酔狂初の「完結した」長編になります。
ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。
また、取り合えず後書きからという方、本編読んで下さいね。ええ。
で、いきなりですが、懺悔します。
どうもすみませんでした。
いやあの、何がどう済まないかを説明し出すとキリがないので止めておきますが、
結論から言えば、私の言いたかったことは、
実はエピローグに書いたことそのものなんです。
祐一のポジションというのも、完全にそこにフィットするんです。
でも、内容からきちんと結晶させることが出来ませんでした。
シンメトリックな構成や伏線みたいな記号を組み立てることに熱中しすぎて、
どうにもストーリーを制御し切れませんでしたです。
反省、反省。
WGで学んだことは上から下まで山ほどあります。
これから一つ一つそれを消化し、次へ繋げて行こうと思います。
『奇跡』という言葉があります。
Kanonファンの熱狂の中で、
最も議論の的になったのがこの言葉ではないかと思います。
こういうファンタジー話のリアリティについて語るとき、
現実を崩壊させるものとして「夢」と並び立つものが「奇跡」です。
夢があくまで内的なものであり、崩壊方向も内側を向く
(世界が閉じてしまう)のに対し、
奇跡は外力の介入であり、崩壊方向は外側を向きます
(世界が発散してしまう)。
閉じて行く世界に同調してしまう人はKanonプレイヤーに大変多かったのですが、
発散する世界に付いて行けない人が結構いました。
どうしてもそこに理屈を付けようとしたり、
奇跡の乱発を摘発(?)することが人生の使命であると思いこんでしまったり。
ちょっと待て、と私は思いました。
奇跡の本質は、それが自分の知っている理屈に合わない
ところにあるんじゃないの?
奇跡というのは、便利な魔法でも超能力でもありません。
もしそうなら、魔法なり超能力なり、あるいは神の力(奇蹟)
として描かれるべきです。
奇跡は、それが何故起きるのか、何の為に、誰の意思で起きるのか、
それが説明できないところに意味があるのです。
強い力で願うと、昏睡から蘇り、死病から快復するのですか?
何でそんなことが起きるんですか?
いいえ、それは起き得ないからこそ、だからこそ、
奇跡はそこにあるのです。
日常において、人は大抵決まった行動パターンを取ります。
ですが、予想外の出来事に会った時の行動は実に十人十色です。
親しい人が事故にあったり、思いがけない人に非難されたり、
あるいは、自分を慕う娘が死を迎えたり、忘れていた記憶と向かい合ったり。
それは日常が崩壊する地点であり、そのずっとずっと先に奇跡があります。
奇跡はそれを見る者の心を映す、もっとも純粋な鏡です。
奇跡そのものには何の意味もありません。
病気が治ったなら、それは単に治ったという事象であり、
突如事故に遭ったなら、それは事故が起きたという事象に過ぎません。
本当に重要なのは、それに向かい合う人間です。
彼らが奇跡をどう捉えるかによって、その奇跡の価値が生まれるのです。
待ち望むも良し。畏れるも良し。
そして、より良い価値を生み出そうと思えば、
自分の中のより良いものを知る以外に無いのです。
例えば、あゆが、祐一との出会いを通して、
それまでの短い人生に培われた自らの強さを知ったように。
そして、二人の関係を良い方向に向かわせることが出来たように。
そんなわけで我々Kanonプレイヤーは、
Kanonという奇跡に対して非常に慎重にならなければなりません。
迂闊に「奇跡論」などをぶつと底が割れることになるのです(^^)
オチも付いた所で、この辺でWonder Girlを締めさせて頂きます。
あゆと祐一の物語はまだまだ続きます。
それを書く機会はもうやって来ないのではないかと思いますが、
万が一そんなチャンスがありましたら、是非リベンジを(笑)したいと思います。
それではまたいつか。
01/30, 2001 著者しるす