赤い大地に焚き火の光がゆらめく。ぼろ布を纏った少年がオレンジ色に浮かび上がっている。焚き木を棒でつつきながら森の方角に目をやった。視線の先には、今にも闇に溶け込もうとするかのような小柄な背中があった。老いさらばえた肉体に、数知れない知識と人生を秘めた男がいた。彼は呟いた。低い声は、しかし離れた場所からもはっきりと耳に届いた。
「星が流れようとしている」
 少年は、それは戦士の涙かと尋ねた。いつか師匠の言った、哀れな魂か。
 老人は答えず、空を振り仰いだ。夕闇がせまり、星がまたたき始めていた。
「灰色のバッファローの女。泳ぐ鳥。飛べない翼が交叉する――――私は彼に何かを言ったのでは無かったか。いや、それはワカンタンカのお告げだった。私ではない――――だが鳥が再び飛び立とうとしている。最後の旅へ」
 旅はどうなるのだろう、と少年は言った。それは良いお告げなのか、悪いお告げなのか。老人は、分からぬと答えた。そして付け加えた。
「だが、どんな旅であろうと、始めた旅はいつか必ず終わる」


"Seven Sisters' Road"    section 2



 軽くスラスタを吹かすと赤い機体がぐらりと揺れ、僅かに進路を東へ変えた。眼下では、昼間から点いていた街の灯りが雨にけぶってきらめいていた。小刻みに舵角を修正する。ドリフトは収まらなかった。スパイクは頭を掻いた後、コンソールに触れてトリムを調整した。翼を振って具合を見る。
「何だかボロっちいわね。大丈夫?」 背後の狭い補助席からジュリアが口を出した。
「祈るといい。それが仕事なんだろ」
「そういう事になるのかしら」
 彼女は前方に乗り出していた体を戻した。スパイクの派手な髪型越しに、ぼんやりと辺りを見渡す。薄暗い街を背景に、うっすらと自分の顔が見えた。念入りに加工されたキャノピーだが、まだ幾らか写り込みが残っているのだろう。はっきりしないグレイとホワイトの像は、何だか修道女の人形めいて見える。
「一度、本気で祈ったことがあったの。とても不幸せな三人の子供がいてね。自分より不幸な運命なんて無いと思っていた私だけど、その子達にはかなわなかった。だから、彼らのために祈ったわ」
「神に通じたかい」
「通じたと思う?」
 スパイクはちらりと背後を見やった。「いや」
「そうね。……良くある話よ」 くすりと笑い、「それでもシスターなんてやってきたわ」
「組織を追われた賞金稼ぎに、祈りの下手なシスターか」
「悪くない組み合わせね」
 ソードフィッシュは再び軌道を変更し、機首を上げた。スパイクは背後に酸素マスクを放って寄越し、ベルトの付け方を教えた。ビバップ号は地上100km付近を自動航行中だ。
 次第に激しくなる振動の中、ジュリアは目を閉じて呟いた。
「その子達ね、殺し合ったのよ。十八になるやならずだった。ろくでもない仲間を集めて、盗んだ銃を撃ち合って……つまらない、意地汚い縄張り争い。その時思ったわ、生きるのって何て難しいんだろうって。神様にだって無理なことはあるのよ」
 スパイクは答えなかった。
 小型艇は地表を覆う雨雲を一瞬で突き抜け、次第に仰角を強めながら一気に大空を駆け上がった。空はみるみる輝度を落とし、薄闇を背景に星がきらめき出す。成層圏界面が近づくと、スパイクはサンバイザーを機能させた。束の間、視界が黒く塗りつぶされ、すぐに輪郭が強調された映像が復活した。ある一点を超えると機体の振動は収まって行き、ビバップ号のデッキに着艦する頃には、本来の性能を発揮して軽やかな動きを見せた。星間レース用に開発されたソードフィッシュは、元々大気と重力の無い環境の方が自由に動けるのだ。
 ペダルの操作だけでソードフィッシュをハンガーに固定しながら、コンソールから気密扉を閉め圧力弁を解放した。一時的に窓が曇り、また晴れていく。内壁を埋め尽くす剥き出しの鋼鉄の骨組を見つめていたスパイクは、頃合いを見てキャノピーを跳ね上げ、へりを掴んで軽く体を押し上げた。体を反転させて機体に足を当てると、後部座席に収まっていたジュリアの手を取ってぐいと引き寄せる。軽い体は羽根のように宙に浮いた。
「こんなに重力の低い場所は初めて」
 彼女は少女のように目を輝かせながら、スパイクの腕に掴まった。意外に力があるな、とスパイクが言うと、途端に赤くなって手を放し、その勢いが止められずに空中で体が回った。スパイクは苦労して彼女を捕まえなおした。蹴るときは、腰を入れて重心に向けて一直線に蹴るといい、と彼は言った。そうしないと宇宙をさまよう独楽になっちまう。ジュリアは神妙にうなづいた。
 丸い扉を転がして開くと、通路を挟んで向かいの壁が人が歩く程度のスピードでスライドしていた。ビバップ号は元々漁船だったものを強引に改造したものだが、中でも擬似重力を生むための回転シリンダの導入は、改造を通り越して切り貼り細工に近いものがあった。見た目は愉快だが、この継ぎ接ぎ船の不自然さを真に理解したら、彼女は二度と足を踏み入れることはないだろうな、と思い、スパイクは心の中で笑みを浮かべた。
 外壁の内面にあたる廊下も、やはり右から左へスライドしていく。シリンダは常に回転しているから、目的地に近い、しかるべき地点がやってくるまでじっと待っている方が楽だ。だが、そう言って止める間もなく、ジュリアはさっさと足を踏み入れた。足を取られてよろめいたが、すぐに立て直す。2、3回その場でジャンプし、自分の体が地球上とは異なる軌道を描くのを確かめた。スパイクが呆れたように自分を見つめているのに気付くと、僅かに上気した頬にかかる乱れた髪を払った。
「おかしいかしら」
「…人それぞれ、ってことだろう」
「あなたはやらなかったの、一度も?」
 賞金稼ぎはそっぽを向いた。修道女はくすりと微笑んだ。
「まるでガキだな…」 スパイクは呟いた。本当に尼さんなのか、こいつは。
「何か言った?」
「いや」
 居住区に上がるが、ジェットはまだ戻っていなかった。スパイクは好奇心旺盛な連れをリビングに放り出した後、ブリッジに移動して、端末を立ち上げた。シャツの襟元に手をやって緩める。慣れない機械との数分の格闘の後、ISSPの出す、賞金首の公式リストが現れた。狩られる獲物達のリスト。比較的新しい行に、それはあった。
「ペール・バイストロム、通称”スマイリー”、190万ウーロン。こいつが親父さんか」
 檻のような四角い窓の中に、場に不似合いな笑顔があった。名前の示す通り、北欧の血が入っているのだろう。金髪に碧眼。彫りが深く、重々しい顔付きだ。首周りの太さは、スパイクをして警戒心を呼び起こさせる程のものだった。しかし彼の浮かべる笑みには、どこか人を落ち着かせる効果があった。全てを許し、包み込むような、老牧師を思わせる笑み。そして相対的に彼自身の性格、考え方、思想といったものを、極限まで隠蔽していた。映像は15年も昔のものだった。首の太さ以上に信頼のおける判断材料はそこには無かった。
 スパイクの視線は、なおも数秒、その暖かさえ感じる笑みの上をさまよった後、経歴の欄へと移っていった。細かい足取りや裁判の経過などは省かれ、彼が社会に残した傷痕だけが簡潔に記されていた。詳しい資料が必要ならば別のアーカイブに当たらねばならない。

2023:4.8生まれ。
2042:2.5、レッド・ドラゴン陽月派3名殺害。5名傷害。同日逮捕。火星永住権剥奪。懲役30年の実刑判決。
2043:10.21、クレイ刑務所内において、陽月派1名殺害。同日脱獄。10.27、ISSP職員3名傷害。11.2、レッド・ドラゴン緑蛇派1名殺害。
2045:6.13、ディワナにてISSP職員1名傷害。
2046:1.2、ISSP職員2名傷害。
2049:2.6――――

 それ以上読まなくてもスパイクには手に取るように分かる。長老派の古兵がどんな日々を送ったのか。数行の記録に、血と硝煙の鋭い匂いが染み付いていた。抗争、逮捕、逃走、また抗争。彼の姿は繰り返し戦場に現れ、そのたびに伝説が残された。死刑執行人は微笑と共に現れたのだろう。スパイクは、以前出会った狂った殺し屋を思い出した。
 だがその血塗られた物語は、スパイクが組織に加わるよりも以前に、不意に断ち切られていた。画面の半分近くを占める20年間以上の空白。スパイクはその領域に手のひらを当ててみた。ジュリアが生まれたのは、このすぐ後なのだろうか。スマイリーはすでに死んだのか、未だに逃げ続けているのか。それともどこかに次の幸せな生活を見つけているのか。ジュリアが信じている情報が本当に正しいとは限らない。記録は想像を否定せず、肯定もしない。
 ふと顔を上げる。物音がした。次の瞬間に、聞きなれたぼやき声が聞こえ、スパイクは口元を緩めた。
「おいおい何なんだよ、あの姉ちゃんは。勝手に部屋の整理なんて始めやがって。どっかの誰かを思い出すぜ、性格は正反対だけどな。おーい、聞いてるのか、スパイク。お前が連れてきたんだろうが、何とかしろよ」
「何とかねぇ…」
「何とかだ。大体、どうして連れてきた。女なんてトラブルの元だぜ」
 スパイクは、うっ、となった。アフロ頭を掻きながら言う。
「いや、組織に追われてるんだとさ」
「追われてる、ってお前……何か勘違いしてるんじゃないだろうな。あのシスターは、お前の女じゃないんだろう」
「ああそうだ」 スパイクは何も無い空中で手をひらひらさせた。言葉を捕まえる。「あいつはな、情報屋なんだ」
「情報屋だぁ?」 ジェットは歯を剥いた。
「一級品なんだぜ。だから放っておくわけにいかないんだよ」
「分からんね……。まあいい、とにかく、今すぐ大人しくさせてくれ。あの調子じゃ、しまいにゃエンジンまで捨てちまいかねない」
 仕方がねえな。そう言って立ちあがるスパイクの横から、ジェットは画面を覗き込んだ。その顔が不意に引き締まる。
「お、おいスパイク。こいつはスマイリーじゃないか」
「へぇ、知ってるのか」 スパイクが一瞬振り返った。
 ジェットは呆れたように首を振った。一瞬そこに、叩き上げの警官だけが出せる雰囲気が滲んだ。
「最悪の奴だよ」



 リビングに戻った二人を、鋼のような声が出迎えた。
「スパイクさんも、煙草はお止めになったらいかが」
 完全に機先を制され、スパイクは口をぱくぱくさせたまま立ち止まった。腕まくりをしたジュリアは靴音を響かせて合金の階段を登ると、スパイクの正面に立った。その後ろには頭を抱える船主の顔も見える。
「本当はこんなに綺麗な場所なんだから」
 彼女は大きく腕を振った。ビバップ号の数少ない憩いの場所は、長年誇ってきた匂うような生活感を喪い、見るも無残な姿をさらしていた。ピカピカに磨き上げられた青白い壁面、ゴミが一つも入っていないゴミ箱。机代わりの廃電源には、どこから見つけて来たのか花柄のテーブルクロスがかけられ、オレンジ色のソファにも同じ柄の布がかけられていた。信じられないことに、机には3本の花まで生けられていた。花瓶代わりに、ジャンク箱から持ってきたらしい10cm程の鉄パイプの切れ端が使われている。スパイクの顔が青くなった。
「あ、あ、あ。お前、あそこに掛けといた靴下どうしたよ」 とソファの背を指差す。
「靴下……」 ジュリアは眉を寄せた。「ああ、あれ。捨てたわ」
「す、捨てっ――――」
「幾ら何でも、あんなカビだらけのを使ったりしないでしょう? 雑巾にもならないから、捨てちゃった」
 ぽかんと口をあけたスパイクを押しのけ、ジェットが口を出した。「あのな、お嬢さん――――」
「お嬢さんじゃありません。シスター・ジュリアです。呼びたいなら、ジュリアでも結構ですけど」
「シスター・ジュリア。ここは俺の船だ。俺が俺の金で買って、俺の金で改造した。勝手をやられちゃ困るんだよ」
「あら、人は皆、神様の船に乗っているのよ。清潔にする義務があるわ」
「いいかい。俺は宗教論争をするつもりは全く無い。これは極めてシンプルなビジネスだ。かくまって欲しいなら大人しくしてくれ。神様の船に乗りたいなら、俺の船からは降りるんだ」
 ぴくん、とシスターの顎が持ちあがった。
「あらそう。ここがあなたの聖地。あなたの王国ってわけね。ただのオンボロ船のクセに後生大事に抱えちゃって」
「おいちょっと待て――――」
「放っといてやれよ」
 スパイクの静かな声に、突っかかりかけたジェットが振り向いた。スパイクはソファにだらしなく座って机に足を投げ出していた。鉄パイプから抜き取った花を一本手にして、もてあそんでいる。その顔にはほんの少しの微笑さえ浮かんでいた。
「この件が終わるまでの話さ。我慢しようぜ」
 まだ開ききっていない白バラの花だった。左右で濃さの違う紅い瞳に、くるくると回るバラが映り込む。だが彼の視線はバラを通り越して、どこか別の場所を見ていた。
 ジュリアの肩が心持ち落ちた。束の間、スパイクの横顔を見つめる。さっと踵を返すと、そばに立つ大男を見上げた。
「張り切り過ぎてちょっと疲れたわ。どこか休む場所、無いかしら」
「ああ、付いて来な」
 二人が姿を消すと、スパイクはバラを元の場所に戻して天井を見上げた。腕を頭の後ろで組み、さらに体を伸ばす。痩せた体に震えが走った。
「ブルのおっさん、どうしてるかな……」
 しばらくすると、ジェットが戻ってきて、何も言わずにスパイクの正面にどっかりと座った。その重みに花柄がたわむ。義腕で煙草を取り出してから、顔をしかめて相棒の表情を伺った。スパイクの苦笑を確認すると、遠慮なく火をつけた。旨そうに煙を吸いこむ。スパイクも胸ポケットから煙草を取り出すと、箱を振って一本くわえ取った。ジェットがライターを差し出す。光が灯る。
 それでどうなったんだ、とジェットが聞いた。スマイリーはどう絡んでくる。
「ジュリアはスマイリーの娘なんだ」
「何だって!? 畜生、道理で……」 ふーっと息を吐いて体を背もたれにうずめる。スパイクが声を出さずに笑っているのを見て、「何だよ」
「あんた次第だぜ? 警官とシスターならお似合いだ」
「冗談はよしてくれ、あんなの。大体、お前だってハネっ返りは苦手なんじゃなかったのか」
「お互い様さ」
 顔を見合わせ、声を上げて笑った。二人の笑い声が、がらんとした部屋に響いた。笑いすぎてスパイクがむせた。ジェットは二本目の煙草を取り出し、唐突にしゃべり出した。
「スマイリーのことは詳しくは知らん。だが一種の伝説だった。暴力の天才って奴さ。どんな風に殴り、どんな風に引き金を引けば人を殺せるか、スマイリーほどそれを知ってる奴はいなかった。余りにも優秀だったんで、必要な殺し以外、一切やらなかった。通称はスマイリーだったが、警官仲間では『ビショップ』と呼ばれていた。『決められた殺ししかやらない』って意味だ」
「チェスなんて何年もやってねぇなぁ…」
 スパイクは頭をソファの背に乗せて、もうもうと煙を吐いた。チェスと言えば、チェスマスターとやらいう妖怪じみたじじいに一泡吹かされた記憶しかない。
「奴と戦うのか」
「さあね。連れ戻すってのが依頼だけどな」
「そうだな……ソーントンのことは知ってるのか」
 スパイクは肩をすくめた。「そっちは知りすぎてるぐらいだ。スマイリーに比べりゃ、何てこたないちんけな小悪党だ。いけ好かない下司野郎だった。だが憎めない奴だったよ」
「そして仲間だった」 相棒の表情は変わらなかった。ジェットは続けた。「この話は臭いぜ。どうして今ごろスマイリーの賞金が更新されてる。どうしてスマイリー程の男が、ソーントンに捕らえられてる。どうしてジュリアが出てきて、お前を指定した。例外ずくめ、分からないことずくめじゃないか」
「そういうのがいいんだよ」
「ったく。お前って奴は、言い出したら梃子でもきかないんだからな」
「すまん」
「止してくれ。お前に謝られると寒気がする」
 スパイクは笑いながら立ち上がった。「ハンマーヘッドを貸してくれ。俺のはまたガタが来ちまってる」
「それは構わねえが……そうだな、ついでにパーツも買って来い」
「そうしよう」
 あたりを見渡した。不思議そうにジェットが尋ねる。
「どうした」
「畜生、替えの靴下がねえ」



「行ったのね」
 ブリッジでくつろぐジェットの背後に、ジュリアが立った。足元から広がる地上に目をやる。赤い砂漠の中に、ところどころ白いシェルに囲まれた街が点々と見えた。街は、いつまで経っても集まれない寂しい船団のように砂漠を漂っていた。ジェットが振り向く。ジュリアはヴェールを外し、短い茶色の髪を無造作に出していた。ジェットの横をすり抜け、円形のフレームが入った窓に手を触れる。弧を描く地平線に、ちょうど親指が当たった。顔を上げると、そこでも広がる闇の海を星々が航海していた。
「ソーントンとスパイクの関係は、どうやって知ったんだ?」
「自然と耳に入ってくるの。私みたいな境遇だと」 彼女は宇宙を見上げ、星から星へと目を動かした。
「父親か」
「いいえ、父とはもう何年も会ってない。脱獄して数年後に突然現れて、それっきりよ。それに父は、どちらかと言えばそんな話を好まなかったわ」
「あのスマイリーがねえ」
「あなたは彼を知らないのよ。ISSPだったってスパイクさんに聞いたわ。警察側から見ている間は決して彼のことは分からない」
「そうかもな。だがあんたはソーントンについてどれほど知っているんだ? 『法皇殺し』は、ただの鉄砲玉だった頃の話だ。今の奴の力は暴力じゃない。あの底知れない狡賢さだ」
「お友達を心配してらっしゃるのね」 ジュリアは振り向いて優しく目を細めた。「あなたはきっと、スパイクさんのことは良く知っている。彼はクールに見えるけど、きっと本当は子供みたいに無鉄砲なのね。だから心配しているんだわ」
 ジェットは、ふんと鼻を鳴らして視線を外した。無意識の内にか、ジュリアの唇が震えた。目を伏せ、何かを言おうとする。が、結局、どんな言葉もその小さな口から紡ぎ出されることは無かった。彼女は窓の方へ向き直った。ふと、溢れ返る星の一方を指差して言う。
「あの星。沢山集まってる、あれ」
「ああ、プレイアデス星団だな。日本人は昴って呼ぶそうだ。集めるとか何とか、そういう意味だったかな。昔、同僚に教わった」
「私、あの星たちが好きなの。キラキラしていて、綺麗じゃない?」
 二人は無言のまま、青白く輝く散開星団を見つめた。極めて明るく、それゆえに極めて短命な星々。アルキオーネ、メローペ、エレクトラ、マイア、タイゲタ、ケレーノ、アステローペ……
「あれは七人の姉妹だっていう話、知ってる?」
 ジェットはしばし考え込んだ。「ギリシャ神話じゃなかったかな」
「ええ、巨人アトラスと妻プレオネの愛娘たち。可愛いお馬鹿さんたち。何も知らない無垢な娘たちだったのに、情欲に燃えるオリオンに見初められて、何年もつけまわされるの。鳩になって逃げたんだけどそれでも逃げ切れなくて、ゼウスが星に変えてやった。それなのに星空の中でもオリオンに追われてるの。ぐるぐるとね」
「まるでストーカーだな」
「ひどい話よね」 彼女は唇を歪めた。「いつまでも、いつまでも。スタートもゴールも無い道で、ずっとずっと逃げ続けているの。道から外れることも出来ない。向き合って闘うことも出来ない。どこまで逃げたって、逃げ切れるわけじゃないのに――――」
「なッ――!」
「それでも、逃げるしかないのよ」
 微塵の殺気も感じられなかった。小ぶりなオートマティックが、シスターの右手に現れていた。細い闇を湛えた無個性な銃口はジェットの眉間を精確に狙っている。袖口から見える腕は徹底的に鍛え上げられていた。ジェットは瞬時に敗北を悟った。
「……追われていると言うのは嘘なのか」
「余計な口をきかない方がいいわ。ほら、義腕を外しなさい。知ってるわよ、そのタイプ。肘の内側に制御パネルがあるでしょ。そう、それで結構」
 ジュリアは片腕となった男を上から下まで仔細に観察した。決して手の届く範囲には足を踏み入れず、ほぼ水平に構えた樹脂製フレームのオートマティック――グロックだ、とジェットは思った――も下ろさない。的確に指示を出しつつ、手際良く武装解除を終えると、ロングスカートのポケットから、音を出さぬよう布にくるんだ手錠を取り出した。ジェットは舌打ちをした。
「そうだった。あまりにも綺麗さっぱりになってたんで、気付くのが遅れたよ」
「どの道、思い出しもしなかったでしょ。あの有様じゃあね」
 かちりと手錠がはまると、警官だった男の顔に、ほんの一瞬苦い笑いがよぎった。手錠は彼の右腕と、床面に完全に固定されたサブコンソールの足を繋いでいる。ジュリアが思い出したように、そばにあった義腕をさっと蹴り飛ばした。その力が強すぎ、腕の形をした金属は床を滑って、その先のステップを転げ落ちていった。耳障りな音がブリッジにこだまする。ジェットは傍らに立つ女を見上げたが、彼女は視線を合わせようとしなかった。彼女は大きく迂回してメインコンソールに向かっていた。最後の残響が掻き消える頃には、新たな力関係が確立していた。
「お前さんにこの船は動かせないぜ」 ジェットは、せめてもの抵抗を試みた。「何しろ俺の船なんだからな」
「そんなことは無いわ」
「降下はやらずに済ますのか。軌道上で旅客船に乗りかえるつもりだな」
 しばらくキーをつついて様子を見ていたジュリアは、目的のモードを見つけると、すぐに一連の文章を入力した。「言い訳するつもりは無いけれど、追われているのは本当なのよ」
「それだけのことならば、他の運送業者に当たれば良かったはずだ。もっとずっと安全な手段が幾らでもある」
「こんな時までお説教?」
 陽気とも言える調子の反問に、ジェットは言葉に詰まった。その顔に言い知れない表情が浮かぶ。ジュリアはなおも幾つかの画面を表示させていた。口の中で復唱しながら、内容を一つ一つ確認していく。それが終わると満足したように手すりを軽く叩き、体を起こした。無造作にスカートの中に手を突っ込み、予備のマガジンを取り出して腰に装着する。愛銃を収めたホルスターもベルトに通してヒップに吊るした。そこから素早くグロックを抜いてみる。スライドを引いて弾倉を覗き、更にマガジンを抜いて弾数を確かめた。また素早くそれらを元に戻す。そこから思わず手がぴくりと上がるが、すぐに下ろした。何かを振り切るように二三度首を振ると、そのまま足早に丸い通路の方へ立ち去っていく。ジェットは、伝説的な父親に気を取られすぎたと内心自嘲した。プロ並みの腕を持つ女が髪を切って乗りこんできたのに、何も気付かずに居たとは。
 通路の入り口でジュリアは逡巡した。視線は行く先を向いたまま、言葉だけを投げかける。
「今さら無意味だけど、とにかく謝るわ」
「無意味だ」
「この船を乗っ取ったことじゃないの、この船をオンボロ船と言ったことよ。本当のところ、いい船だと思うわ」
 ジェットは何も言わなかった。答えるべきことは無かった。
「大人しくしてなさい。私はすぐ戻ってくるから。男を見せようなんてしなければ、船も命も助けてあげられるかもしれない」
 そして姿を消した。しばらくすると、格納庫の気密解除時特有の、地響きのような振動が伝わってきた。直後、感心するジェットの目前でソードフィッシュがデッキから発進した。わずかな動揺も見せず、赤い翼は静かに飛び立って行った。



 スパイクは最後の積荷を固定し終えると、ハンマーヘッドの貨物室からよろめき出た。荒い息を整えながらステップを降りる。荷を甲板に乗せるまでは備え付けの巨大クレーンでやれるが、倉庫内の配置と固定は人間の手で行う必要があった。流石のスパイクも、最後にはへとへとになっていた。
「お疲れさん」
 整備作業用の強烈なライトの光に照らされながら、カスタムパーツ屋の店主がタオルを投げて寄越した。スパイクは物も言えずにそれを受け取る。安い出物が多く、予定したよりも多くの場所に手が入れられそうだった。営業終了ぎりぎりに訪れたにも関わらず、店主は親切に応対してくれた。
「えらくお目が高いじゃないか、お客さん。掘り出し物を全部持ってかれちまったよ。いや、俺としちゃ大歓迎なんだがね。おたく、火星はレースのためかい?」
「いや……」
 スパイクはタオルで最後に髪をぐしゃぐしゃとやると、それを店主に手渡しながら微笑んで答えた。温かい夜の風が吹いた。
「旧い友人に会いに」


///////////// COWBOY BEBOP ------ EYE CATCH /////////////

<- Section 1 / index / to be continued ->

ソードフィッシュIIは星間レース用の機体である、と、資料には書いてありました。 でも映像を見る限り、ジェット戦闘機並みに空力で戦っています。 良く分かりませんが、形状からするとやはり空力性能がそれほど高いようには思えないので、 ベース機体はゼロ気圧用ということにしてあります。 と言ってもそれがSSの中で意味を持っているわけではないのですが(笑)

ビバップSSで難しいのは、本当のハードボイルドにしてはいけない点です。 ノワールでもダメです。 ビバップはあくまでビバップなのです。