『お願いのかなう夜』





 昔、ヨーロッパのあるところに、ベルトヒルテという美しくて元気の良いお姫様と、ルチアという口下手な若い女騎士がいました。二人はとけ残った雪が散らばる平原を、二人で旅していました。何でそんな旅をしていたのかは、まだないしょです。二人は時々見かけるスノードロップの花を楽しみながら、旅を続けました。
 春になる頃、ある大きな街でお祭りが行われていました。人々は太鼓や鐘を打ち鳴らして、口々に春を祝っていました。そりゃあ春ですから、誰でも嬉しくなりますよね。夜になると、みんな仮面をつけたり、ヴェールを被ったり、木の枝を耳に挟んだり、思い思いの格好で大通りに繰り出して踊りました。農民も町人も、リンゴ売りも魚売りも、司祭も咎人も一緒です。二人はすっかり嬉しくなって、そのお祭りに加わりたいと思いました。
 お姫様が言いました。
 「二人の服を取り替えて踊りましょう」
 つまりルチアは、まるで男の人のようにズボンとブーツを着けていましたから、それをベルトヒルテのひらひらしたドレスと交換しようと言うのです。ルチアは嫌がりましたが、ベルトヒルテはお姫様らしく強引に押し切りました。
 「ほら、とてもきれいじゃない」
 ドレスを身に着けて、光を放つように美しくなったルチアを見て、ベルトヒルテは満足そうに言いました。彼女自身は、ルチアの服を着ていました。ルチアは背が高かったので、ずいぶん服の丈が余りましたが、ベルトヒルテは気にも留めませんでした。二人はその格好で春のお祭りに出掛けました。
 街の人々は踊ったり、歌ったり、楽器をかき鳴らしたり、物を売ったり、物を買ったり、また踊ったりしていました。石畳の上に沢山の木靴の音が響いていました。通りは沢山のたいまつで、お昼間のように明るく輝いていました。二人は大きな木の下で、踊りの輪に加わりました。
 すると一人の立派な青年が現れて、ドレス姿のルチアに一緒に踊ろうと話しかけました。ルチアは恥かしくて死にそうになりましたが、青年の事が一目で気に入ったので申し出を受けました。彼女は好奇心旺盛なベルトヒルテより、よっぽど世間に慣れていなかったので、こんな風に誘われたこともありませんでした。青年はマルチンと名乗りました。
 やがてお祭りが終わると、ルチアはマルチンと別れなければならないことを、内心、ひどく寂しがりました。ベルトヒルテがやって来て言いました。
 「あら、この人はだあれ?」
 「マルチンと言います。よろしく、だぶだぶの女騎士さん」
 「だぶだぶなのは、ルチアの服だからだわ。あなたは面白い人ね」
 「彼女のほうが面白い。ルチアというんですか。名前も教えてくれませんでしたよ」
 「この娘はおしゃべりが下手なのです。でも、とても気立ての優しい娘よ」
 ルチアはベルトヒルテの肘を引っ張って、お別れが辛くなるから余り言わないで欲しいと伝えました。ベルトヒルテは、ぴしゃっと自分の額を叩きました。
 「そうだったわ。私達、旅をしているんだったわ。ごめんなさい、マルチン。ルチアをあなたにあげるわけにはいかないの」
 「あなた達はとても仲良しなんですね。私はあなた達が気に入りました。是非、旅に加えてくれませんか」
 二人は驚きました。そんなことを言ってくれた人は、今まで誰もいなかったのです。
 「つらい旅かもしれませんよ」
 「大丈夫です」
 「終わらないかもしれません」
 「望むところです」
 お姫様と女騎士はニッコリ笑いました。
 「では、共に参りましょう。私はベルトヒルテという、とある国の王女で、ルチアは私のお付の騎士でした。でも、その国は滅んでしまいました。ですから、私達はもうお姫様でも、騎士でもないのです」
 「それでは、何のために旅をしているのですか?」
 「私達は終わらないしあわせを探しています。この世のどこかにあるという、『お願いのかなう夜』を探しているのです」



 こうして二人の旅に青年マルチンが加わりました。マルチンは二人よりも草原や森林の暮らしに詳しかったので、二人は喜びました。そうそう、彼の言うことがとても面白かったことも忘れちゃいけません。
 ある時マルチンは、東方の物語にある、井戸の深さを計ろうとした村人達の話をしました。まず井戸の上に頑丈な木の棒を渡し、それに村長がぶら下がりました。その足に別の村人が掴まり、またその足に別の村人がぶら下がりました。そうしてどんどんぶら下がって、そろそろ足が底に着きそうになる頃、村長は重さに頑張って耐えようとして言いました。
 「『よし、もう一息だ! 手につばつけて頑張るぞ!』って言ったもんです」
 「それでどうなったのですか?」
 「本当に両手を離してつばをつけようとしたものだから、みんな一斉に井戸に落ちちゃったんですよ」
 二人は同時に吹き出して、くすくす笑いました。ルチアはこんな時がずっと続けばいいと思いました。でもマルチンがベルトヒルテとばかり話しているので、少しつらかったのも事実です。ルチアはもっとお話が出来るようになりたいと思いました。



 夏が来る頃、三人はとても険しい山を通っていました。夜な夜な狼の遠吠えが聞こえました。三人のキャンプに狼が近付いた時は、ルチアは剣と松明を取って追い払いました。彼女の剣と弓の腕前は、それは大したものでした。
 やがて、川沿いの小さな村に着きました。寂れた村で、三人は何軒かの家をのぞきましたが、人っ子一人住んでいませんでした。村の外れの小屋から煙が立ち昇っていたので、三人はその小屋に向かいました。
 小屋には三人の老婆がいました。老婆は三人とも良く似ていて、どうやってお互いを区別しているのか首を捻りたくなるほどでした。老婆達は木の皿の上の焼いた兎の肉を、むしゃむしゃと食べていました。まず、いつものようにマルチンが尋ねました。
 「おばあさん、『お願いのかなう夜』がどこにあるか知らないかい」
 「教えたら、何をくれるんだね」
 「ここに金貨が100枚あります。これを差し上げましょう」ベルトヒルテが言いました。
 すると、一人の老婆が「そんなものは要らないよ。あたしゃ家畜がいいね」
 そして、もう一人が「あたしゃ醜い娘が一人欲しいね」
 最後の一人は「あたしゃ死んだ若者がいいよ」
 マルチン達は意味が分からなくて顔を見合わせました。ベルトヒルテは気味が悪くなって、何も言わず出て行こうとしました。しかし老婆達が呼びとめました。
 「なぁに、冗談さね。そら、この村の裏に山があるだろう。そこを登ってお行き。泉があるから、そこに後ろ向きに右足の靴を投げ込むんだよ。そうすれば願いが叶う」
 「ありがとう。もし願いが叶ったら、金貨を置いていきます」
 三人は老婆達にお礼を言って、山に向かいました。それはごつごつした岩が重なった、登りにくい山でしたが、三人は力を合わせてがんばりました。マルチンとルチアが一歩先を行き、ベルトヒルテが登るのを助けました。どうにか泉に辿りつくと、三人は右足の靴を脱いで手に持ちました。そして後ろ向きに立ち、めいめいのお願いを心に思いながら、いっせいのせ、で投げ込みました。
 でも、幾ら待ってもそれは叶わなかったのです。夜が近付いて、ようやく三人は騙された事に気が付きました。帰り道は右足に靴が無くて、三人とも沢山の怪我をしました。でも、傷の痛みよりも、騙された悔しさのほうがよっぽどこたえるのでした。山を降りると、老婆達は笑っていました。三人は老婆達に文句を言いました。
 「嘘を教えるなんて、ひどい奴らだ。死んでしまえばいい」と、マルチンは叫びました。
 「おかげで沢山怪我をして、何も得られなかったわ」と、ベルトヒルテが言いました。
 「山羊の鳴き声を聞く方がまし」と、珍しくルチアが声に出して言いました。
 すると突然、老婆達の形相が変わったのです。地鳴りがして、猛烈な突風が吹き荒れました。三人の老婆はしわがれ声で叫びました。
 まず一人目の老婆が「生意気な女騎士よ、山羊になれ!」と叫ぶと、次の瞬間ルチアの姿は汚らしい山羊に変わっていました。
 二人目の老婆が「国を無くした姫よ、醜く変われ!」と叫ぶと、ベルトヒルテはとても醜い顔に変わっていました。
 そして最後の老婆が「愚かな青年よ、その生は半年でついえよう!」と叫びました。マルチンは急に年を取ったような気分になりました。
 老婆達の姿は煙のように消え失せました。そう。三人とも、悪い魔女だったのです。



 マルチン達は、恐ろしい呪いをかけられたまま、なおも旅を続けました。三人はひたすらに歩き続けました。『お願いのかなう夜』を見つければ、呪いも解けるでしょう。でも、旅はずっと大変なものになりました。ルチアは山羊になっていましたし、マルチンもベルトヒルテも靴を失ったままでした。別の靴を買って履こうとしても、何故かすぐに破けたり割れたりしてしまうのです。結局二人とも靴を変えることはあきらめて、右足だけ裸足のまま歩きました。ルチアの変化した山羊も、右足だけ引きずって歩いていました。ベルトヒルテは悲しそうに「無くしたのが靴だけなら良かったのだけれど」と言いました。
 時々、ルチアはマルチンに寄り添って、悲しそうに「メェー」と啼きました。それもそのはず、マルチンはあと半年の命になってしまいましたから。その間に呪いを解かなければ、ルチアは人間の姿で彼に会えないのです。人の言葉で話したい、とルチアは思いました。マルチンもまた、同じことで悩み、気も狂うばかりに悲しんでいました。そしてまた、あの美しく元気だったお姫様が、今では村や街を通るたびに、まるでお葬式の時のような黒いヴェールで、ただれて出来物の浮いた肌を隠しながら歩いて行き、マルチンと山羊になったルチアが首を垂れて着いて行かなければならない時にも、マルチンは同じような悲しみを覚えました。三人は同じように悲しみ、悩みながら歩いていたので、しまいには三人で一人のような気がしてくるのでした。

 ある時、道端ですれ違った木こりがルチアに目を留め、言いました。「なぁ、その足の悪い山羊を譲ってくれないか」
 ベルトヒルテは答えました。「あいにく、その山羊は私達の大切な山羊なのです」

 ある時、すれ違った旅人が、うっかりヴェールを外していたベルトヒルテを見て、思わず言いました。「その女は、何と醜いのだろう」
 マルチンは言いました。「しかし、その心は太陽よりも明るいのです」

 ある時、護衛を従えた領主が通りかかり、旅慣れた様子のマルチンを見て尋ねました。「どうだろう。私に仕えないか」
 マルチンは答えました。「あいにく、私はもうすぐ死んでしまうのです」



 やがて秋になり、三人は色付き始めた森に足を踏み入れました。そこはアイデンの森と呼ばれていました。足もとの柔らかい葉っぱの山と、穏やかで暖かい陽射しに、三人は少しゆったりとした気持ちになりました。風が吹くと赤や黄色の木の葉が、三人の周りに弧を描いて、軽やかに踊りました。その中に、ベルトヒルテは葉っぱで無いものを見つけました。ルチアは驚いて「メェー」と啼きました。
 「まぁ、コルンキント!」ベルトヒルテは久し振りに明るい声を上げました。
 「僕は麦小僧なんかじゃないって何遍言ったら分かるんだい」それが言いました。「ただのアルプだよ」
 「何と不思議な。これは妖精ですか?」マルチンがベルトヒルテに聞きました。
 「ええ、彼は私の子供の頃のお友達なのです。逃げ出したと思ったら、こんなところにいたのね」
 「そっちはお友達でも、こっちはいい迷惑だい」妖精は言いました。「四六時中、愚にもつかない歌だの、ままごと遊びだの、たまんないぜ」
 ベルトヒルテは耳まで真っ赤になりました。勿論、妖精は今の醜い姿に関係なくベルトヒルテのことが分かるのでした。それに彼らにとっては人間の一生は一瞬で、幼いお姫様の元にいた頃のことが昨日のことのように感じられるのです。
 「ねぇ、どうしてこんな所にいるの」ベルトヒルテは聞きました。「確か、海に行きたいと言っていなかったかしら」
 「海には行きたかったさ」妖精が言い訳がましく答えました。「でもほら、海には鯨がいるだろう?」
 どうして鯨がいると困るのかマルチンには分かりませんでしたが、ベルトヒルテが納得していたようなので、それ以上は聞きませんでした。その代わりに尋ねました。
 「妖精さん。『お願いのかなう夜』がどこにあるか知らないかい」
 「知らないよ、そんなもの」
 「本当? 隠していることは無くて?」ベルトヒルテが疑い深く尋ねました。
 「知らないったら」妖精は機嫌を損ねたように言いました。「でも、ひょっとしたら、この森の奥に住む魔女なら知っているよ。彼女は良い魔女なんだ」
 そこで三人は森の奥に向かいました。程なくして、小さな池のそばに小屋を見つけました。小屋の脇には丁寧に新しい薪と古い薪が積んでありました。マルチンは扉を叩きました。すると、奥から腰の曲がった白髪の老婆が現れ、三人を招き入れました。
 部屋には人の通る道筋を残して、本や、巻物や、壷や、メダルや、箱や、宝石や、その他たくさんのガラクタが、うず高く積み上げられていました。三人は一列になって、周りの物にかかった蜘蛛の巣と埃を浴びないようにして、相変わらず片足が裸足のまま進みました。奥にあるテーブルを囲むと、ベルトヒルテが早速切り出しました。ルチアはマルチンの膝の辺りに膝を折って寝そべるように座っていました。
 「私達は『お願いのかなう夜』を探しているのです。それがどこにあるか、ご存知ありませんか」
 魔女は、ふーむ、ふーむ、と何度も鼻を鳴らしました。
 「聞くがね。それを探してどうする気だい」
 「私達は、終わらないしあわせを求めているのです」
 「みんなそう言うね。誰もがそう言うよ」
 「でも、私達はずっと旅をして来ました。私の父が治めていた国が滅んで以来ずっと、皆と私が、願いがかなって、いつまでも幸せでいられる方法を探しているのです」
 「まぁ、お聞き」魔女は、むにゃむにゃと唇を動かしながら言いました。「お願いっていうのは、自分の影法師みたいなものなんだよ。踏んだと思った時には消えてしまって、もっと先に伸びてるんだ。そうやって次々とお願いを作り出しては後を追いかけて、その内に光からどんどん離れて行くのさ。悪いことは言わないよ。そんな旅はやめておしまい。追いかけっこが楽しいならともかく、幸せは別の方法で探すんだね」
 三人は一瞬絶望しました。もうこれ以上、手がかりは無いのでしょうか。しかし、ルチアは健気にマルチンのふくらはぎに擦り寄って、彼を見上げました。気を取りなおして、マルチンは言いました。
 「でも、私達はただ元に戻りたいだけなんです。お願いです、教えて下さい」
 ベルトヒルテも言いました。
 「そうなんです。あと二ヶ月の間に私達にかけられた呪いを解かないと、マルチンは死んでしまいます。ルチアは人間の姿でマルチンに会えなくなってしまいます」
 「それに呪いを解かなければ、ベルトヒルテもとても不幸な人生になってしまうのです」マルチンが付け加えました。ルチアがそれに同意するように「メェー」と啼きました。
 老婆は、ふーーーーーむ、と長く鼻を鳴らして考え込みました。
 「元の姿に戻りたいのかね。本当に、それ以上は望まないのかね」
 ベルトヒルテとマルチンは、勢い良くうなづきました。
 「それじゃ、教えてあげよう。でも、これは魔法なんかじゃどうにもならないんだ。だから、道だけさね。まずこの森の北へ行って、白樺の、下から三番目の枝を折り、それを持って東の方にある湖のほとりにお行き。そして、そこで出会った最初の鹿の尻を枝で叩いて、逃げ出した鹿の後を追いなさい。いいかい、最初の鹿だよ」
 三人は代わる代わるお礼を言って(ルチアは啼いて)、魔女と別れ、言われた通りに森の北へ向かいました。



 三人は白樺の枝を持って湖のほとりで、鹿が顔を出すのを今か今かと待っていました。鹿はとても用心深いですから、尻を叩けるぐらいに近寄るには工夫が必要でしたが、これもマルチンが考えてお姫様に伝えてありました。
 「あ、マルチン!」
 ベルトヒルテが小さく叫びました。大きな角を生やした鹿が水を飲みに現れたのです。彼らが固唾を飲んで見守っていると、鹿は辺りを見回しながら水辺に近付き、やがて水を飲み始めました。
 「さぁ、行きましょう。ベルト、ルチア」
 「ええ」
 山羊のルチアはそろそろと鹿に近づき始めました。鹿は、少し頭をもたげましたが、それがただの山羊であることを見て取ると、興味を失いました。その様子を見て、マルチンは笑みを浮かべました。もちろん、枝を持ったベルトヒルテがルチアの陰に隠れていたのです。あと数歩という距離になると、ベルトヒルテは枝を持って鹿に走りより、その尻を叩きました。たちまち鹿は泡を食って逃げ出しました。
 「追うんだ!」
 マルチンの掛け声にのって、三人は一斉に追いかけ始めました。鹿は、しなやかな脚に物を言わせて、ぐんぐんと三人を引き離します。この鹿を取り逃がしたら最後ですから、三人は必死になって追いかけました。時おり小枝や尖った木の実を踏んで裸足の右足が痛みましたが、それも無視して走りました。もう駄目かと思った時、鹿が、山すその大きな洞窟に逃げ込むのが見えました。三人も、それを追って洞窟に入りました。
 洞窟は天井が高く、奥行きもとても広いものでした。どんどん歩いて行っても、ちっとも暗くならないことに三人は驚きました。
 「ほら、見てください、マルチン」
 ベルトヒルテが傍らを流れる清らかな水を手ですくいました。その水は彼女の手から流れ落ちると、青白く光る小さな水飛沫を上げて元の流れに戻って行きました。見上げると、天井の鍾乳石はほのかな橙色の輝きを宿していました。奥に進むと、空気が暖かくなって行きました。不思議な洞窟でした。
 突如行く手が開けて、三人は途方も無く大きな部屋にいました。地獄の裁判所はこのぐらい大きいかも知れません。でももちろん、そこは地獄なんかではありませんでした。サタンの代わりに、光り輝く大きな女の巨人が居たのです。彼女は、逃げ込んだ鹿の背を優しく撫でていました。彼女は三人を見ると立ちあがり、朗々と呼びかけました。その背はマルチンの二倍以上もありました。良く見ると彼女の周りには沢山の動物が控えていました。
 「わらわの大切な鹿をいじめたのはお主らか」
 「お許し下さい、偉大なお方。私達は探しものをしているのです」と、ベルトヒルテが答えました。
 「だが、何ゆえに鹿を追ったのか」
 「ある方に教わったのです。白樺の枝を折り、湖に現れる最初の鹿を追いなさい、と」
 「なるほど、最初の鹿を逃せば、この冬の間は、二度とあの湖にこの子らをやりはしなかったであろうな」
 「私はベルトヒルテ、こちらはマルチン、この山羊は私のお付の騎士であり親友であるルチアと申します。失礼ながら、お聞きいたします。あなたは一体どなた様なのでしょうか」
 女巨人は、ほっほっほ、と笑いました。
 「わらわは獣達と共に太古の昔からある者。全ての神の母じゃ。だが、今では人の世に倦み、この暖かい大地の真ん中に暮らし、森の獣達を守っておる。人からはハルケと呼ばれておるのじゃ」
 三人は恐れに打たれてひれ伏しました。マルチンが顔を上げました。
 「大いなるハルケよ。どうか『お願いのかなう夜』の在り処をお教え下さい」
 「わらわは人のことに興味が無いのじゃ。彼らのことは白き王達と黒き王達が行えば良いのだから。だが、わらわはそこな山羊のために一肌脱ごうぞ。違った生を歩むことこそあわれ」
 全ての神の母ハルケは、月の神に頼んでおこうと約束しました。そして、今年最初に雪が積もった日の夜に、森の中の広場でろうそくを沢山灯して座って待っていなさい、と言いました。三人は重ね重ねお礼を言いました。ルチアはもうすぐ人に戻れると思うと嬉しくて、山羊の姿でスキップをしてみんなを笑わせました。ハルケは最後に付け加えました。
 「お主らをたぶらかす悪しき者どもが現れよう。決して彼の物どもに惑わされてはならぬぞ」



 冬まではしばらくの月日がありました。その間に、マルチンはみるみる弱って行き、醜いベルトヒルテと山羊になったルチアは、心配と悲しみの余り、ライン河ほどの涙を流しました。苦労を共にした三人はとても強い絆で結ばれていたのです。
 彼らは森の近くの村に宿を取っていましたが、そろって右足のおかしな二人と一匹は、村人から奇妙に思われていました。それでも三人は気にしませんでした。それよりも、お願いがかなう夜が早くやってくることだけを待ち望んでいたのです。それにハルケが残した言葉も気になっていました。
 収穫祭はとうに過ぎ、麦蒔きも終わりました。時折氷雨が降って、森の木々の葉を散らすようになりました。村人達は本格的な冬に備えて家畜を殺し、腸詰やベーコンを作り始めました。酢漬けのキャベツの匂いがそこら中に漂います。それが終わると家の修理があちこちで見られました。やがて万聖節、万霊節の頃、ようやく待ち望んだ大雪の日が訪れました。
 その日は昼間もずっと薄暗いような天気で、雪は一日中降り続けました。三人は夕暮れになると、傘のついたろうそくを沢山持って森へ出掛けました。マルチンはすっかり弱っていたので、ベルトヒルテの肩を借り、ルチアに掴まって歩いて行きました。雪がとても冷たくて、その頃にはすっかり固くなっていたベルトヒルテの右足も、さすがに凍りつきそうでした。彼らは時々立ち止まっては、裸足の右足を布に包んで暖めました。
 森の中の広場は、こんもりとした丘を中心としていました。彼らは丘の天辺に登ると、方々にろうそくを立て、火をつけて、真ん中に座り込みました。太陽が遂に一度も顔を見せないまま、辺りは闇に紛れて行きました。冬の夜の森はとても静かで、雪の降る音さえ耳に聞こえてくるのでした。とにかく寒かったので、三人はひと固まりになって毛布にくるまりました。マルチンはがたがたと震え、何度か気を失いかけました。
 すると、森の木々の間から鹿がひょっこり現れて、角を揺らしながら人の言葉を喋りました。
 「ねぇ、あなた方。そんなところで何をしているのですか」
 ベルトヒルテは答えました。「知っているでしょう。私達は『お願いのかなう夜』を待っているのです」
 「そんな風に待ったって、あれは来やしませんよ。月の神様は気まぐれですから。それよりどうですか。ここにとても美味しい葡萄酒がありますよ。これを飲めば体もあったまります」
 マルチンは思わず手を伸ばしかけました。余りにも冷え切っていたものですから。ですが、ベルトヒルテとルチアが気の毒そうにそれを止めました。お姫様は振り返って言いました。顔は醜かったのですが、声は美しい鋼のように響きました。
 「あなたが何と言おうと、私達は待ちます」
 鹿は老婆に変身して去って行きました。あの鹿は魔女だったのです。三人は、ほっと息をつきました。こうした言葉のやり取りは苦しいものでした。
 しばらくすると今度は狼が現れて、やはり人の言葉を喋りました。
 「ねぇ、あなた方。そんなところで何をしているのですか」
 マルチンが答えました。「私達は『お願いのかなう夜』を待っているのです。邪魔をしないで下さい」
 「そんな風に待ったって、あれは来やしませんよ。月の神様は気まぐれですから。それよりどうですか。この私と戦って勝ったら、私が狼の王に言ってあなた方の望みをかなえさせて差し上げますよ」
 そう言うや否や、狼の体は倍以上にも膨れ上がって、めいめいの頭を一飲みできそうな大きさになりました。そして、辺りにとどろき渡るような遠吠えを一声発すると、三人に襲いかかりました。今や山羊になって久しいルチアでしたが、彼女は思わずそれに反応して身構え、もう少しで飛び込んでくる狼の喉笛に噛み付こうとしました。
 が、やはりベルトヒルテとマルチンが力ずくでそれを抑え、雪の中に伏せました。狼は、そのまま三人の頭上を飛び越えると、老婆に変わって去って行きました。狼も、やはり魔女だったのです。
 やがて雪がやむと頭上の雲が徐々に薄れ、墨を流したような夜空が広がりました。ですが、それに合わせて空気は刺すようなものに変わり、三人はきつく身を寄せ合いました。
 夜空に月が上り始めました。
 「おめでとう」と声がして、三人は辺りを見回しました。
 「コルンキント!」と、お姫様が驚きの声を上げました。「どうしたの」
 「お願いがかなう時が来たんじゃないか。でも、その青年は危ない。そんな風に雪の中に座らせておいたら死んでしまうよ。ほら、もう気を失っている」と妖精は言いました。
 ベルトヒルテとルチアが慌ててマルチンを見ると、確かに彼は気を失っていました。
 「僕にそいつを貸してごらん。元気にしてあげるよ」
 ルチアはかすかにためらいました。やっぱり最後まで三人で座っていた方が良いように思えたのです。
 でも、今ではこの愉快で誠実な青年のことを、すっかり好きになっていたベルトヒルテは_



 でも、今ではこの愉快で誠実な青年のことを、とても好きになっ_



 でも、今ではこの愉快で誠実な青年のことが、本当に好きになっていた_






「舞、お話書いてるの?」

 佐祐理の突然の声に、舞の白い手が稲妻のようにキーボードを走って、編集中のファイルを閉じた。

「佐祐理、いきなり話しかけないで」

 舞は仏頂面のまま、佐祐理に答えた。内心の緊張の余り、自分の頬がかすかにぴくついているのを自覚していた。夢中で書き進む内に、信じられないほどストーリーに入り込んでいた事に気付いた瞬間に、一番見られたくない人間がやって来た。

「あははーっ、ごめんごめーん。だって、あんまり真剣だったから。クリスマスに幼稚園で聞かせるお話?」

 舞は、こくりと頷いた。

「佐祐理も楽しみだよーっ。後で内緒で聞かせて?」

 舞は再び頷いた。その複雑な感情を込めた視線には気付かずに、佐祐理は笑って去って行った。舞は辺りを見渡したが、コンピュータールームには他に見知った人間は居なかった。彼女は安堵のため息を漏らした。大学でこれほど緊張したのは初めてだった。
 再びファイルを開き、頭から読み直した。絶対に。絶っ対に、こんなもの人には見せられない。子供向けに書いた、ちょっと複雑なお話程度のはずなのに、段々難しく、マニアックになってきている。素材を北ヨーロッパの民話に求めたのが間違いだったのだろうか。そもそも、この三人は明らかに佐祐理と舞と祐一にしか見えない。例えお話の中とは言え、佐祐理と祐一をひどい目に会わせるのは辛かったし、それ以上にこの話を二人に聞かせる勇気は到底持ち合わせていなかった。山羊がスキップをする場面は笑ってもらえるかも知れないけれど。
 そして何よりも、話を書いている内に、やっと佐祐理の気持ちに本当に気付いたような気がしたのだった。今まで無意識に感じ取っていたものが、思いがけない形で見えてきたように思えた。もしかすると、これは単なる自分の思い込みに過ぎないのかも。だが、それを確かめる勇気も、やはり舞は持っていなかった。自分が、何時の間にか、とても臆病になっていることに舞は気付いた。それは多分、守りたいものが出来たからなのだと思う。舞が守ろうとしているものは、それこそ『お願いのかなう夜』のように、あやふやで、捉えどころの無い、あっと言う間に消えてしまいそうなものだった。
 役に立たない思考を止めると、とにかくこのお話は封印しよう、と舞は決めた。もっとクリスマスらしい、暖かくて単純な話にしよう。そうだ、この前見せてもらった、ハロウィンの可愛い人形達が、クリスマスというものが知りたくて大騒ぎをする映画をヒントにしようか。きっと楽しい話が書けそうだ。みんなが笑えるような、楽しい話がいい。彼女は新しいファイルを作成すると、改行を幾つか入れて、画面をじっと睨んだ。そして、思いつくままにキーワードを入れてみる。『クリスマスって何?』『贈り物:奇妙な?』『いい子』『となかいさん』
 だが、いつまで経っても、新しい話の中身は浮かんでこなかった。頭の中のもやもやは、決して綺麗に焦点を結んではくれなくて、やがて思考は、気を失ったマルチンと、それを抱えるベルトヒルテの姿に戻って行くのだった。
 私はベルトヒルテにどうして欲しいのだろう、と舞は考えた。
 いや違う。私はルチアにどうして欲しいのだろう。
 舞は遂に、ほとんど何も書かれていない目の前のファイルを閉じると、元のファイルを開いた。そして、その書きかけで終わっている部分を見つめて、最後の部分のプロットを頭に思い起こした。







 ルチアはかすかにためらいました。やっぱり最後まで三人で座っていた方が良いように思えました。三人のお願いは、三人でかなえたいと思いました。
 でも、今ではこの愉快で誠実な青年のことが、本当に好きになっていたベルトヒルテは、マルチンの肩を抱きかかえて、妖精に向かって差し出そうとしました。彼女はとても青年のことが気がかりだったのです。
 妖精がかすかに笑ったような気がしました。その瞬間、ルチアは頭から妖精に突進して、ベルトヒルテを止めました。お姫様は一瞬、怒ったような目つきをしましたが、すぐに気付きました。
 「まさか、コルンキント。あなたまで魔女なの?」
 妖精は悔しそうな表情を見せると、老婆に変わりました。ベルトヒルテは悲しみましたが、ルチアはその頬をぺろぺろと舐めて慰めました。三人は再び寄り添うと、夜空を見上げました。月は中天に差し掛かっていました。
 その時、周りに赤々と灯っていたろうそくが、一つずつ消え始めました。マルチンは、他の二人がきょろきょろと辺りを見渡す動きで目を覚ましました。彼は、ぼんやりとした様子で言いました。
 「明るいですね」
 遂にろうそくが全て消えましたが、辺りは蒼白い光に煌々と輝いて真昼のような明るさでした。良く見ると、それは月明りが照らし出しているだけではなく、雪自身がほのかな燐光を帯びて一面に広がっていました。周りを囲む木々も柔らかい橙に輝いていました。風が緩やかに吹き通ると、燐光はかすかに筋を変えてゆらめくのでした。
 そして、三人の周囲には影がありませんでした。彼らはかすかに青い透き通った光に包まれて、まるで天の川に浮かんでいるような気持ちでした。星々は雪の地面から立ち上って、はるか天空まで際限無く伸びていました。月の神が冬を祝福する歌が遠くから流れてきました。

 大地よ安らかに眠れ
 白き長衣を身にまとい
 人の知らぬまどろみの内に
 波打つ髪に花の冠を戴くその日まで

 人の子よ安らかに眠れ
 冬はまだまだ続くから
 戸を閉め暖炉の火を焚いて
 牛達が鳴らす鈴の音を夢見て眠れ

 我ら神々よ安らかに眠れ
 やがて来る黄昏が冥くとも
 戦乙女の歌に合わせて力の限り戦えよ
 だがその日までは星のように眠るのだ



 気が付くと、三人は雪の丘に倒れ伏していました。真っ先に目を覚ましたルチアは、自分が元の女騎士に戻っていることに気付きました。顔を上げると、ベルトヒルテもあの懐かしい明るい美貌を取り戻していました。眠り込んでいるマルチンの顔にも、血色が戻っていました。ルチアは二人を揺り起こし、三人は、お互い抱き合って喜びを分かち合いました。やがて、本物の妖精(「ただのアルプだよ」と彼はお姫様に言いました。)が、雪が降り出す前に洞窟に戻れなかった動物達を連れて、やって来ました。彼らも、三人の願いがかなったことを喜び、祝福しました。三人はもったいぶってお礼を言い、笑いました。妖精と動物達は洞窟に向かい、三人は村に戻りました。
 彼らはもう旅を続けようとは思いませんでした。その代わりに、彼らはお互いのことが大好きになっていたので、可愛い家を建てて、三人で一緒に住みました。やがて街が出来て、マルチンは領主になりました。ベルトヒルテは美しい智恵者に、ルチアはちゃんとお話が出来る騎士隊長になりました。三人はお互いが本当に好きでしたから、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました。

 めでたし、めでたし。






 舞は満足そうな笑みを口元に浮かべながら書き終えた。
 そして苦笑し、しばらく目を伏せた後、最後にそっと書き添えた。






 るちあはねがう。『わたしは、おねがいのかなうよるになりたい』



12/16/1999 Suikyo