『すみれ塚』
"The Violet Goodbye"

序章

『悔悟』
"Name of Blood"




 うねる雪面に鮮血の赤を点々と散らしながら、川澄舞はもがくようにして走っていた。まとわりつく雪を蹴散らし、肺を貫く痛みに涙を滲ませつつ、疲れ切った体を前へ前へと鋼鉄の空気の中へ押し込んでいた。だが、彼女が本当に感じていた唯一の温度は、首筋に迫る敵の冷たい気配だった。冷気は次の瞬間にも彼女の体を包み込み、そのまま死の世界へ連れ去ろうとしていた。舞は必死にその想像から逃げた。
 行く手の薄い靄の向こう、後光のように輝く黄昏の中に、こんもりとした丘のシルエットが浮かび上がった。

『あの塚』 と、彼女は心の中で叫んだ。『あの塚の向こうへ』

 背後の魔物は、もう何度か、そのかぎ爪を舞の背中にかすらせていた。舞はよろめいた。狩りたてる立場のはずが、いつの間にか自分が狩られる立場になっていた。雪の中に飛び込んで致命的な一撃をやり過ごし、再び起き上がって走り出す。赤銅色に輝く夕焼けの中へ。天国のようなどこかを、やわらかなベールに包み隠しているはずの光へ。最後の力を振り絞って深雪を駆け登る。魔物が背後に追いすがるのが感じられた。光は強さを増していく。舞は塚の頂上に達すると、そのままの勢いで、斜面の向こう側へ体を投げ出した。

 そして汗びっしょりの体で跳ね起き、そのようにして目覚めたことを常に後悔するのだった。
 時計は午前3時を示していた。舞はぐったりと上体を倒すと、うつ伏せになり、顔を枕に押し付けた。





 夜行列車が悲しげな騒音を響かせながら走っていた。ガタガタと揺れる車両の中ほどにあるボックス席で、相沢祐一は鼻が触れんばかりの距離まで車窓に顔を寄せて、飛び去って行く街の灯りを見詰めていた。右目の上の傷が居心地悪げにうずいた。現代の街は眠らない。誰かが起きていて、彼らなりの生活を送っていた。そんな命を背負った灯りに祐一の視線は注がれ、そのたびに灯りは彼から少しずつ何かを奪って行った。後方へ後方へと押し流されて行く光の群れを見送る。祐一から吐き出される光の粒は、渦を巻きながら深淵の彼方へ落ち込んでいく。

「そんなに夜景が綺麗かよ、あんちゃん」

 ダミ声がして、祐一は振り向いた。五十がらみの男は分厚い体と大きな手の持ち主で、幾度も修羅場をくぐってきたらしい剣呑な雰囲気を全身から放っていたが、同時に、不思議と親しみ易い笑顔をも浮かべていた。その隣ではタイトスカートと毛皮のコートにピンヒールという、判で押したような格好の女が、男にしなだれかかるようにして立っている。

「いえ、別に……」 とまどいながら、祐一は答えた。
「あんちゃんも里帰りかい。俺もこっちの出だからよ。仲良くすんべぇや」
 祐一は苦笑した。「親戚の家に、俺だけ引っ越すんです。俺は東京生まれっすよ」
「まあ、大変ねえ」 女が間延びした声を出し、鼻に小じわを寄せた。「『苦労は買ってでもしろ』なんて大嘘だわ。頑張ってね、お兄さん」
「なに、このあんちゃんは見かけによらないぜ。それも、喧嘩でやっただろう?」

 男は祐一の左手を指した。手の甲から指の付け根までを、包帯が覆っている。祐一は眉をひそめたが、小さくうなづいた。男は満足そうに笑みを浮かべた。

「で、右利きだろう。――ほらな、そういう奴だ。鼻を見れば分かるんだ」
「ま、こわい。優しそうな顔なのに」
「別に強くは無いっす」 祐一は憮然とする。
「場数は踏んでるだろう。どうして喧嘩を売られるか、知ってるか?」

 祐一は再び眉をしかめた。真意を測りかねるというように、男の顔を見上げる。男は祐一の肩を愉しげに叩くと言った。

「男だからさ」

 女が「ま、呆れた」と言うのに危うく同調しかけ、辛うじて笑いを噛み殺すと、祐一は答えた。

「周りと同じことをしてただけっすよ」
「ま、好きにしろや。なに、あんまり熱心に景色を見てるからな。からかいたくなったのサ。――どうだ、夜景は綺麗かい」

 祐一は肩をすくめた。男は唇をゆがめる。

「そんなだから目ぇ付けられるんだよ。じゃあ、せいぜい気を付けな」

 男は片眉を上げて愛嬌のある表情を一瞬見せた後、くるりと体を回して歩き始めた。その背中は幾らか曲がっていて、目に見えない荷物を背負ったようだった。ほんの少し左足を引きずっていた。

「ばいばーい」 女が振りかえって、だらしなく微笑む。
「さようなら」

 二人が次の車両へ立ち去ると、祐一は再び窓の外に熱の無い視線を投げかけた。ちょうど街を一つ通り過ぎたところで、のっぺりと暗い田んぼが広がり、時折大きな看板が間の抜けたコピーを掲げて過ぎていくのみだった。

『やくざの里帰り?』

 祐一は男の言葉を思い返した。そんなものがあるとは思えない。どう考えても、彼は人生の敗残者であるはずだ。だが彼からは、それを思わせるような湿度が感じられなかった。

『少なくとも、彼は女を連れ帰る事が出来た。それは彼が東京で生きてきた証だ。俺には何も無い。俺が何者でもないからだ』

 祐一は大きく欠伸をすると、靴を脱いだ足を向かいの座席に投げだし、目をつぶった。次に目を開けた時には、懐かしい新天地が彼を暖かく迎え入れてくれるはずだった。ただそれだけのこと。誰もが毎朝する経験だ。悲しいことなど、何も無い。





 少女は満月を見上げ、祈るように焦がれていた。シャワーのように蒼い光を浴びる。左右いっぱいに伸ばした両手の指先をひらひらと揺らめかせ、どこからかやってくるリズムに乗せて、かすかに上体を動かした。
 素足のふくらはぎに擦り寄るものがあった。少女が見下ろすと、可愛げの無い、よぼよぼの野良犬が、その鼻面を不器用に寄せていた。少女は膝を折って座り込むと、犬の頭に手を置いた。犬に語りかけるようにして、独り言をつぶやく。

「もうすぐなんだ」

 犬がくしゃみをした。

「ずっと待ってたんだよ。ずうっと。その日が来ることは知ってたもん」

 犬は大儀そうにその体を横たえた。

「それとも、知らなかったのかな」

 少女が膝を抱えると、腰の辺りで切り揃えられた長い黒髪が背中に薄く散らばった。

「やり直せる、って思う? 無くしたものを取り戻せる、って?」 少女は頬を膝に乗せ、足下にうずくまる野良犬の頭を撫でた。「つまりね……あたしは後悔してるんだよ。お前に分かる?」

 少女の周りには、いつしか無限に拡がる野原があった。ところどころに、奇妙な形をした石塊が突き立っている。石が落とす歪んだ影の中に、彼女は佇んでいた。老いた野良犬の姿は失せ、音を立てて吹き抜ける風だけが、手の届かない場所から少女をあざ笑っていた。彼女がまなじりを決して見上げると、かすかにそれが見えたような気がした。彼女に向かって振り向き、笑顔を浮かべる二人の姿が。少女は白くたおやかな手を緩やかに掲げた。少女は微笑むでもなく、寂寥を滲ませるでもなく、草原の中央に静かに立っていた。幻は消え、彼女はいつもの塀の上に座っていた。
 彼女は、ほうっと一つ息を付き、また月を見上げた。

「もうすぐ……」

 彼女は繰り返した。

「もうすぐだよ……」



(To be continued.)

【後書き】

しばらくSS書いていなかったので、リハビリがてらに自分を追い込んでみました(笑)

続けられるかどうかは気力と時間次第ですが、続いたとしても、内容的には今まで 言ってきたことの焼き直しですから、あんまり深く考えても仕方ないと思います。

もちろん、本音を言えば読んでほしいのですが(笑)


英題は勿論チャンドラーから。

序章・終章を除いて三章構成。設定は大幅変更しているような、結局変わらないような……。

あ、続きは、WG終わったら、です。はい。時間、かけたくないなぁ…