まえがき

痕やってた頃から、ずっと書きたかったんです〜〜。遂に始めちゃいました。これで連載四本かけもち。どのぐらいの量になるかはちょっと分かりません。今回は構成作ってないので。

かなり雰囲気重視なお話ですよね。自分の中では古いネタなので、テーマ的な練り混みが甘い分、設定やノリがちょっと違います。ほんの少し違う酔狂味が出せれば嬉しいです。

あ、古文は突っ込まないでください。デッチ上げなので(笑)。雰囲気重視。


鬼追抄   〜八月の空〜



 夕暮れの頃から雨もやみ、やがて見事な満月が上った。足早に山道を歩く楓の背中で、長く艶やかな髪が蒼く揺れる。どこからか時折、溜め込んだ恨みをぶちまけたような甲高い蝉の声が、夜のしじまを突き通って消えていく。楓の白い肌には、じんわりと汗が滲んでいた。
(間に合いそうにない)
 と、彼女は思った。楓の瞳は人に見えぬ邪を見据え、漆黒に輝いていた。誰の、いつのものとも知れぬ女人の声が、かすかな風となって吹き抜けた。

  号び泣きて、自ら(おのづから)に知る、いづくか我が栖(すみか)なるべし。
  我為す所なかりなば、ただ憂き音に惑ひて、ただ惑ひて、夢の通い路に死ぬるばかりなり。

 彼女は立ち止まって瞼を閉じると、風をかぐようにして顎を反らした。木々のざわめきが遠のき、彼方の暗闇がぼんやりと感じられた。初めての手がかりだった。絶対に逃したくは無かった。
(決して遠すぎはしない……普通に歩いて一日とかからない距離……)
 荷物を担ぎ直し、手に持った細長い包みを確かめる。楓は、場違いな微笑みをほんの少し浮かべると、こめかみに感じるわずかな気配を目指して、月明かりも届かぬ深林の中へ飛び込んでいった。


 同時刻、谷を三つ隔てた山中において、残虐な殺人が行われようとしていた。
「ゆ、許してくれぇ……」
 弱々しいしわがれ声。
「助けてくれぇ」
 それを打ち消すように獣の強大な咆哮が響き渡り、針葉樹林は恐怖に震え上がった。痩せた中年男は木の根に足を取られ、濡れ落ち葉の中にもんどり打った。弾かれたように身を起こし、足をばたつかせて後ずさる。右手がかつて左手があった場所に添えられるが、男が自分の行動を意識している様子は無かった。傷口からは今も鮮血がほとばり続けているというのに、露ほども気にかけていないのだ。彼が気にかけているのは、目の前の暗闇だった。男の目は極限まで開かれ、呼吸は恐ろしいほどに早まっていた。
 果たして、破城槌を思わせる腹の底にこたえる地響きが、とてつもない勢いで迫ってきた。半開きになった男の口から、ため息とも悲鳴とも取れるかすれた音が漏れる。体は石のように動かなくなった。まばたきほどの時間の後、≪ソレ≫が男の目前にそびえ立っていた。


(いけないっ)
 楓は顔をしかめた。彼女にだけ見える邪悪な暗闇が、一段と濃くなった。だがその間も楓は走るのを止めない。目で追うことも困難な速度で、深い森のけもの道を駆け抜けていた。行く手を遮る小枝や下生えは、楓の体に触れる前に次々と吹き飛ばされていく。
 道は水場、すなわち谷間の川に向かっていた。川を渡って反対側の道を見つければ、一つの谷を最短距離で越えられる。それは彼女の思ったとおりだった。それは――奇妙なことだが――道は道ではなく、道標となることを表す。動物達の筋力には限界があるためだ。楓は、細い道筋が大きく左に曲がっていくのを無視して灌木の群生に突っ込むと、更に速度を上げて前傾姿勢を強めた。茂みを破壊しながら、彼女は矢のように突き進んだ。
「はっ」
 突然目の前が開け、楓は迷うことなく踏み切った。河原へと続く、30mほどの高さの崖。白いスカートをはためかせて、小柄な体が月夜に跳んだ。


 闇の中、覆い被さるようにして、一匹の鬼が立っていた。男は杉の幹に退路をふさがれ、呆然とその恐るべき生物を見上げていた。噴き出した汗が顎を伝う。
 夜は灼熱のような殺気に満ちていた。場に漂う胸の悪くなる匂いは、ただの家畜が持つような鋭く鼻を突くものではなく、鍛え上げられた野性がもたらす圧倒的な熱量を伴っている。かすかに両手のかぎ爪をゆらめかせながら、なめ回すように男を観察する様子は、まさに肉食獣が弱った獲物を物色する様を思わせた。鬼が一歩、ドラム缶ほどの太さの足を進めるたびに、地面は音を立てて沈み込んだ。
 ソレは孤高の狩猟者だった。獣の誇りを胸に秘める、恐るべき暴力の使い手であった。触れる者に、稲妻よりも速やかな死をもたらす竜巻。鋼鉄を紙のように切り裂く力を両の手に宿し、かつて地上の生き物が知ることの無かった速度で地を疾る、いつの頃からか人より鬼と呼ばれ、あるいは畏れ、あるいは敬われた者。強敵との戦いに全身の血液を沸き返らせる、狩りのために生み落とされた者どもの末裔だった。
 だが今、男の目の前に居る鬼が殺気と共に発散しているのは、狩りの高揚感でも、標的が命を散らす瞬間の真紅の輝きを手に入れる勝利への期待感でもなく、ただ悲しみと復讐に彩られた透徹な意志だった。鬼の赤い瞳を見たとき、男は河原の石を取り上げるように自らの死を知った。乗用車数台分の重量を持つ鬼の足が自分の両脚を踏み砕いた時も、男は痛みを感じていない様子だった。反抗期の子供にも似た、手の届かない存在への自己主張を露わに、男は口を開いて舌を歯で挟み込む。その歯が舌を噛み切るよりも早く、男の頭蓋が砕け散った。脳漿と血飛沫が針葉樹の幹を濡らす。鬼が伸ばした腕を引くと、男の体はどさりと倒れた。弾け飛んだ眼球が、うつろに闇夜を見上げた。
「グオオオオオオオオオォォォォォォーーーーーッ!」
 咆哮は、全ての生ある者を凪ぎ払うべく轟いた。
 拳を振るって星々を打ち落とそうと言うような、どこまでも孤独な挑戦。
 鬼は、まだ温かい獲物の体を踏みつぶし、再び啼いた。大気は沸騰する無音の怒号に満ち、鬼気に触れた草花は次々と萎んで枯れて行った。小さな地獄が、鬼の周囲に生まれつつあった。
 ソレを止められる者は、もはや地上には存在し得ぬようだった。


「はぁっ……はぁっ……」
 荒い息と共に楓は辺りを見渡した。余りにも血の匂いが強すぎて死体の位置が正確につかめなかった。しばらく歩き回って、ようやく見つけた。
「……っ!」
 二十歳になったばかりの女の身には、それは惨すぎる光景だった。それは死体と言うよりも、血まみれの肉塊と臓物が大量に散乱していると言った方が正しい。特に頭部は、原型をとどめぬほど完全に破壊されていた。辛うじて顎の骨が半分、皮一枚で首とつながっている。むせかえる生暖かい臭気に危うく吐きそうになった楓は、ふらふらとその場を離れた。
 十数分後、彼女は近くの沢で靴の底とスカートの裾を洗っていた。時折手を休めて気配を伺う。殺人者が再び現れる予兆は感じられなかった。だが楓は小さく首を振った。
(絶対に近くにいる。満足して休んでいるだけ)
 不用意に付けてしまった血を洗い流すと、苔のない場所を選んで丸石に腰掛けた。手足を軽く伸ばして体を楽にする。静かな夜だった。さらさらという清流の音と虫の声を聞いていると、すぐ近くであんな事件が起こったとは思えなかった。楓は川面に映る満月を見つめた。月は穏やかに蒼い光を湛えていた。小さな魚が、その中を泳いでいった。楓は、心の緊張がゆっくりとほどけていくのを感じた。
 しかし沢の流れは、彼女にもう一つの事件をも思い起こさせた。もう十年以上も前のことを。この別離の最初の兆候を。幼い楓のそばで震える姉と妹。そしてその目前にいた生き物。足首の痛々しく切り裂かれた傷口は瞬間的に塞がり、ただただ膨れ上がる殺気のぶつけ場所を探していたソレ。そこにいたのは耕一ではなく、紛れもない――
 もう一度、強く首を振る。
「千鶴姉さん。梓姉さん。初音」 水の中の歪んだ自分の顔に向かって、しっかりと言葉を重ねた。「私は追い続けます。必ず二人で帰りますから、待っていてください。血の呪いにも、別れの運命にも、私は負けたくありません。私たちは絶対にもう一度出逢います」
(……それだけが、私の生きる理由なのだから)
 ぎゅっと目をつぶると、目に見えない何かに抗うように、強く体を抱えた。
 やがて彼女は、全身からゆっくりと力を抜いた。荷物と細長い包みを取って立ち上がり、月に照らされてほのかに輝く八月の夜空を見上げる。楓の目は、今もまた、遠いどこかを見通していた。
 寝ぼけたのだろうか、カラスの鳴き声がした。楓は山を下り始めた。





「本当にもう平気なの? 千鶴お姉ちゃん」
「大丈夫よ、初音。ちょっと疲れただけだもの」
「あたしらがちょっと疲れただけで、こんなぶっ倒れ方するわけないだろ……」
 梓が大仰に肩をすくめた。Tシャツにジーンズという格好で無作法にあぐらをかいている。
(もう少しはおしとやかに…、なんて、この子には永遠に無理な注文かしら)
 千鶴は薄い布団の中で、もぞもぞと身じろぎをした。
 次女の梓と四女の初音は、布団に寝ている長女の千鶴を囲んでいる。この所、千鶴が珍しく体調を崩しており、鶴来屋旅館へも出られずに朝から寝込んでいるのだった。
 真夏の白い太陽が、障子の向こうから暖かい空気を送り込んでいた。
「きっと働き過ぎだったのね」 と、千鶴が言う。
「そーだそーだ。千鶴姉なんて、どうせお飾り社長なんだから、テキトーにやってりゃいいんだよ」
「アズサっ」
「だって、本当だろ?」
「私は仕事はちゃんとやりますっ。責任があるんですから。あなた、夏休みだからって少し弛んだんじゃないのっ?」
「まあまあ、二人とも…。千鶴お姉ちゃんは病気なんだし……」
 いつもの喧嘩を始めそうな姉二人を、初音が苦笑気味になだめた。彼女も今春、大学進学を果たし、晴れて女子大生の身である。もっとも、さすがに多少は成長したものの、相変わらず人が見れば高校生か中学生かと考え込むような外見ではあるが。
「それより楓お姉ちゃんから手紙が届いたって……」
「あ、そうそう、そうなのよ。初音、そこのバッグを取ってちょうだい」
 畳の上を立て膝で歩いて、初音は姉の革のハンドバッグを取り上げた。中から白い封筒を一つ取り出す。表には、美しい書体で『柏木千鶴様』と宛名が記されている。裏には差出人の『柏木楓』の名が書かれているのみで、住所はどこにも無い。千鶴が身を起こして封筒を受け取った。
「相変わらず、綺麗な字……」
 千鶴は感心したように呟きつつ、封を切った。少し織りの入った柔らかい手触りの便箋に、丁寧なボールペン字が並ぶ。
「前略、千鶴姉さん、お体は大丈夫ですか。先日、電話で初音に聞いて驚きました。一刻も早く飛んで帰りたい所ですが、旅先で、離れられぬ用事もできて弱っています。お仕事も大切なのだと思いますが、あまり無理をしないように気を付けてください……」
「ホレ見ろ。楓だって言ってる」
「あなたみたいなことは言ってません! ほら、二人の分もあるわよ」
「ほう、楓はやっぱりマメだね。なになに……梓姉さん、千鶴姉さんとのけんかは控えめにして下さい。初音が困っています――――」
 千鶴と初音が声を合わせて笑い、梓は顔を真っ赤にして、「じょ、冗談じゃねぇや」などとぶつくさ呟いた。
 それぞれが、かいつまんで手紙の内容を話し、ひとしきり笑い合ったところで、梓が膝に手を当てて立ち上がった。
「それじゃ、あたしゃ約束があるから行くけど、千鶴姉は大人しく寝てろよ。夕飯は早めに粥でも作るからさ」
「大人しく寝てます」
「結構! んじゃ、また後で」
 がさつだが面倒見の良い姉が去ると、初音が複雑な表情を見せた。
「あなたも約束があるんでしょう、初音」
「うん……」
「私は大丈夫だから、行きなさい」
 なおも渋っていたが、やがて顔を上げて言った。
「そうしよっかな。うん、行ってきます。あ、でも、なるべく早く帰ってくるから」
「楽しんできていいのよ。いずれ回復するんですから」
「そうも行かないよー」
 初音は真っ白い素足をすっくと伸ばして立ち上がるとスカートを払い、長女の部屋を立ち去ろうとした。だが、その歩みはすぐに力無いものとなり、廊下に片足を出したところで遂に立ち止まってしまった。指先が、ためらいがちに障子の桟に添えられた。
「……楓お姉ちゃん、いつ帰ってくるのかな」 と、少女は俯いたまま、ぽそりと言った。
「しばらくは、旅を続けるようね」
「平気だよ」
「え?」
 不自然に明るい語調に、千鶴は末妹の後ろ姿を怪訝そうな面もちで見つめた。
「わたし、平気だよ。もう大人だしね」 胸の前に手を組み合わせる。「でも、本当は少し寂しいな。こんな時に楓お姉ちゃんと――――耕一お兄ちゃんが居てくれたらいいのに」
 どきり、と千鶴の心臓が脈を変える。
「あ、あの、別に誰かを責めてるんじゃないの。大変なのはお姉ちゃんだし。…ただ、ちょっと」
「その気持ちは……私にも分かるわ」 千鶴は動悸を抑えるように、ゆっくりと言った。
「お姉ちゃんも寂しい?」
「当たり前です……寂しくないはずが無いでしょう? でも初音。どんなに離れていても、みんな――家族なのよ。楓も。耕一さんも」
 家族。
 千鶴は、家族、という言葉を使った。否応なく過去の記憶を呼び覚ますその言葉は、他のどんなものにも増して特別な言葉だった。彼女たちにとって「家族」とは、禁忌であり、信仰でもあった。それこそが呪われた柏木家の四姉妹が求めてやまなかった蜃気楼なのであり、過去三度に渡ってその呪い――『鬼』の一族としての血筋――のために奪われてきたものでもあったのだから。
 初音は黙っていた。その華奢な背中に、想像も出来ない重荷を背負っていることを、千鶴は良く知っていた。誰にも頼れない千鶴が負ってきた、姉妹の母親役として、あるいは、会社の名ばかりの社長としての数々の痕と同様、初音の背中には、常に良い妹を演じ続ける間に無理矢理飲み込んできた、悲しいぐらいに幼い甘えや、時には自殺衝動に近いまでに高まる絶望感が背負われているのだった。千鶴は、ふと胸が痛むのを感じた。
 初音はようやく振り返った。普段通りの、照れたような微笑みを見せる。
「そうだよね。わたしも、そう思う」
 千鶴は黙ってその顔を見つめた。初音は明るい表情を変えずにいたが、やがて耐えきれずに視線を落とした。千鶴は姿勢を直すと、静かに語り始めた。
「…綺麗事は…そろそろ止めてもいい頃ね。楓はね。本当は、耕一さんを探しに旅をしているの」
「……うん。そうだと思ってた」
「もう、知ってるんでしょう? 耕一さんは、鬼の力に負けてしまった。いえ――」 慌ててかぶりを振る。「まだ完全には負けていないわ。耕一さんの体の中では耕一さんの心と鬼の心が、それまでとは立場を変えて戦い続けている」
「お兄ちゃん……」
「あれほどの力を持つ鬼がひとたび完全に覚醒してしまったら、人間の社会は無事では済まされない。なのにそれらしいニュース一つ聞こえてこないのは、まだ耕一さんが負けていないからだわ。だからこそ、楓は耕一さんを探しに行ったの。希望があるからこそ」
 初音は姉の言葉を辛そうに聞きながら、何度もうなづいていた。目の端に小さく涙を浮かべる。
「早く見つかって、二人で帰ってきて欲しいよ。わたしも探しに行きたいくらい…」
「それだったら、私も梓も飛び出してしまうわ。そうしたら二人の帰る場所は無くなっちゃうもの。それに、私たちのように鬼の血を引く一族は他の地方にもいて、その中の穏やかなグループ同士は昔から連絡を取り合ってるの。それほど密接にではないけれどね。楓のことも、多少なりとも助けてくれるはずよ」
 初音は目を丸くした。
「そ、そうなの……知らなかった。何だか秘密結社みたいだね」
「そうね。昔は全国ネットの本格的な秘密結社だったみたいよ」 と、千鶴はおどけて言った。
「ふぅん…」
 会話が止まった。黙って今のやり取りを反芻する初音の、色の薄い髪が風に揺れる。
「千鶴お姉ちゃん」 初音は口を開いた。
「何?」
「早く……早く、良くなってね」
「ええ」 千鶴はにこりと笑った。
「秘密結社の話、後でまた聞かせてね。それじゃ、わたしも行ってきます」
 初音が立ち去ってからも、十分程の間、千鶴は布団の中にじっとしていた。人の気配が消えると、途切れることのない蝉の声や庭の植木にとまる鳥達のさえずりが、吹き抜けるそよ風に乗って畳の匂いに溶けるように流れ込んできた。半分開けた障子の向こうで、積乱雲が背伸びを始める。八月の青空はどこまでも遠く広がっていた。
(話して良かったのかしら……)
 千鶴はわずかの間思い返していたが、どうにもならないことだと諦めを付けると、掛け布団をめくって半身を起こし、楓からの封筒を取り上げた。その奥から、隠れていた一回り小さい便箋を取り出す。そこには千鶴だけにと、楓の旅の経過が事細かに書かれていた。その凄惨な内容は、まだとても初音に打ち明けられるようなものではなかった。
 千鶴はかすかに溜息をつくと、三枚組の便箋の細かい文字を読み始めた。


(つづく)


2000/04/16 Version 1.0
2000/04/22 Version 1.1
2000/11/06 Version 1.2
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