鬼追抄   〜八月の空〜




「鶴間さん……鶴間さんってば!」
 自分の名を呼ぶ押し殺した声で、鶴間猛(たけし)は、ふと我に帰った。見れば、受付に座っているはずの斉田女史が、ちょっと正視しづらい表情で自分を睨みつけている。彼は反射的に首をすくめた。斉田は御歳五十ウン歳の役場の主だ。
「お暇なご身分で結構なことですけどね。ええ、別に構やしないですよ。でも、あたしの仕事の邪魔はしないで欲しいですよ」
「え、ええっと、失礼? 話が見えないんだけど」
「お客さんですよ、あなたさんに。もうずっと待ってるんだから。それなのにこんな場所で寝こけてねぇ。郷土史に興味があるとかで。ほら、そちらのご専門でしょ。若い娘さんですよ。全く何のご専門筋やら……」
「ああ、すいません」
 次々と吐き捨てられる脈絡の無い毒舌に辟易しながら、鶴間は慌てて立ち上がった。辺りを見渡しても、城掛(しろかけ)村役場史料課の狭い部屋には自分達以外の誰の姿も見えなかった。と言っても、史料課には元から男二人しか人員がいない。課長の永沼と、課長以外の役職を全て兼任している鶴間だ。そして永沼は、二日前から調査と称した山歩きに出かけている。
 そろそろ斉田の人相の変化が限界を超えて元に戻らなくなってしまいそうだったので、彼は足早に部屋を出た。すぐにその娘が目に入った。薄い色の服と真っ白な肌が、薄暗い建物の中でひときわ目立っていた。受付のカウンターに立つ濁ったガラス越しでも、彼女の清楚な威厳が伝わってくるようだった。こんな漁村では見かけないタイプだ。いや、そもそも現代では見かけないと言うべきかもしれない。
「すみません、その、ちょっと立てこんでましたんで。史料課の鶴間です」
 彼女がこちらを向いて、ぺこり、と頭を下げた。よく見ると意外なほど若い。顔を上げると、肩まで伸びる漆黒の髪が音を立てずに流れた。丁寧な口調で話し出す。
「お呼び立てして申し訳ありません。私、柏木と申します。以前から東北の郷土史に興味がありまして、少しお話など伺えたらと思ったのですが……」
「ああいえ、用事はもう終わりましたから」 彼は慌てて手を振った。「構いませんよ。どうぞこちらへ」
 史料課部屋へ通そうとして振りかえると斉田女史が目の前に立っていた。鶴間は飛び上がった。
「さ、斉田さん。あ、ええと、お茶は私がやりますよ。どうぞ休んでください」
「はあ?」 中年女性の目つきが、いよいよ剣呑なものに変わった。
 迂闊だった。
「いえ、そういう意味じゃなくてです。あの、これ以上お仕事を邪魔するのもアレかな、と思っただけでして」
「お客様にお茶をお出しするのも私の仕事なんですけどね」
「……すいません、お願いします」
 不穏な空気をマントのように翻して去って行く斉田の横を、入れ替わりに柏木と名乗る娘が歩いて来た。彼は思わずその様子に見とれた。日本舞踊でもやっているのだろうか、と鶴間はちらりと思った。そのぐらいひとつひとつの所作が美しく、自然体だった。白地のワンピースに細いベルトを締め、丈の短いベージュの上着を羽織っている。その他にはハンドバッグ一つの軽装だった。乱雑に置かれた段ボール箱の山にも戸惑う様子を見せない。わずかに年相応に見えるのは、服装に合わない古いスニーカーだけだった。
 接客用スペースに通すと、二人は机を挟んで向かい合わせに座った。鶴間は役場が10年前に発行した解説付き資料集と、幾つかのパンフレットを重ねて差し出した。娘は遠慮勝ちに資料集を手に取ると、ぱらぱらとめくった。少し様子を見てから、もう一度目次に戻って読んでいる。それを見つめながら、鶴間は自分の中の浮つく気分を抑えきれずに当惑した。娘のほんのささいな動きの全てが彼に強い感銘をもたらしていた。わざとらしい咳払いをして切り出した。
「ええと、柏木さんは大学生でしょうか?」
「はい」 彼女は本を置いてうなづいた。
「すると、こういったことは専攻の関係で」
「あ、いえ、そうでは無いんですけど……」 娘は曖昧な表情を浮かべた。「個人的な興味です」
「いや、いいんですよ。むしろその方がいいですね。誰かに言われてやるんじゃなくて自分で興味を持って調べるのはとてもいいことです本当に。私に言われても説得力無いかなあははは」
 柏木は無表情に彼を見つめている。彼は心の中で頭を抱えた。
「セーンセ、下手な鉄砲は撃たない方がいいですよ」
「うわぁっ」
 いつの間にか、背後に斉田が忍者の如く控えていた。彼女はそ知らぬ顔でお盆を机に乗せ、湯飲みを並べた。お茶請けの菓子まで用意してある。
「はい、どうぞ」
 ありがとうございます、と柏木が小さな声で礼を言う。
「この若センセは、これで立派な学者様ですからね。ちゃんと教わるといいですよ。何しろこんな辺鄙な村のことで一冊本を書いちゃうぐらいですから」
「あ……」
 柏木は本の表紙を改めて見なおした。鶴間には見ないでも分かる。『城掛略史 監修:白上正志 著:鶴間猛』と書いてあるはずだ。彼は娘にうなづいて見せた。
「院生時代の論文を元に、改めて書き起こしたものなんですよ。物語風に書いた部分と、学術的に興味深い議論を変わりばんこに並べてあるんです。監修の人はうちの課長、永沼と言うんですが、その義理の叔父に当たる人で、私の指導教官だったんです。変わった老人でした。最近亡くなりましたが」
 娘は『城掛略史』に一層の興味を持ったようだった。目次に人差し指を挟みこんで頁番号を参照しながら、素早く内容と題目を照らし合わせている。斉田は、片眉を上げて意味ありげな視線を鶴間に寄越すと、小脇にお盆を抱えて退出した。鶴間は、柏木嬢が大体の構成を把握するまで待つことにしようと決めた。一言断ってから胸ポケットの煙草を取り出し、100円ライターで火を点けた。部屋の大部分は前時代的な応接室を古臭い薄っぺらな書棚で囲った作りになっていた。郷土の特産品やら古地図やらが所々に配置されていて退屈さを幾らか軽減しているものの、鶴間のような物好きでなければ何も好き好んでこんな場所にいたいとは思わないだろう。見も知らぬ娘が、ここで自分のつまらない著作を熱心に読んでいるという現実は極めて不自然で驚異的だった。麗しき濫入者は機械のように精密な動作で本の中身を吸い上げ続けている。
 ちょっと心の中で数えてみた。ここで働くようになって既に10年経った。この道を志してからは20年近くになるだろうか。もうそんなになるのか、良くも続いたものだ。
 彼は猛という名にも関わらず、何とも貧相な体つきで優しげな顔をした男である。生まれたときから虚弱児で、父親は猛が生まれて三日の内にニシン漁を継がせることを諦めたと言う。そのまま彼は何を目指すことも無く育ち、高校を卒業すると都会の大学へ行き、文系では珍しく大学院まで何となく時を過ごした後に公務員となって帰ってきた。相変わらず痩せこけたままで、似合わないスーツに身を包んだ息子を、父親は複雑な面持ちで見つめたものだ。その父も数年前に他界している。
 だが、史料課勤めは彼にとって天職であった。無論その理由の一つは、時々むやみに申し訳無くなって、誰にともなく謝りたくなるぐらいの閑職である点であるが、もう一つの理由は、心ゆくまで郷土の不思議を探求できることだ。
「すみません、あの」 娘の声に我に返った。
「はい、何なりと」
 彼女は手に持った本をくるりと回し、開いたページを指して言った。
「この、白上家ですか、ご子孫の方々というのは、今でもこちらにお住まいなのでしょうか」
「ああ、庄屋さんですね」
 娘は一瞬きょとんとした顔をした。鶴間は微笑んで付け足す。
「そう、よく時代劇に出てくる、あの庄屋さん。もちろん今は違いますよ。あっちの方で旅館をやってます」
 鶴間が指した方向を見上げたが、そこには崩れかけた本の背表紙が並んでいるばかりだった。鶴間は笑って、谷間を川沿いにちょっと上ったところにある温泉宿で、あまり綺麗ではないけれど露天風呂もあると言った。屋号はシンプルに城掛旅館と言う。
「今の白上家は分家も分家でしてね。まあ色々あったようなんですが、家系図も江戸中期で途切れちゃっていて、実際のところそこに書いた白上家とどの程度繋がりがあるのかは分かりません。でもこの村では、やっぱり白上の家はお殿様ということでやっていたんですよ。ほんの数十年前までね」
「尊敬されていたのですか?」
「若い方には不思議かも知れませんね。まぁ、大昔から続くメンタリティというのは、ちょっと今の言葉では説明できないところがあります。尊敬というのがしっくり来なければ、受け入れられていた、ぐらいに取って下さい。白上家は庄屋さんで偉いんだ、という世の中で、村人たちは生まれて育ち、死んでいった。別に誰も文句は言わなかったんですね。そうそう、正徳…ってええと18世紀始めの頃の白上喜兵衛さんという方が日記を残しています。それを見ると、庄屋という仕事が意外に忙しくて、微妙な判断が要求されることが分かりますが、白上家がいかにそれを真面目に捌いていったかも読み取れます。彼らは村にとっても必要な存在だったわけですね」
「お互いの立場が噛み合っていたから? 村の中で」
「村と言っても、ここまで小さいと村全体で一つの家族みたいなものですけどね――――あ、そうだ」
 彼は机に広げられた『城掛略史』を取り上げた。
「すっかり忘れていましたよ。そうそう、この本の監修の白上先生もご一族です」
「確か、ここの課長さんが義理の甥御さんでいらっしゃると言う……? ちょっと驚きました」
 言葉通りに目を見張り、改めて本を手に表紙を眺めている。鶴間は不思議に思って聞き返した。
「そんなに驚かれました?」
「あ、いえ」
 大したことでは無いんです、と娘は微笑んだ。
「ただ、自分の家にまつわる恐い伝承を、こうして書き残したり、それと向き合ったりするというのは、どんな気持ちがするものだろうと思いまして」
「なるほど。実は私も気になって、白上先生に直接尋ねてみたことがあります。伝承によれば、白上家は鬼の血を引く化け物一族ということになるが、如何にあらん、とね。そうしたら、人も鬼もその形はただの依代ではなく、他には変われ得ぬ因縁があるのだから、人には人の家、鬼には鬼の家が必要なりと、笑って仰せになりましたよ」
 淡い色をした娘の唇が、かすかに動いた。鬼の家。
「昔から、様々な理由から鬼と呼ばれるようになった人がいました。それは、山へ逃げ込んだ先住民族や政治犯だったり、あるいは祭祀や、忌みの習慣の犠牲となって捨てられた者だったりしました。字の形こそ同じ『鬼』ですが、彼らは中国起源の怪物たる『カイ』ではなく、大和の社会に属さぬ人々、『おに』だったのです。人の家には戻れぬから、彼らは『おに』の家を持ったのでしょうね」
「……私は、あまりそういう話が好きになれません」
「悲しい話ですからね」
 娘は目を伏せた。
 しばらく民俗学についての話を交わした後、これから城掛旅館にお邪魔してみようかと思います、と彼女が言った。
「分かりました。じゃ、紹介状を用意しましょう」
「そんな、どうぞお構いなく……」
「いえいえ、住人同士の挨拶みたいなものですから」 鶴間はそう言って笑った。「実を言うと、あんまりそういった機会が無いので、ちょっと書いてみたいんですよ」
「はぁ」
 ほんの数分で戻ってきた。封筒やらパンフレットやら紙袋やらを両手に持っていた。「はい、こちらが紹介状。女将に渡して下さい。白上先生のお従姉妹さんです。それと簡単ですが地図。あと、折角ですから『城掛略史』も差し上げましょう」
 柏木は小さい声で何度も感謝の言葉を述べた。娘が頭を下げるたびに、黒い髪が鶴間の心をかすめて揺れた。
「あの……何か?」
「い、いいいいえ、すみません。やっぱり都会の方はお美しいですね。あはは」
 また見とれていた。
 ――全くどうかしてるぞ、10歳以上も年下の娘に。
 鶴間は猛省したが、それでもやはり娘に気を取られていた。顔を伏せた様子がおかしかった。何か間違えただろうか。いや、色々間違えたような気もするが、それでも、そんな、泣くようなことを自分は言っただろうか。
「そう…ですか…」
「え?」
 柏木がぱっと顔を上げ、あやうく鶴間の鼻にぶつかりそうになった。泣いてなどいなかった。照れ隠しなのか、しきりに黒髪を頬を擦りつけるようにしながら言った。
「いえ。そのぅ、私、都会の人間ではありませんし」



 じっとりと額に滲む汗をハンケチで押さえながら楓は歩いた。バックパックを担ぎ直した。役場の近くに隠して置いた細長い包みは、左手にしっかり握られている。真夏の太陽は真正面から照りつけていた。渓流に沿って敷設されたアスファルトの道路は容赦なく日光を照り返し、彼女の肌を灼いた。トラックが落とした砂利が、スニーカーの裏で鳴った。蝉の声が恐ろしいほどにこだましている。普通に歩いていると、思ったより遠い。
 実は役場を出た途端に道に迷った。迷ったと言うのは少し違うかもしれない。方角ははっきりしていたので、それらしい道をまっすぐ山へ向かって歩いていったところ、田んぼに出てしまったのだ。角っこの所をショートカットすれば正しい道に出られそうだった。もう水が抜いてあったので、歩けるな、と思って踏み込みかけた現場を農夫に押さえられ、思い切り説教された。情けなくて少し涙が出た。もらった地図の通りに行けば良かった。
 振り返って、ハンケチの下から空を見上げた。谷間の向こうに入道雲が見えた。本当はあの雲の陰に、想い人はいるのではなかろうか。暑いと必ず不平を言う人だったから。
 支流を渡る小さな橋を二つ越えたところで、目当ての建物が見えてきた。お屋敷の倉を改築して建てられた、城掛旅館だ。度重なる建て増しのために、今では、白い壁を除けば、倉の面影もすっかり薄くなってしまった。ちなみに本家はその後、もう少しふもとの方に移築してしまったと言う。
 様子をうかがいながら敷居を越えると、玄関は無人だった。隅に並べられている上履きに履き替え、一つ声をかけてから上がった。管理人室と書かれている部屋を覗き込んだが、やはり誰もいない。ふう、と一息ついて思案を始めたところで、背後から鋭い声がかかった。楓は飛び上がった。
「もし」
「は、はいっ。あ、すみません、こちら――」
「待ちなさい。質問はこちらからじゃないか。知らんのかい」
「いえ……申し訳ありません」
 七十歳を越しているだろうか、小柄な老婆が、いつのまにか土間に立っていた。その表情は逆光になっていて良く見えず、ただ二つの厳しい眼光だけがこちらを見据えている。覇気とも妖気とも取れぬ迫力に射抜かれ、楓は金縛りにあって立ち尽くした。老婆が、こつこつと杖を鳴らした。
「一体どうなすった」
「火事を逃れて参りました」
「どの道を通って来た」
「和は隠より生ずと心得、山の道を歩いて参りました」
「道中、苦労しなすっただろう」
「地に同胞(はらから)の、天に星の助けを頂きました」
 老女がつかつかと歩み寄った。思わず後ずさる楓の顔を見上げると、やおら顔中に皺を寄せて笑った。「正解だ。久し振りだのう、城掛への旅人は」
「やはりこちらにも残っていたのですね、『星の道往き』の習わしが。助かりました」
「あたしにとっちゃ、あんたみたいな年端も行かないお嬢さんが、これを知っていることの方が驚きだね。あんた、どこの者だい?」
「申し遅れました。わたくし、鶴来の柏木家の者で、楓と申します」
「鶴来の」 老婆は目を丸くした。「おやまぁ、頭領じゃないか。ダリエリの代に会うのはこれが初めてだよ。白上家の祖はエドウナと言って、『遠耳』だった。今で言う通信事業者」
「白上さんも雨月のダリエリなのですか。私も初めてお会いします。驚きました、ヨークの一族は柏木のみと思っていたのですが」
「この星に流れ着いてから、すぐにはぐれたのが数人いたんだ。なに、こっちは系図があやふやでねえ、中間のところが分からないんだが、それでも同族なのは間違いないと思うよ。良く来なすった、楓さん。好きなだけご逗留なさりなさい。あたしゃ白上トキ。半分は、ここの女将をやってる」
「半分?」
「もう半分は、自分の墓掘ってるさね」 白上トキは意地悪く笑った。「でもまあ、長生きはするもんだね。頭領に会うなんて、そりゃあんた思いもよらんことだよ」
 顔中に皺を見せて笑う女将に、楓はむずかゆい思いで答えた。
「頭領なんて。もう五百年も昔の話です。気になさらないでください。第一、私は家長でもありませんし」
「そうかねぇ。あたしは小さい頃からそう言う風に育てられてきたからねぇ。それに、何だ、やっぱり頭領にお目にかかれたって方が気分がいいよ。大体、楓さん、あんた、あたしにも分かるぐらいのはっきりした妖力出してるじゃないか」
 楓の首が、かすかにうなだれた。「分かりますか」
「そういうのは、アレだから。血だからね。あんたのせいじゃないよ。――しかしそれだけ濃いと大変なんじゃないかい。あんまり散らさなかったんだね」
「柏木の血は散らないんです。何故かは分かりませんが……。多分二代目、リネットの娘以降、ほとんど変わらないんじゃないかと」
「ええ?」
 思わず声を上げると、女将は悲しげな娘を見上げた。杖を壁に立てかけ、皺の寄った手を楓の白い頬にそっと添える。
「でも――それにしちゃあ薄いんじゃないかい。これならまだ十二分に生きていられる」
「はい」 楓はうなづいた。「実は先代、つまり父の代で、本流が弟の家に継がれてしまったのです」
 女将はまじまじと娘の顔を見つめる。楓は微動だにしなかった。
 ようやく視線をはずすと、老女は身をかがめて杖を取り、くるりと背を向けて廊下を歩きだした。
「まあ、詳しい話はおいおい聞かせてもらうとして、今日のところはゆっくりしなさい。部屋に案内するからついておいで」
「はい」
 楓は素直に返事をすると、荷物を取り上げ、女将の後に従った。
 増築を重ねた温泉宿の例に漏れず、城掛旅館は必要以上に複雑な構造をしていた。山肌に沿って細長く伸びる旧、新A、新Bの三つの宿泊棟は、それぞれ階の高さが微妙に異なっている。新A棟と新B棟の間は完全に接合されているが、5段ほどの不格好な階段を上り下りする必要があり、旧棟と新A棟を行き来するには一階の渡り廊下を通らねばならなかった。受付のある正門はB棟正面にあったが、女将は楓をえんえん旧棟まで連れて行った。
「空いてますね」
「そうなんだよ。ここ十年、この調子さ」
 夏の観光シーズンだというのに、宿泊客の姿は数えるほどしか見られなかった。曲がりなりにも鶴来屋の娘である楓には、無意識の内にそれが不安に感じられてしまう。だが、百戦錬磨の女将であるトキによれば、それでも別に大丈夫だということだった。
「美味しい料理出して、お風呂作って、設備直して、サービスして、宣伝して…っていうガラじゃないからね、うちは。屋根を貸す貧乏地主だった頃と、心持ちはほとんど変わらないから。なりは大きいけど、やり方はせこいのさ」
「せこいだなんて」 楓は微笑んだ。
「ほんとだよ。飯は大抵、地元の市場から仕入れて適当に作ってるし、風呂は天然だし、設備は壊れたら使わないようにするだけだし。おまけに若くて綺麗な仲居さんの代わりに、こんな皺くちゃばばぁと来たもんだ」
 笑ってよいのか分からず戸惑っている内に、女将の足が止まった。障子の向こうにこぢんまりとした和室があった。頭領にふさわしい、この旅館で一番由緒と格式のある部屋だと言われて慌てたが、トキは譲らなかった。勿体ないと言って何度も断ったのだが、結局部屋に押し込まれた。はぁ、と呆れたようなため息をついて座り込む。夕食になったら呼ぶからと笑って女将は去った。
 こうなったからには仕方ない、思考を切り替えてこの状況を楽しもう、と思った。両足を崩すと、頭を巡らせて周りを見渡した。そもそも民宿でもないのに障子張りという時点で、すでにこの部屋は旅館の客室ではなかった。いみじくも女将の言ったとおり、親戚筋などに屋根を貸していた時代の名残りなのだろうか。だが元々屋敷住まいの身には、ここの雰囲気がちょうどしっくり来た。高い天井に畳の香りがうっすらと立ち上ってゆくような……。耕一さんを泊めていた部屋もこういうところだった、と楓は思う。女将に煎れてもらったお茶を啜りながら障子の隙間越しに見える景色に目をやった。山の向こうに夏の午後の青空が広がっていた。この部屋は、どこかで自分の家と繋がっていると感じた。
 隅の書き物机には便箋がきちんと用意してあった。いい手触りの、高級な紙だった。落ち着いたら、久し振りに手紙を書こうと思った。楓は無事です。親切な人たちのお陰で一息つくことが出来ました。でも旅はまだまだ続きそうです。身勝手でごめんなさい。みんなもお元気で。
 夕食を知らせる電話に出ないので女将が見に来たとき、楓は外出着のまま、放り出された荷物に囲まれ、畳の上で眠り込んでいた。



「あ、いた、女将っ、大変だ!」
 従業員食堂で、食後のことだった。あの魚を食べたことがあるかとか、あの街に行ったことがあるかとか、明日になったら息子が来るから紹介してやろうとか、当たり障りのない会話に花を咲かせていたトキと楓の二人は、突然の来客に驚いた。中年太りを隠そうともしない警官と、もう1人。
 あ、と楓は思った。役場にいた人だ。確か、鶴間さん。
「何ぞあったかい、古館さん」
 警官は、両手をズボンにこすりつけ、無闇に息を吸い込んで吐いた。
「トキさん、落ち着いて聞いてくれ」
「あんたに比べりゃ、誰だって落ち着いてるよ」
「そうだろう、そうだろうよコンチキショウ、あ失礼こっちのことで。それで、その」
「この子は身内だから気にしないでおくれ」
「お身内で? う、うーむ、とすると尚更……」
「いいから話さんかい、この唐変木め」
 古館はもう一度息を吸い、目をつぶって答えた。
「永沼さんが亡くなった」
 女将は警官の顔をじろりと睨んだ。「じじいの方かい、息子の方かい」
「息子の方だよ。おまけに、また他殺だ」
「何てこったい……」 頭に手を当てた。「どうして」
 ぷっつりと音が途切れ、狭い食堂はしんと静まりかえった。やがて古館が、小声でぶつくさ呟き始めた。
「――今年に入って3人目だ。今度という今度は県警がやってきて、村中引っかき回しちまう。ごまかせるもんか」
 誰も答えなかった。楓は太った警官の肩越しに、青い顔をした鶴間を見た。もともと痩せた体が、今やつまようじのように見えた。彼は小さくうなづいた。
「私の上司です。山歩きに出ると言って、それっきり帰って来なかったんです。さっき現場に行って来ました。まるで熊が十匹よってたかったような、それはひどい殺され方をしていました」



(つづく)


2002/02/04 up
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