今度はリボンが取れてしまった。そのくせ濡れた髪の毛は頬の辺りに貼り付いた。リボンをもぎ取ってポケットに入れた。

「お、これ聞いてみ。ドリルやったので、かわいいセーターがもらえました。だってよ。あんじゃそりゃ。ドリルって何、あのぐるぐる回るやつ〜?」
「ばっか、ちげーって、マジメな月宮ちゃんは一生懸命おべんきょーしてんだろ!?」
「そりゃムダだーっ!」

 みんなが一斉にどっと笑った。もう、本当にイヤだった。ひょっとすると全員じゃなかったかもしれないけど、誰が笑って、誰が笑わなかったのかなんて分からなかった。耳の辺りにぶわーっと血が上って、痛いぐらいだった。
 どうして漢字ドリルやっちゃいけなんだよっ。そりゃボクはバカだけど、ボクはバカだな、って思うのと、ボクはバカだからってあきらめちゃうのとは違うんだよっ。

「いつも、約そくは指きりです。指きりしたのでセーターがもらえました〜」
「何か面白いこと言え〜っ」

 とうとう男の子は教壇に上がって、壊れたスピーカーみたいな大声で叫びはじめた。ボクは悪いと思ったけど先生の椅子を隅から引っ張ってきて、そこから教壇によじ登ろうとした。
 高いところだったら負けないんだからっ。
 ボクは目標の間近に迫っていて、夢中だった。

 いきなり、後ろから別の男の子の声がした。

「月宮のパンツはピンク色っ」

 とたんに頭が真っ白に、顔は真っ赤になった。

「うぐぅっ、ひどいよぉっ」

 ボクは慌てて後ろを振り返りながらスカートを押さえて、その拍子に椅子から転がり落ちて尻餅をついた。落ちた痛みがショックで、ちょっと涙が出た。教壇の男の子は机を渡って向こうに行ってしまった。
 何で、ボクはダメなんだろう。
 でも、泣かない約束だったから、ボクは頑張ってこらえた。
 もう大丈夫だと思って立ち上がると、周囲の状況は一変していた。

「女の子のパンツ見て喜ぶなんて、サイッテーっ!」
「そーよ、男子なんて動物よ、動物っ」

 女の子達が甲高い声で、男の子達を罵倒している。
 そうだった。最後のは作文を読まれたんじゃなくて、パンツを見られた――うぐぅ…――んだった。それは女の子なら誰でもイヤがることだ。
 女子の内の数人は、男子の誰よりも体が大きくて力が強かったから、男の子達は途端に団結した。
 実は、女の子達はあんまり結束が固くないことをボクは知っていたけれど。

「はい、月宮さん」

 眼鏡をかけたクラス委員長の女の子が、ボクの作文を取り返してくれた。今ごろになって助けてくれるなんて、複雑な気分だったけど、少なくともその子はボクのことを笑っていなかったと思うから、ボクは素直に受け取った。

「ありがとう」
「男子に負けちゃダメよ。頑張ろうよ」
「うぐぅ…」

 頑張るって何を? と聞こうと思ったけど、委員長の子はすぐに体を返して、猛然と口ゲンカに飛び込んでいった。
 頑張る、って口ゲンカを頑張るのかな。
 ボクは、取り返してもらった、くしゃくしゃの作文を丁寧に引き伸ばして、それから折りたたんでランドセルに入れた。
 口ゲンカは苦手だった。
 学校は嫌い。






 涼しい風が吹き抜ける帰り道、ボクは石ころを蹴りながら、先生が付けた作文の点数をどうやってお母さんに謝ろうか考えていた。結局何も思いつけないまま、家に着いた。何かいいアイディアが浮かぶまで、もう一度その辺を歩いてこようかと思っていると、台所に居たお母さんがボクを見つけてしまった。
 小柄なお母さんは勝手口のドアをぱっと開けて、ボクを呼んだ。長くて柔らかいポニーテールが派手に揺れていた。

「あゆちゃん、お帰りなさい!」 いつものように明るい、鈴の鳴るような声。
「ただいま」
「どうしたのぅ? 何かあったの?」
「うぐぅ…」

 いじめられたことは隠せるけど、作文は隠せない。作文のことは、昨日の夕ご飯の時にしゃべってしまった。偉そうに、「きっといい点数が貰えるよ」とまで言ってしまった。ボクはどうしてこんなにバカなんだろう。
 ボクはお母さんの目を恐る恐る見上げた。

「作文」
「作文がどうしたの?」
「うぐぅ…」

 ボクは黙って、妙に折り目が多い原稿用紙を差し出した。一度くしゃくしゃになった跡を隠そうと思って、わざと沢山折ってみたのだ。出来あがったものは、更にどうしようもなく醜悪になっていた。
 お母さんは、首を傾げながらそれを受け取った。
 ボクは、ぎゅっと身を固くして目をつぶった。
 お母さんの怒った顔を想像して、ボクはまた泣きそうになっていた。
 胸をかきむしるような後悔の気持ちで一杯になる。熱い固まりが喉元にせり上がって、痛かった。

 ボクのせいで、先生はお母さんが嫌いになったのに違いない。

 ボクはそう思っていた。
 だから、お母さんはきっとボクのことを怒るだろう。ボクがもっときちんと書けば、お母さんにひどい点数なんて付かなかった。ボクが頑張れば、お母さんがどんなにいい人か、先生も分かってくれたはずだった。あれ以上、どうすればいいのかボクには分からなかったけど、とにかくボクがヘマをやったことは分かっていた。

 薄目を開けてお母さんの様子をうかがった。お母さんは作文を見てショックを受けた顔をしている。そして、その目が少しだけ悲しそうに、苦そうに潤んだ。

 お母さんはボクを怒らない。
 お母さんはボクのした事が、ただ悲しいんだ。

 お母さんはボクに失望したんだ。怒る価値も無いのかも知れない。

 ボクの胸の感情の堰は、遂に切れてしまった。

「うぐぅっ、お母さん、ごめんなさいっ」

 ボクはお母さんに抱きついた。本当に久しぶりに、声を上げて泣いた。一旦泣き出すと、ボクはなかなか泣き止むことができない。歯を食いしばってこらようと思っても、どうしても涙が止まらない。
 そんなボクを、お母さんはまだ怒らなかった。
 お母さんは、その白くて綺麗な手でボクの背中を優しくさすってくれた。ボクは涙目のままお母さんを見上げた。お母さんは口を開いて、優しく言った。

「ほら、あゆちゃん。泣かない約束でしょう。強い子になるんでしょう?」

 我慢してるんだ…。
 ボクはますます泣いてしまった。




 しばらく経って、ボク達は縁側に並んで座っていた。ボクはまだしゃくりあげていた。お母さんはボクの肩を抱いて、赤ん坊をあやすみたいにしていた。
 その合間に、学校でほどけた後、ボクが自己流で結んだ白いリボンを、丁寧に結び直してくれた。
 そして、そのリボンに額をこすりつけて、ボクを抱き締めた。セーター越しに、温かい感触に包まれる。

「あゆちゃん。どうして、お母さんにあやまるの?」 お母さんが不意に尋ねた。
「だって…」
「すごくいい作文じゃないの。点数なんて気にすること無いのよ。たまたまなんだもの」
「でもぅ。ボクのせいで、お母さんがヘンな人だって思われたから…」
「えぇ?」
「35点なんて…うぐぅ…ごめんなさい…」 また涙が出てきた。
「えーと…」

 お母さんはボクの体を、軽く曲げて立てた膝に横たえて、ボクの手を自分の手で包んだ。お母さんのお腹は細いけど、とても柔らかい。
 ボクが見上げると、お母さんは困ったような嬉しいような面白がっているような、奇妙な顔をしていた。

「もしかして、あゆちゃんは、お母さんが35点になったと思って泣いてるのかしら?」
「うぐぅ…」 そんな言い方だと、ボクがまた変な事したみたいな気になるよ…。
「そうなんでしょう」
「そう…」
「あははははっ。全くこの子はぁ〜」 お母さんは何故か楽しそうにボクの体を揺すった。「そんなわけ無いでしょう。先生は別にお母さんをヘンな人だと思って悪い点数付けたんじゃありませんよ〜っだ。あゆちゃんの書き方がおかしいから35点なだけですよ〜っだ」
「うぐぅ…、そうなの?」
「でも、気にしなくていいのよ。あゆちゃんは一生懸命書いたんだから、それでいいんだもんね」
「お母さん、ヘンに思われてない?」
「思われてないわよ。大丈夫、先生はそんな人じゃないもの」

 言われてみればそんな気もしてきた。
 どうしてボクはあの先生がお母さんを嫌うなんて思ったんだろう。でもあの時は信じられなくて、不安で不安でどうしようもなかった。ショックで頭がどうかしていたのかもしれない。
 お母さんのことが悪く思われたんじゃない、と分かって、少し安心した。

 …じゃ、悪い点数は、ボクが下手なだけ? いつもと同じ理由?

「本当にいい作文ね。お母さん、嬉しい。『3年2組、月宮あゆ。ボクはお母さんが――』」
「わっ」

 急に恥かしくなって、ボクは原稿用紙を奪おうとした。でもお母さんはボクの手が届かないように、一杯に手を上に伸ばして笑いながら作文を読みつづけた。うぐぅ、それじゃみんなと変わんないよぅ。

「『大好きです』 ふふっ、お母さんもあゆちゃんが大好きよぉぅ。えーと、『たい焼きがおいしかったです』 あ、これはこの前の土曜日の駅前のね。美味しかったわね」
「うんっ」
「『花火も楽しかったです』 これはその前の日曜日にお庭でやったわね。良く覚えてるのね〜」
「覚えてるよっ。お母さんがろうそくをすぐ消しちゃうから、大変だったよっ」
「こらっ、あれは風が強かったせいよ。お母さんのせいじゃないも〜ん。あゆちゃんこそ、赤い花火は自分ばっかりやってたくせに。お母さんに分けてくれなかったでしょ」
「うぐぅ、だって青いのって何だか恐いんだもん」
「お化けが出そ――」
「うぐぅっっっ」
「あははっ」

 その後もお母さんは、ボクのヘンな作文を最後まで読んで、一つ一つ、全部の話を思い出してくれた。そして、いちいち誉めてくれた。とても楽しそうで、その気分がボクにまで伝染した。
 最後の方で突然泣き出したので、ボクはびっくりして、体が悪いの、何かイヤなことを思い出したの、と聞いてみたけど、お母さんは首を振って、あんまり嬉しいから、と一言だけ答えた。変なの、と思ったけど、ボクとは違うからお母さんはすぐにぴたっと泣き止んで続きを読んだ。
 読み終わった後、何度も読みたいからしばらくの間頂戴、と言われた。35点の作文なんてイヤだったけど、お母さんが、これは母親の権利だ、って何度も繰り返すので、そういうものかなと思って、仕方なく渡した。

 その日は一日中、夕ご飯の後まで色んな昔話をした。こんなに沢山面白い思い出話があることに、今更ボクは感激した。この調子なら、大人になる頃には一ヶ月かかっても話しきれなくなっちゃうね、と言って、お母さんと笑った。


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