美汐さんの回り道




 強い風が吹いて、美汐は慌てて制服のスカートを押さえた。

「さ、さみーっ」

 傍らで祐一が両腕で分厚いコートの中の自分の体を抱えて縮こまった。恨めしそうな目で美汐を睨む。

「美汐はどうしてそんな格好で平気なんだ。他の女の子もロングコートとか着るだろ」

 彼女は自分の格好を見下ろした。上半身は、制服の上にセーター、さらにベージュのショートコートを着ているが、細っこい素足は赤い制服の生地の下からそのまま出ている。足元はくるぶしまでのブーツ。祐一の完全装備に比べると天と地の差がある。

「さぁ…、慣れてますから。相沢さんも、じきに慣れます」
「絶対ない。それはない。断じてない」
「そうですか」

 別にそんなことで争おうとは思っていない。私は寒いぐらいが丁度いい。相沢さんはそうじゃない。それだけのこと。
 美汐は再び視線を落した。学校帰りの坂道。そのふもとで、二人の帰路は分かれる。自分にとってはほんの少しだけ回り道。この短い行程を、相沢さんと歩くのが当たり前になったのはいつからだろう。去年の春頃には、もうそんな習慣になっていただろうか。丁寧に距離を取って、だけどたった二人だけの絆を大切にして歩いてきた。
 また風が吹き、左手がスカートを押さえる。

「だから、名前で呼べって」
「え?」
「『相沢さん』じゃなくてさ」
「あ…、そうでした。祐一さん」
「うん」
「まだ…慣れません」
「じき慣れるって」
「そうでしょうか」

 美汐は可笑しそうに含み笑いをした。祐一の怪訝そうな顔をちらりと見て、また肩を震わせる。祐一もつられて笑顔を浮かべる。

「おかしな奴め」

 美汐は笑いの衝動を押さえ込むのに懸命で答えなかった。ようやくそれが収まるとカールした髪をかきあげ、傾いた太陽が輝く飴色の空を眺める。そう。どんなことでも、じきに慣れるもの。
 美汐は祐一に雰囲気を読まれそうになったのを察して、話題を変えた。

「来月にはバレンタイン」
「お、美汐からその話を振るとは」
「チョコ、欲しいですか?」
「おお、欲しいぞ。是非くれ。美汐からもらえる奴はそういないだろ」
「でしょうね」
「うーむ、楽しみだ」
「甘くない方がいいですか?」
「そうだな。ちゃんとチョコっぽい味がいいな」
「保証はできませんが、善処します」
「是非、善処してくれ。…え、それはつまり手作りってことか」
「そういうつもりでは…。でも、そうですね、手作りもいいですね」
「あー、別に無理しなくていいぞ。天野家の台所が爆発したら大変だ」
「しませんっ」

 やがて坂道を下り切り、美汐はいつものように挨拶を交わして祐一と別れた。だが、家路を辿る途中、ふと思い直して振り向き、商店街へと足を向けた。
 閉店間際のスーパーに、ぞろぞろと排出される買い物を終えた女性達の間をすり抜けながら潜り込み、小走りに棚を回って加工用の板チョコを見つけると600g程も買い込む。それを鞄に入れて本屋へ行き、女性用雑誌コーナーに立ってバレンタイン特集の雑誌に片っ端から目を通した。それほど料理が得意ではない彼女は自分の能力と注文を秤にかけると、スタンダードにチョコを固めただけか、せいぜいトリュフもどき程度にしようと決めた。クッキーやケーキもいいけれど、自分は物事をシンプルに考える方がうまく行く。けれども本だけは三冊も買ってしまった。
 家に帰ると、チョコの入った鞄を開けぬまま二階の自室に直行した。制服を脱いで部屋着に着替え、勉強机について買ってきたばかりの雑誌を読み始める。「そういない」どころではなく、買うのも作るのも初めての体験だ。蛍光灯に照らし出されて光る写真の中のチョコレート菓子たちは、どれもこれも唾が沸くほど美味しそうだった。人にあげないで、自分で食べてしまいたいぐらい。こういうものを自在に製作できるのは、どんなに楽しいだろうか。そのプロセスに伴う苦労を忘れるならば。
 彼女は夕食が終わった後に、思い切って母親に台所使用の許可を求めた。母親は、極めて内向的だった娘がそうした世俗事に興味を示したことを大いに歓迎した。その喜び方に何か自分の意図しないものを感じた美汐は、慌ててこれが一種の社交辞令だということを説明したが、母親がそれを理解したかどうかは疑問だった。とにかくエクスキューズは出来たということで、材料を冷蔵庫にしまう。母親がそこに「パパのつまみ食い厳禁」とテプラを貼った。美汐は見守られる気恥ずかしさと、慣れない事態に対するくすぐったい当惑の入り混じった気持ちの処理に困り、仕方なく「パパの」という部分にマジックで横線を引いた。気恥ずかしさは幾らか減少したような気がしたが、くすぐったさは倍増した。
 翌日の学校で、割合親しくしている同級生にそれとなく聞いてみた。

「義理チョコの渡し方?」 彼女は訝しげに聞き返した。「本命で悩むなら分かるけど、義理チョコの渡し方で悩むのって初めて見たわ」
「失礼にならないようにと思って」
「美汐ちゃん、真面目だからねぇ。私なんか、適当に『はい、これ』って感じだけど」
「もう少しは丁寧にしたいの」
「時々一緒に帰ってた先輩?」
「そ、そうだけど…。知ってたの」
「バレてるよ。っていうか噂になってるよ。あ、ほとんどはいい噂だから、大丈夫」
「聞きたくないな…」
「赤くなっちゃって。そうだねぇ、顔見て、あげたいんでしょ?」
「そう。下駄箱とかはあんまりだもの」
「改めてお店、とかも使いにくいし。彼の家や自分の家は?」
「絶対だめ」
「じゃ、帰り道に足を伸ばして公園」
「そう、それがいいと私も思う。でも何て言って渡そう」
「『美汐の気持ちですっ、受け取って下さい先輩っ☆』」
「…芳絵」
「だーって、そんなのまで分からないよ。思うように言えばいいのに。2週間以上も前から気にしてるくせに、本当に本命じゃないの?」
「違うと思う」
「大切なお友達っていうこと? 美汐ちゃんらしいと言えばらしいけど…」

 むしろ、同志、というのが近いと美汐は思った。求め合うのではなく、信じ合って生きる仲間。普段はそんなこと、二人ともおくびにも出さないけれど。

「チョコレートは成り行きだったの。だけど、あげるならきちんとしたいし」
「じゃあ月並みだけど、感謝の気持ち、っていうラインでまとめれば?」
「そうね」 美汐はうなづいた。「そうする。ありがとう」
「どういたしまして。でも、美汐ちゃん良くなったよね。その先輩と付き合うようになってから」
「え?」
「うん。良くなった」

 芳絵と呼ばれた、美汐に似て大人っぽい生徒は柔らかく微笑んだ。彼女の言うことは美汐にも理解できた。
 だが、一つ釘を刺しておかなければ。

「付き合ってるわけじゃないの」
「また赤くなって――はいはい、まぁ、そういうことにしておきましょう。…卒業しちゃうと寂しい? ――ああっ、うそ、ごめんっ」



 2月の最初の日。放課後の美汐を私服の祐一が待っていた。二人はどちらから言い出すとも無く、連れ立ってあの丘へと歩いた。変化の無い世界が広がる土地へ。見慣れた草原は、やはり雪を被っていなかった。四季はこの場所に影響を与えることは出来ないでいた。閉ざされた場所、閉ざされた時間。――まるで昔の自分のようだ、と美汐は思った。同じどん底に祐一が転げ落ちてきた時に、しかし祐一はそこから這い上がろうとした。それが嬉しかったことを思い出す。

「1年。経っちゃったな」 と祐一が言った。
「はい」
「災禍を見舞うあやかしの狐、か」

 彼はジーンズの尻ポケットから財布を取り出し、カードを一枚引き出して、それにじっと見入っていた。美汐は、そこに何があるかを良く承知していた。ひどく安っぽい、街角のプリント機の写真。それは、彼が何よりも大切にしている宝だった。何よりも。

「あいつは、幸せだったのかな」 祐一は呟いた。
「…幸せでしたよ」 美汐は言った。「あの子は、自分の望みを果たしました。相沢さんがそれを叶えてあげたんです。その写真が、証拠です」
「美汐は…強いな」
「…気を悪くしたなら、謝ります」
「気を悪くなんてしないさ。美汐はずっと一人で耐えてきたんだからな。ただ――」

 彼は視線を写真から外し、吹き渡る風が丈の高い草を揺らすのを眺めた。

「いや、何でも無い」
「そうですか?」
「ああ。…だから『相沢さん』じゃなくて――」
「あ、すみません。祐一さん、でした」

 祐一はうなづいて言った。

「もう帰ろうぜ。やっぱ、今日はツラいわ」
「はい…」

 森を抜ける下り坂を、美汐は大人しく彼に着いて行く。目の前の背中は幾らか首をすくませたような格好だった。考え事をしているな、と美汐は思った。だが、その内容を祐一が話してくれることは無く、短い挨拶と共に丘のふもとで二人は別れた。
 家に帰って自室に入ると、机の上に積んだ雑誌が目を引いた。幾つか製作を検討しているレシピのページに紙が挟んである。材料のチョコレートは冷蔵庫で眠っている。時間のあるうちに、そろそろ一回目の試作をしなければならない。だが今日はそういう気分にはなれなかった。彼女は雑誌を脇の本棚に入れた。そしてそれっきり忘れてしまった。



 以来、一週間以上も二人は会わなかった。それは特別なことではない。祐一さんは今月下旬に最初の受験だから、もう余裕は無いだろう、と美汐は思った。しょっちゅう予備校やら模試やらの愚痴を聞かされて、自分の未来まで心配になってくるほどだったのだから。それにこちらもそろそろ試験の準備をしなければならない。美汐にとって、3ヶ月弱しかない3学期の中間試験ほど腹立たしいものは無い。彼女は物静かなので、時々とても頭がいいものと勘違いされることがあるが、じつはそうでもなかった。生来の夢見がちな性格のため、無味乾燥な勉強には余り集中できないのである。

「美汐ちゃん、この問題分かる?」

 数学の授業の後、芳絵が問題集を抱えてやって来た。美汐は、友人が指す問題に目を通すと、格闘を始めることすら諦めて首を振った。芳絵は妙に数学が好きで、授業中に”趣味”と称して市販の問題集を解いている。自分に解けるわけがない。

「じゃ、毎度で悪いんだけど、世界史のヤマ教えてくれない?」
「ええ、それなら」
「ありがと。…それはそうと、チョコは順調?」

 一瞬何のことか分からなかったが、すぐにバレンタインのことだと気付いた。

「本は読んだけれど、まだ作り始めてないの」
「初めてなら、もうそろそろ取りかかった方がいいんじゃない? 練習にしたってさ」
「そうね」
「…なに、聞いちゃまずかった?」
「違うの。ただ単に、チョコなんて贈ってどうするんだろう、って思ったから。ただそれだけ」
「はぁ。一種のマリッジブルーみたいなもん?」
「違いますっ」
「わっ、怒んないでよ、冗談だって。でもどうして」
「さぁ…。でも、私は別に告白するわけじゃないんだから、チョコレートを手作り、なんておかしいな、って思って」
「口に出すと間抜けだけど、変わらない関係でも節目ってあるんじゃないかな」
「そう。それは知ってる。だけど、何だかおかしいような気がするの。いい加減と言うか、傲慢と言うか……上手く表せないけれど」
「美汐は物事の裏を見過ぎるんじゃないの。そんな深く考えても仕方ないのに。いいじゃない、作って渡して。それで壊れる関係なの?」
「分からない」 美汐はため息をついた。「分からない」
「そっか…。ごめん」
「いいの」
「そんな風には見えなかったけど。何だか、がっかりだな…」
「え?」
「あ、別に、美汐ちゃんにがっかりした、って言うんじゃないよ。ただ、時々話してるのを見ていても、お互いを大切にしてる感じしてたから。何か、二人とも高校生っぽくないなぁとか思ったりして」

 何と答えていいか分からなかったので、美汐は話をそこで打ち切って世界史の説明を始めた。芳絵は大人しくそれをメモしていた。
 学校が終わり、家路を辿る間にも美汐は考えていた。風が吹いてスカートの裾をはためかせる。

『私は今でも祐一さんの助けになれているのだろうか』

 自分はあの人の明るさに助けられてきた。二人で歩いているつもりだった。獣が傷を舐め合うのは、それが正しく合理的なことだからだ。終わってしまった限りなく優しい一瞬の夢を忘れ、現実の世界に戻って行くことが出来るまで、二人で助け合って歩いて行こうと思っていた。ただ隣に同じ夢に傷ついた仲間が居ると思うだけで、前へ歩いて行けるものなのだと。
 だが、今では分からない。
 自分の心が彼に届いているのか。
 彼は自分の存在に救われているのか。
 彼はまだ自分を必要としているのか。
 歩道橋を通った時、その真ん中で彼女は立ち止まった。黄色く歪む冷たい太陽を見上げ、雪の積もった街並みを見渡す。引っ切り無しに通り過ぎる、どれも美汐には分からない名前を持った車。誰が建てたのかも分からない、ぞっとするような無数のセメントの固まり。空には携帯電話の電波が飛び交い、地には無数の配管が走る。今自分が立つこの場所さえ、私を知らない誰かが作ったものだ。こんなに複雑な現実なら、自分達はただ木の葉のように風に乗ってひらひらと舞うことしか出来ないのだろうか。保証を求めて悩むなんて空しく、愚かしいことなのだろうか。
 家に帰りつく。獣医である父親は、今日が定休日なので家にいた。部屋に戻って着替え、コーヒーを飲みながら父親と話をしていると、不意に廊下で電話が鳴った。母親が美汐を呼んだ。

「水瀬さんですって。女の子」
「え」

 名雪さんだ、どうしたんだろう。首を傾げながら美汐は受話器を受け取った。

「…もしもし。替わりました。美汐です」
「あ、美汐ちゃん。水瀬名雪です。お久しぶり」 少し間延びしたところの混じる甘い声がした。
「はい」

 祐一の従妹であり、同居人でもある名雪のことを、美汐は嫌いではなかった。人に警戒させるところが無く、従って誰にでも分け隔てなく接することの出来る彼女には、美汐も多少なりとも心を開くことが出来たし、名雪のそんな性格を羨んでもいた。
 名雪はしばらく近況などを話した後、本題を切り出した。本人はさり気なく行っているつもりであろうその話題転換が、口調の大幅な変化ですぐに分かってしまう。

「祐一のことなんだけどね」
「え、ええ」
「ちょっと落ち込んでるっていうか、心ここにあらずって状態なんだよ。直接話すと、いつもの調子なんだけどね。…やっぱり…」
「はい。そうだと思います」
「そうだよね…」 受話器越しに名雪のため息が聞こえてきた。「あれから、ちょうど一年だもんね」

 沈黙が訪れた。

『名雪さんは知っていたはずだ』 美汐は思った。『それでも、確認のためにかけてきたのだろうか』

「もしもし?」 名雪の、奇妙に乾いた声が届く。
「はい」
「あの、美汐ちゃんって、最近忙しいのかな?」
「…いえ? 一応、試験はありますけれど」
「あ、そっか…」

 再び沈黙。意思を持った静寂。

「名雪さん?」
「あのねっ、祐一、寂しそうだから。…見かけじゃ分からないけど、わたしには分かるから」
「…はい」
「そ、それだけなんだけど」

 三たびの沈黙。
 美汐は自分が言おうと思っていることが、半ば失礼に当たるような気がして躊躇していた。

「あの、名雪さん」
「うん」
「名雪さんが一番、相沢さんのことを分かっていると思います。名雪さんにできないことを、私ができるはずが――」
「そんなこと言わないでっ」 強い声が美汐の台詞を遮る。「誰が一番とか、そんな悲しいこと言わないで…。それに、わたしだってしてみたんだよ」
「あ…」
「し、してみた、って、変な意味じゃないからね?」
「分かってます」
「話してみたり、遊びに誘ってみたり。祐一、その時は平気そうな顔するんだけど、でもそれは、こっちに合わせてくれてるだけなんだよ。祐一、優しいから」
「はい」
「誰が一番、なんて思わないで、美汐ちゃんにも美汐ちゃんなりに祐一を励ましてあげて欲しいんだよ。美汐ちゃんにしかできないこともあるよ」
「…はい」

 四度目の沈黙が訪れた。

「名雪さん?」
「うん」
「…保証はできませんが、善処します」
「あはは。うん。わたしからも、お願いするよ。それにね」
「はい?」
「『祐一の一番』は、やっぱり美汐ちゃんだと思うな」

 美汐が答えられないでいると、名雪は「それじゃあ、おやすみなさい」と挨拶して一方的に電話を切った。彼女はツーツーと発信音を出す受話器を手に持ったまましばらく立ち尽くし、やがてゆっくりとそれを戻した。目をつぶると、何かを確認するように、一つ無言でうなづく。そのまま自室に上がり、本棚に入っている三冊の雑誌を取り出して挟まっている紙を全部引き抜くと、再び最初のページから丹念に読み始めた。
 階下では飲みかけのコーヒーが冷めて行き、父親が首を傾げていた。



「二つ、あるんです」
「二つ?」 祐一が聞き返した。

 バレンタイン・デー。学校が毎週月曜を登校日にしているお陰で、全課程が終了している祐一も今日は登校している。美汐は、無理を承知で、自分の帰りに付き合って欲しいと言った。そこで祐一はわずか一時間程度のHRの後は図書室で自習していた。一度家に帰ってから戻ってくるのも面倒だったのだ。
 冬の公園は寒く、人通りも少ない。二人は噴水の見えるベンチを選んで、雪を払って座った。

「はい。まずはこちら」
「おう」

 美汐は綺麗にラップされた小箱を手渡した。祐一の視線に、いいですよ、とうなづく。彼がゆっくりとリボンをほどくのを、固唾を飲んで見守る。

「おお、トリュフ」
「食べてみて下さい」

 小箱の中には比較的大粒のトリュフが三つ入っていた。完全な球形とまではいかない点で、辛うじて手作りと判別できる。祐一はその一つをつまんで、口に入れた。

「ん、やるな美汐。ちゃんとチョコの味がする」
「当たり前です」
「しかも注文通りの味だぞ。内側と外側で違うチョコだし。…ちゃんとした、これ用のチョコレート使ってるだろ。リキュールも美味しい。すごいぞ、美汐。嬉しいねぇ」
「有難うございます」 美汐はにこりと微笑む。「それは、今までの分です」
「うん?」
「はい。…祐一さん、今まで本当に有難うございました。私は、祐一さんに出会わなければ、今でも昔の私のままでした。全てを無視して、全てを恐れて…。あれ以来、祐一さんに何度励まされたか分かりません」

 祐一は慌ててトリュフを飲み込むと答えた。

「あ、有難う。そんな……そんなに言われると照れるぞ。俺は大したことはしてない」
「本当のことです」
「…ああ、有難う」
「そして、こちらがこれからの分です」

 美汐は、鞄の奥から、もう二周りほど大きい箱を丁寧に取り出した。淡いクリーム色の包装紙に包まれ、真っ赤なリボンがついている。祐一は神妙な面持ちでそれを受け取り、膝の上においてリボンを解いた。その顔が、驚きの表情に変わる。
 本格的なショートケーキだった。一番上は生クリームとチェリーに、チョコチップが振ってある。横に覗いている切り口からは、ココア風味らしいスポンジが三段見える。その間に挟まっているのもチェリーらしきものの入ったクリーム。他にも色々細工はありそうだ。どうやって作るのか見当もつかない。ままよ、とばかりに、一緒に入っていたフォークで一口、口に運んだ。

「美味しいぞ。これは…?」
「シュバルツバルダー・トルテと言うケーキです。結構メジャーですよ。何とかでき上がりました。あんまりチョコレートが入ってなくてごめんなさい」
「いや…その…」 再びそのケーキに目を落として呟く。「すげーな」
「あ、えっと、別に本命とか、そういうことじゃなくて」 美汐は突如、頬を桜色に染めるとどもった。「ただ、気持ちです。あの、祐一さん」
「お、おう」
「その……忘れろなんて、勿論言いません。これからも、思い出して悲しくなる時も、落ち込む時もあると思います。大切な思い出ですから、仕方の無いことです。私にも分かります。でも、いつも私は祐一さんのそばにいます。その…気持ちのそばに、です。それを、覚えておいて欲しいです。私はいつでも祐一さんのことを覚えていて、励まして行きたいと思ってます…――――何を笑ってるんですかっ」
「あのな」 祐一はケーキをベンチに置くと、笑いを抑えて美汐に向き直った。「それを本命って言うんだ」

 美汐は自分の顎が持ち上げられ、上を向かされているのに驚いた。顎の下にあるのが祐一の右手で、彼の顔が息も届かんばかりの場所にあるのに気付くと、彼女の頭は完全に暴走状態に入ってしまった。心臓が痛い。祐一が「目をつぶらないのか?」と言うのも聞こえない。祐一は、まぁいいや、とそのまま口付けた。唇に感じる、そよ風に吹かれるようなくすぐったい感触。気持ちいい、と美汐は思った。それを祐一と分け合っていると思うと、全身が満たされるような気がする。強張った体が徐々に溶けて行く。ようやく目をつぶって、初めてのキスを味わう。
 祐一の舌のチョコレート味に、美汐は我に返った。両手で、どん、と祐一の体を突き放して立ち上がる。口を拭おうとして片手を持ち上げたが、それは失礼であると悟って、舌を唇に滑らせた。そして祐一の表情を見て、今度はそれがとんでもなく恥かしい行動だったことに気付く。顔が燃えるように熱い。

「ゆ、ゆゆゆゆ、祐一さんっ」
「何スか、美汐さん」
「ふざけな――――あのっ…」
「俺は嬉しいよ。俺も、少しでも美汐の役に立てるなら、そばにいてあげたいと思ってた。だけど美汐がすっかり立ち直った時は、その時は俺なんてもう必要無いのかな、と思うと寂しかったんだ」
「そんな…そんなこと無いですっ。ああ、もうっ…」

 美汐は凄い勢いで鞄を取り上げて胸に抱くと、深呼吸した。

「今日は、これで、帰ります。チョコ、受け取って下さって、ありがとうございました。ええと、また忙しくなくなったら、たまに会ってもらえますか?」
「ああ」
「覚えていて、もらえますか?」
「もちろん」
「はい。私も、いつも…。え、えっと、帰りますっ。それじゃあ」

 おかしな風に動く体で強引に公園から走り出る。途中、後ろから「キスも美味しかったぞー」とふざけた声が聞こえて、怒りのあまり振り向きそうになったが、それも堪えて走った。どんどん走って行って、しまいには笑い出してしまった。自分も女なんだな、なんておかしなことを思う。
 大きく息をついて、夕焼けの空を見上げる。身を切るような冷たい風も、火照った頬には丁度いい。私は寒いぐらいが好きだ。
 思いっきり遠回りをして帰ろう。美汐は、そう思った。こんな幸せな気持ちで歩いたら、街はどんな顔を見せるだろう。



02/12/2000 Suikyo