"Wonder Girl" Chapter 1
キミはきっと混乱するんじゃないかな。
キミが見せてくれた風景は、今でもしっかり見えてるんだよ、って言ったら。
でも、本当なんだもん。
ボクはキミと一緒に、いつまでもそれを見ていたいんだよ。
1
らん、ららん、ら、らら…
ららら、らん、らん、ら…
らららー、らんら、らら…
ボクはハミングしながら、初雪の街を駆け抜ける。
カチューシャに絡みつく湿った髪の毛が気持ちいい。
通りすぎる人達は、立てたコートの襟の向こうから困ったように笑いかけてくれた。
立ち並ぶ緑の街路樹も。
遊歩道の赤いレンガも。
コンビニの窓のポスターのお姉さんも。
商店街の看板の太い文字も。
白い薄布の向こうから、恥かしげな笑顔を見せてくれる。
初雪だよっ。とボクは心の中で呼びかける。
ボクはそれが言いようも無いほど嬉しい。
変わってる、って言われることもあるけど、ボクは平気。「あゆが普通になったら、俺は嫌いになる」って祐一君も言ってくれるから、安心してヘンでいられる。
本当は安心しちゃイケナイのかな。でも、今は忘れるよ。初雪は年に一度だもん。年に一度ぐらい、いいよね。こういうのが好きなんだから。世界はキラメキとオドロキで一杯だよ。
「初雪だよっ」
周りの人が一斉にびくっとした。いけない、声に出しちゃった。ボクは照れ笑いを浮かべて、ちょっとスピードを上げた。
どんより曇ったお昼過ぎ。普通の人なら気が滅入るのかもね。
ちらちらと空から降ってくる冷たいかけら。一番それが多そうな場所をめがけて、両手を広げて突進してみた。ベージュ色のダッフルコートにひっついた雪を確かめて、ボクはにっこり笑う。
時々立ち止まると、ブーツ越しに自分の足元の雪とその下の地面の感触がして、左手を伸ばすと、知らないお家の塀のブロックにさわれる。そうすると、自分がそこに居るっていうのが良く分かって、そこに初雪が後から後から降ってくるのが良く分かって、満ち足りた気分になる。
少なくともボクは、それが楽しい。
不思議。いっつも思うんだけど。
どうして雪が降るんだろう。
空気が冷たくなって、気が付くと降ってる。白い、ふわふわした、ざらざらした、冷たいものが。その下には道があって、道は例えばアスファルトやレンガやコンクリートや、もっと良く分からないもので出来てる。お店や家の壁。見上げると沢山の木が生えた山。その全部に雪が降って冷たくなるけど、だけどその下にはちゃんとこの街があるんだよ。うぐぅ、ちょっと分からないかな。こう並べると、ボクにもかなり意味不明。
本当は雪ぐらい、ボクも分かるんだ。一応、もう大学生だから。でも、そういうことじゃなくて、ボクの周りに雪が降るってことが、もう不思議で仕方ないんだよ。そういう意味で言えば、ボクがこの街のこの場所にいることも、とても不思議。面白いよ。
だから初雪が好きなのかな。
というのが最近のボクの結論。
結論はもういいね。ボクはとにかく初雪と遊びたかった。そこが肝心。
去年、商店街の一角に広場が出来た。残念ながら噴水は無いけど、ちょっと大きな枝振りの木と、幾つかのベンチがあって、人は割に集まる。ボクはここが好きで、今もそこを目指して走っている。
広場の入り口にある階段。3段しかないなんてバカにしてるよ。一気にジャンプ!
ずるっ。
「わぁっ」
慌てて手すりに掴まったから、膝をついた程度で何とか助かった。ボクのドジは祐一君に徹底的に鍛えられたから、少しだけ反射神経が良くなった。その内、祐一君は「そもそもの原因は別のところにある気がする」って言い出したけどそれは良く分からない。とにかく、3段しかなくてもバカにしちゃいけない。
前にもそう思った気がするんだけどね。
広場にはあんまり人が居なくて、ボクはちょっと安心する。今のは見られなかったみたいだ。でも、その中に懐かしい顔を見つけて、ボクは飛びあがった。嬉しいよっ! 完璧なタイミングだよっ!
慌てて駆け寄って声をかけた。
「おじさんっ、たい焼き3つ!」 ちゃんとお金も出した。食い逃げなんかしないからね。
「へい、ただいまっ! って、おい、あゆちゃんじゃねぇか!」 おじさんはいきなりすごい笑顔を見せた。「半年ぶりだねぇ。相変わらず元気そうで、おじさんは嬉しいよ、ええ? あのいけすかないカレシはどうした。ばっちり振ってやったか?」
「うぐぅ…今でも一緒だよ〜」
「わははは。まぁ、いつまでもつか、おじさんの命の続く限りはここに来て確かめてやるからな」
「じゃあ、ボクもいつまでも二人だって、毎年教えてあげるよ」
「かなわねぇよなぁ、最近の若いのは。平気でそーゆー『らぶらぶ』な台詞吐くからよ。ほら、たい焼き3つお待ちっ!」
「ら、らぶらぶ…」
ボクは真っ赤になりかけた頬を慌てて左手で押さえながら、もう片方の手でたい焼きの袋を受け取った。
この茶色い紙袋のザラザラした感触と、その中のたい焼きのあったかい存在感がたまらない。
って祐一君に言ったら死ぬほど笑われた。もう二度と言わない。だから、これはボクの心の中だけの秘密。たい焼きっていうのは、手に持った袋越しに匂いを嗅いだ時に、もう対話が始まっているんだよ。ボクは多分、たい焼きを一匹食べることだけで詩が作れるよ。
ボクは一匹目のたい焼きを一口かじった。懐かしい味だった。ほくほくのころもと、あつあつのあんこ。これがたい焼きの味。良く噛んで、味わって、ごくんと飲み込んだ。後はもう、衝動の成すがままにもぐもぐと食べ続けた。幸せ一杯。脳みそが溶けそう。
エプロン姿のたい焼き屋のおじさんは、にんまりと笑って話し掛けて来た。
「本当に美味そうにたい焼き食ってくれるよなぁ、あゆちゃんはよ。たい焼き屋冥利に尽きるやね」
「だって、美味しいよ〜」
「可愛いよなぁ、全く」 おじさんは、ぼりぼりと頭を掻いた。「もうハタチ超えてるんだろ? 見かけじゃわかんねぇけどさ。前にも聞いたっけな」
「もう24だよ」 精神年齢は17歳だけど、と心の中で付け加える。
「そうだった、そうだった。俺の一番小さい姪がそんぐらいだ。そりゃもう生意気で、あゆちゃんなんかとは比べ物になんねぇけどよ。こんな気立てのいい子なんだから、あゆちゃんも世が世ならモテまくり人生だったろうになぁ」
「そんな人生になりたくないよー」 ボクは苦笑いした。第一、そんな人生想像つかないよ。「祐一君さえ居ればいいんだもん」
「っかぁ〜っ、これだからよぅ」 おじさんは天を仰いだ。もちろん曇り空。「あゆちゃんにノロけられると、ケツが痒くて痒くて…」
「うぐぅっ! ひどいっ」
「わははははは。そりゃ冗談だ。冗談。それにしても、あいつのどこにそんな惚れたんよ」
「どこ、って…」
どこだろう。
ボクはちょっと真剣に考えた。何だか、祐一君は横に居るのが当たり前、って感じがする。今さら、どこが好きって聞かれても。
「全部、かな」
おじさんは再び大げさに天を仰いで、そのままばったりと雪の中に倒れてしまった。ボクは笑っておじさんを助け起こした。物凄く太い腕でびっくりした。
目を移すと、おじさんの周りには、いつの間にか初雪がそのまま積もり始めていた。
立ち上がって周りを見渡して、早くも街がうっすらと白く染まり始めているのに気付いた。冷たいヴェールに覆われた、ボク達の不思議な街だった。
「あ」
「何。どうした、嬢ちゃん」
おじさんが太い眉を片方上げた。
ボクは束の間、こみ上げてくる懐かしい感覚に囚われてしまって返事が出来なかった。数秒経って、ボクは答えた。
「やっと分かったような気がするんだよ。ボクが祐一君を好きなわけ」
「俺は、『好きなとこ』を聞いたんだぜ」
「うぐぅ…でも祐一君が好きなのは、どこかが特別好きっていうわけじゃなくて…。何て言うか、腐れ縁なんだもん」
「そりゃいいや、腐れ縁か! で、その理由ってのは?」
「特別な風景を見たからだよ」
「お、それなら、俺だって負けないぜ」
おじさんは、コンサート会場の出口で乱闘の末、女の子が数人の青年を叩きのめしたとか、華厳の滝で人が飛び降りるのを見たとか、大きな神社で初日の出の瞬間に沢山の人が将棋倒しになったとかいう話を始めた。
それはそれで興味深いんだけど、ちょっと違うんだよぅ。
「そ、そういうのじゃなくて…。言葉では説明できないような風景なんだよ。聞きたい?」
「いいねぇ、聞きたいねぇ」
「長くなっちゃうよ?」
「構わねぇよ。夕方まではまだ時間があるからな。よし、じゃあ特別にたい焼き2つサービスだ」
「う〜ん。じゃあ、お母さんの話をしなきゃね。そうだ、あの作文の話からかな」
「ほぅ、作文ね。俺が小学校で一番嫌いだったのが感想文。次が作文だ」
「あっ、奇遇だね。ボクもおんなじ! えっとね、ボクはその頃、ここから電車で4時間ぐらいの所にある街に住んでてね――…」