抜く。構える。狙う。撃つ。
 抜く。構える。狙う。撃つ。

 全てが一つの動作になるまで繰り返す。わずかの動揺もない、水が流れるように単純な、一筋の線にまで研ぎ澄ます。過去の経験が次第に解凍されて、体の隅々に浸透してゆく。どんな体勢から、どんな方向に対してでも、全く同じタイミングで銃口が向けられる。一定の時間を置き、カチン、とジェリコの撃鉄が鳴る。その他の音と言えば、彼の肉体が空を切る音と、わずかな靴の音ぐらいのものだ。そして、ビバップ号の機体が立てる遠雷のような振動。
 暗い通路の奥から大きな人影が現れると、彼は構えた姿勢のままで動きを止めた。ちらりと視線だけを送る。人影はタバコに火を付けて放ってよこすと、告げた。
「スパイク、メシだ」
「今日は何だ」 スパイクは拳銃をおろすと、流れてきたタバコをつまんだ。いがらっぽい煙を一息、うまそうに吸い込む。
「それは見てのお楽しみ、さ」
 二人は狭い通路を移動し、リビングを兼ねた食卓についた。ついこの間まで騒動の絶えることがなかったもう二人――いや、二人と一匹――の奇妙な道連れも、もうここにはいない。ビバップ号は再び、金属的な静寂を取り戻していた。
 ジェットはソファの背もたれに体重を乗せると、禿げ上がった頭を撫でながら言った。「思うんだがな。利口なやり方じゃないぜ」
「ジェット…こりゃ一体何だ?」
「聞いてんのか、おい」
「そりゃ、こっちの台詞だ」
「ホイコーロー」
「は?」
「だからよ、その料理の名前。ジェット特製回鍋肉」
 青椒牛肉絲ならまだしも、肉のない回鍋肉まであるのかよ、と愚痴りながら箸を動かすスパイクは不満の表情を隠そうともしない。だがジェットは押し黙ったまま、テーブルの真ん中をにらみつけていた。思えば、こいつと狭いビバップ号で太陽系を飛び回る生活もずいぶん続いていた。気付かずにいるには、余りにも長い時間だ。このひねくれ者の相棒がおおっぴらに気をゆるめるのは、一つの儀式であるということに。
「馬鹿な男だぜ、お前はよ」
 スパイクは肩をすくめた。「男はすべからく馬鹿なんだそうだぜ」
 無言の食事が続き、やがて箸が皿の上で乾いた音を立てた。スパイクが立ち上がって、ソードフィッシュの具合を尋ね、ジェットは全てオーケーだと仏頂面のまま答える。スパイクは頭を下げる代わりに再び肩をすくめ、礼も言わずにすたすたと立ち去った。ジェットは、それが彼なりの再会の約束なのだろうかと訝りながら、反対にブリッジへと向かった。広く取られた窓の外には、火星の燃える炎のような地表が広がっていた。

 星が流れる、わずか2日前のことである。




Seven Sisters' Road

section 1




 それは単なる食料品店に過ぎなかった。スラムにも、新しいビジネス街にも程近く、程遠く、火星で最も古い路地の一角にある、火星で最も古い食料品店の一つ。そこにあるのが当然のような、あたかも地形の一部のような店。一人の男がレジの向こうに座り、パイプをくゆらせて商品の質を落としながら、儲けが薄いのは万引きで空けられる大穴のせいなのだろうかと考えているような店だ。
 昼過ぎに三人の男が店に入り、数分後に出ていった。
 その日は特別に客の少ない日だった。大雨のせいもある。だがそれ以上に、何かの不吉な影が臆病な住民達を怯えさせ、固く閉ざした自宅のドアの向こう側に押しとどめていた。影は誰にも説明できない速度で町中に広まり、人々は申し合わせたように一瞬で消え失せた。ある意味で事件は問題の経営者が余りにも周囲の雰囲気に鈍感であったせいとすら言えるかも知れない。だがそれは、なぜこんな平凡な食料品店が襲われたのかを説明する理由にはならない。
 ジェットが訪れたとき、店主である中国系の中年男はまだレジの向こうに座っていたが、体のあちこちに空いた34個の穴からすっかり血を流し尽くして息絶えていた。ジェットは軽く舌打ちをして店を出た。店の外には、裸足の子供が雨に打たれて突っ立っていた。
「閉店だとよ」
 子供を追い払うと、ジェットは通信機を取り出した。レッド・アイの大物ディーラーとして挙げられていた100万ウーロンの賞金首の通知は、誤情報としてキャンセルされていた。ISSP時代の友人に連絡を取ったが、彼は黙って首を振った。知らないという意味なのか言えないという意味なのかジェットはその真意を測りかねたが、恐らくその両方なのだろうと思い直した。昔使っていた情報屋に次々と当たったがそのほとんどは行方をくらまし、残りはこの世から行方をくらましていた。一人だけ、今ではまっとうな実業家として成功している男がいた。
「俺なら逃げるな」 男は言った。「どうもきな臭い。組織で一悶着ありそうな雲行きだ」
「一悶着」
「しばらく鳴りをひそめるんだな。下手に恨みを買うと、コレだぜ」
 映像の中の男は、血管の浮いた首に手を当てて見せた。ジェットは礼を言うと回線を切った。ハンマーヘッドに乗り込み、ソードフィッシュを呼び出そうとしたが、応答が無かった。こんな時に役に立つ子供の天才ハッカーも、勝手に行動して状況をひっくり返してくる女もいない。不自由だ。
「おかしなことになっていやがるぜ、スパイク」
 ジェットは一人ごちた。雨がキャノピーを叩く。



 指定された場所は寂れた教会だった。それを聞いた時、スパイクは奇妙な確信と共に唇を歪めたものだ。彼女は、一度は殺し損ねた俺を、再び地獄へ送ろうとするだろうか。それとも、今度は手に手を取って逃げてくれるのだろうか。どちらだとしても構うものか。スパイクは自嘲した。どのみち、自分に選択肢などありはしない。選択は常に未来にあるものだ。
 ソードフィッシュを2ブロック手前の空き地に降ろした。ランディング・ギアが激しく軋むのを聞いたとき、そう言えば最近また大気中で酷使していると思い出した。壊れられると困るが、今のスパイクには機体を思いやる余裕はなかった。コクピットから飛び降り、早足でその場所へ向かう。強い雨が降っていた。足元で跳ねた水滴が霧のようになって、人のいない街並みを灰色に塗り替えていた。賞金稼ぎは、一人歩いた。
 雑草の茂る芝生の向こう側に、その教会はあった。雨に打たれ、小さな建家が、いっそう小さく見えた。彼は迷わず正面の扉の前に立つと、開け放った。
「ジュリア!」
 声は湿った壁にしみ込んで消えた。同時に、祭壇の前のシルエットが素早く立ち上がって振り返る。既視感。全身の血が沸騰した。もう一度、焦がれるほどに己の半身の名を呼ぶ。
 だが、駆け寄ろうとしたスパイクを、人影が片手で制した。口を開く。そこから漏れたのは、聞き覚えのない声だった。絶望が湿気と共に彼の身を包んだ。
「あの、どなたでしょうか」
「あ……」
 絶句する濫入者を、一人のシスターが小首を傾げて見つめていた。髪も瞳も、あつらえたように同じ濃さのダークブラウン。顔立ちは、十人並みと言ったところだった。若干、自分よりも年上に見える。何故勘違いなどしたのだろう。ひとときも忘れたことのない、あの女性と。
「連絡があった。ジュリアという女性から。どこにいる?」 平静を取り戻し切れぬまま、彼は尋ねた。
「ジュリアをお探し? あなたのお名前は?」
「スパイク。スパイク・シュピーゲル」
 シスターはにこりと笑った。力強い、快活な笑みだった。
「あなたを待っていたわ。私が仕事を依頼した、ジュリアです」



 三人の老人が、高みから一人の男を見下ろしていた。寒気がするほど広い部屋だった。朱色の壁と、朱色の絨毯。中国系の趣味は分からねぇ、と男は思った。どんな時も無表情のくせに、血の色を見て生活しないと落ち着かないとは。
「ソーントン、重ねて訊く。蛇の牙をどのようにして折るか」 老人の一人から声が飛んだ。
「赤い月の晩、蛇が走る。占い師はそう告げておる。だが、我々は事実を知らねばならぬ」 もう一人が言う。
 ソーントンは立ち上がると言った。優男風の容貌に、長髪を束ねたオールバック。「大量の武器が買い付けられた。ライフル、ショットガン、ロケットランチャーと夥しい数の弾薬もだ。全面戦争の証拠は揃いすぎている。だが、今踏み込めば逃げられてしまう。逃げられちゃ仕方がない。長老方は蛇の頭を確実に捕らえ、胴から尻尾の先に至るまで粉々にすり潰してやりたいんだ。それまで手が出せない。そうでしょう。向こうもそれを知っているから、動きを隠すつもりもない」
「良く回る舌だ」
「白ばっくれないで下さいよ。俺がいれば、ビシャスが行動を起こす瞬間を捕まえられる。そう言ってるんだ。あんた方はそれを必要としている。喉から手が出るほど欲しがっている。そうでしょう。選り好みなどしている暇はないはずだ。買うんですか。買わないんですか」
 知らず知らず、右手の指が不可思議な運動をしているのに気付いた。子供の頃からの癖だった。
 長老達は黙っていた。太陽系最大最強の組織、レッド・ドラゴンを束ねる、魔術的な容貌を持った三人の老人。揃って子供のような体躯でありながら、その知力と洞察力で全ての障害を乗り越え、現在の地位を築き上げた。そして今、互いに目配せもせずに、じっと自分を見下ろしている。感情のない六つの瞳が、俺の心の底にあるものを探り出そうとしている。突然、自分は何も分かっていなかったのではないかという疑念に捕らわれる。彼らこそが知っているのだ。彼らこそが全てを見通しているのだ。俺のことも、ビシャスのことも、スパイクのことさえも。人が何のために生きるか、何のために命を捨てるかを知っている。血の海を渡る者は、泳ぎ方を知っているのだ。
「買おう」
 ようやく長老の一人が口を開いた。ソーントンは膝から力が抜けそうになるのを自覚したが、無論そんなことはおくびにも出さなかった。
「では交渉成立ですな。約束のもの、お願いしますよ」
「木星圏におけるレッド・アイ取引の権限か。あ奴の後釜に座る気か。高望みなことだ。だが、考えておいてやろう」
「冗談じゃない。俺は、今、その地位につけてくれと言っているんだ。どうせ今は、火星からのパイプが押さえられて取引はない。おかげさまでね。一方、ビシャスは、あんた方を殺すことに血まなこで、本来の仕事なんざ忘れてる。あいつは強い。俺達が負けたら、命はないんだ。今やってくれていいでしょう」
「……良かろう」 長老達は無表情に答えた。「だが忘れるな。己の杯を越える血は、地中の悪鬼を肥やす」
 その台詞、そっくりそのまま返すぜ。ソーントンは思った。



「そう、それであんなに」
 傍らで頷く女をスパイクは、見るとはなしに見やった。
「それにしてもびっくりしたわ。あんな風に情熱的に名前を呼ばれたのは初めてだったもの」
 シスターは、たちまち口をとんがらせたスパイクにクスクスと笑った。「その方と私、似てるのかしら」
「いや全然。全く」 早口に答えた上、念入りに付け加える。「露ほども似ていない」
「残念がるべきなのかしらね……」
「それで仕事は。賞金首がいるって話はどうなんだ」
「いるわ。800万ウーロンの大物が」
 口笛を一吹き。「すごいな。それで、幾らだ」
 シスターはかぶりを振った。
「お金は要らない。その代わり、そいつに捕まっている200万ウーロンの賞金首を救い出して、私のところへ連れてきて」
「誰だい、そいつは」
「父よ」
「父親だぁ? 何だそりゃあ」
「受けるの、受けないの?」
 スパイクは素早く考えた。彼は武器を必要としていたし、ソードフィッシュの具合も気にかかった。計算はあっという間に終わった。
「いいだろう、その情報は買う。……だが、一つだけ、教えてくれ。どうして俺を選んだんだ。二人とも挙げちまうとは思わないのか」
 思い出の名を持つ女性は、振り向いて答えた。「あなたなら、父を助け出してくれると信じているから。かつて、レッド・ドラゴンで最も勇敢で、義に厚い男だった、あなたなら。長老派の幹部だった父は、ビシャスの右腕の男に捕えられているのよ」
「ビシャスの右腕。まさか…」
「そう。法皇殺しのソーントン」



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「SSを読むときはディスプレイから離れるんだ。そう、1kmぐらいだな」
「離れすぎだよ…」
「800m?」

いくらなんでも肉無し回鍋肉はひどすぎた(^^;