これから書き記す小さな物語――いや、物語とも呼べない、私小説と随筆とファンタジー小説の合いの子のような文章――は、私こと遠野美凪が個人的に経験したことであって、決して誰にでも共感してもらえるものではないということを始めに書いておこうと思う。私は、子供時代の特殊な体験もあって、自分がいささかエキセントリックな人間となっていることを自覚しているし、この物語についても、幾らか説得力に欠ける部分があるように思うからである。
 それでもなお、ここで一つ下らない文章にまとめてしまおうと思ったわけは、一つには話自体が一種独特の奇妙さを持ったものであるからであり、もう一つには、例え幾らかなりと言えども、私の感じた気持ちが伝わるならば、それは決して無意味なことではないと信じるからである。
 話は、私が高崎老人と呼ぶ人物を訪ねたところから始まる。彼は実に魅力的な人物で、三十路に入ってひどい生活に疲弊しきっていた私にエネルギーを与えてくれた。奇妙なことに、それはまた夏のことだった。夕方の空は急速に曇り出し、雨の匂いがし始めていた。



『鍵の話』




「これがその鍵だ」
 高崎老人はがらくたの詰まった菓子箱の中身をかき分けて、大ぶりで不恰好な鍵を取り出した。だいぶ錆びついてはいたけれど、私がそれを見間違えるはずは無かった。
「はい」
 私は小さくうなづいて鍵を手に取った。あちこち角度を変えて白熱灯の光に照らしてみる。鈍い赤色は、光線の加減によって様々に変化した。重い鍵だった。鉄製で、長さは15cmほど。幼稚園児が描いたねずみ小僧の絵にでも出てきそうな、実に大げさな造形をしている。シリンダ錠ではなく、古い南京錠の鍵だ。私はこの鍵も、この鍵が開けるべき錠前も良く知っていた。何度も手に取ったことがある。鍵は確かに私の記憶にあるものと寸分違わぬ形をしていたのだ。
 しかし同時に、その鍵には隠しようも無い違和感があった。それはひどく私を不安にさせる違和感だった。長い間かけて組み上げてきたパズルの、いちばん最後のピースがうまく嵌まってくれないような、とても理不尽な違和感。私が知っているものと同じ鍵であるはずだ。それでも私はこの小さな道具から奇妙な疎外感を感じていた。それが鍵穴に入り込んで錠を開けるところを私は十分に想像できなかった。それはもはや、実際的な意味での鍵では無くなっていたのだ。私はそれをちゃぶ台に置いた。金属の塊は、ごとりと鈍い音を立てる。ちゃぶ台と鍵は同じぐらいの年を経たモノ達だったけれど、やはり決して相容れようとはしなかった。鍵は高慢に異彩を放ち続け、ちゃぶ台はあくまで質素なちゃぶ台だった。
「これは私の鍵ではありません」 ようやく私は言った。「もう違ってしまったのです。できれば、あなたに貰って頂きたいのですが」
「どうしてもと言うなら、俺は一向に構わないのだが」
 高崎老人は痩せた腕を組んだ。彼はどこか人を惹き付ける力を持った人物だった。半袖のシャツから伸びた腕は、真っ黒に日焼けしている。九十歳に近づきながら、非常に芯の強そうな、そして精確な動作を見せる老人だった。初めて会った瞬間から、この人は軍人だろうと思ったのだが、事実、彼は太平洋戦争において悲惨なレイテ海戦を生き延びた海軍少佐だった。
「しかし、形見はご親族の方に譲るべきだと思う。美凪さんは、母親は違えどみちるちゃんのお姉さんであったのだろう? この鍵はあなたがみちるちゃんに贈られたもの」
「ええ、確かにその通りです」
「では、再びあなたがこれを手にしたとしても、みちるちゃんは喜びこそすれ、文句は言わないと思う」
 煙に巻かれて焼死したみちるは、私が何をしたところで一言も発することは無いだろう。それが死というものなのだ。私はストッキングが畳に引っかからないように気を付けて居住まいを正した。
「こんなときに何を言うとお思いになるかもしれませんが、高崎さんは夢について考えたことがおありですか」
 老人は眉をぴくりと動かした。
「寝るときに見る夢かね。それとも今時の若者が好むものの方かね」
「どちらでも構いませんが、どちらかと言えば今時の方です」
「どうかな。俺の生きた時代は夢の無い時代だったよ」 彼は微笑んだ。「本能だけが体を駆り立てる時代だったと言えるかもしれん。皆ががむしゃらだった。おんなじようにね。戦争中も戦後も、生き延びることだけを考えていた。確かに豊かになりたいという気持ちもあったかもしれん。でも、どこまでが『生きる』ということで、どこからが『豊かに生きる』かなんて、誰に分かったものかね?」
「はい。今でも分からないと思います」
「そうだ。だから、そういうことは余りにも当たり前で明白で、しかも一日一日が精一杯で余裕が無かったから、誰もそれが夢と呼ばれるものだとは思わなかった。これに夢という綺麗な名前を与えたのは今の人間だよ。昔は夢なんて言葉は無かった」
「そうかも知れませんね……ところで、子供の頃はどうでしたか。やっぱり生きるのが精一杯だったのでしょうか」
 高崎老人は微笑んだ。
「そう、確かに子供の頃は夢があった。その頃はもう戦争が起きることは誰の目にも明らかだったが、子供と言うのは常に遊びまわることしか考えていないからな。俺は本当は大泥棒になりたかった。そうそう、怪盗ルパンっているだろう。漫画じゃない方の。あれのファンだったね」
 私は少し口元を緩め、深くうなづいた。
「夢には、子供の夢と大人の夢があると思うのです」
「そうだろうな。いつまでも子供ではいられない」
「その通りです。そして子供が大人の夢を見ること、大人が子供の夢をみること、これらはとても危険なことです。そんなことをすればたちどころに自分を見失って、取り返しのつかないことになってしまうでしょう」 私はうつむいた。「私はもう子供では無くなってしまいました。私は高校を卒業すると同時に故郷を捨て、それから散々馬鹿なことをしでかしました。風変わりな少女は死んで、この豊かな時代の裏側でさすらう惨めな女が残りました。この鍵は、私がまだまっさらだった頃の夢に繋がる鍵なのです。未来に見せかけた過去です。その頃の私は、本当にまっさらだったんですよ。……これは私をとても悲しくさせます。みちるの思い出が加われば、なおさらです」
 老人は口の中で、なるほど、と呟いた。目を閉じて、何かの音楽を聴くように体を前後に揺らした。ぽつぽつと、雨が降り始めている音が聞こえた。ふと自分の喪服から、先ほど上げたばかりの線香の匂いがするのに気付いた。寺では住職が故人の遺志と墓の維持費の関係について語るのを聴かされた。
 高崎家は、千葉県は九十九里浜に近いO市郊外の、かなり大きい一軒家だった。明らかに、何かの事業を成功させたのだろうと思われた。資産家の一族なのかもしれないが、彼自身にはそうした雰囲気は感じられない。町は首都圏とは思えないほど自然が豊かで、ざっくばらんに言えば東京寄生型農村だったが、海が近いせいなのか、残念ながら収穫は質量共にさほど振るわないようだ。
 五年前、父の再婚先の一家はこの町に移り、高崎家のはす向かいに家を買った。父が仕事を変えたのだと聞いている。その頃も高崎老人は毎日のように縁側に座り、棋譜を読んだり、手紙を書いたりしていた。ふとしたことから中学生になったみちると知り合い、ほほえましい親交を暖めるようになった。鍵や私のことについては、みちる本人の口から聞いたと言う。
 深夜の火事によって遠野家が家族全員もろともに焼失した後、老人は、簡単な現場検証が終わった直後の、膨大な水をかぶってくすぶる焼け跡に踏み込み、瓦礫の中からこの鍵を発見した。そして、知らせを聞きつけた私がやってくるのを辛抱強く待った。旅暮らしの私がようやくこの地に訪れたのは、葬式から半年後のことだった。
 丸いちゃぶ台の上では、二つの湯飲みに挟まれる格好で、くだんの鍵が居座っていた。その構図は何かの不吉なしるしのようにも見えた。
「問答を問答で返すようだが、美凪さんは鍵について考えたことがあるだろうか」
 老人が快活な声で尋ねた。年老いた人々は、悲しみやショックを、鼻水のように紙にかんであっという間に捨て去ることが出来るものだ。いや、そうではない。半年は、必ずしもあっという間ではない。私は現実に引き戻された。窓ガラスを一枚隔てた部屋の外では、夕立が激しくなっていた。
「鍵について、ですか」
「そう」
「それは物理的な鍵のことですか。それとも象徴的な意味における鍵のことですか」
「どちらとも言えるな」 老人はにやりと笑った。「物理的な方が考えやすいが、今は象徴的な方のことだ」
「そうですね……。私の場合、鍵は常に外からかけられていたんです。狂った世界の中で私は静かに磨り減っていきました。今でも時折そういうことを考えます。何も変わっていないような気さえします。自分が正気を失っていくような、そして自分の力ではその蟻地獄のようなものから脱出できないような感覚です」
「鍵は一度も外されなかったのかね」
「一度だけ」 目をつぶった。「一度だけ、鍵を外して扉を開け放ってくれた人がいました。部屋の外から私の顔を見て、手を伸ばして連れ出してくれました。部屋の中にも一人の大切な友達が居ましたが、私は彼女と別れ、部屋を出ました。私には外で成すべきことがあるような気がしたからです。でも扉を開けた人はすぐに行ってしまいました。その人にはその人で、他に約束があったので。それは仕方の無いことでした」
「あなたはそれを悲しいことだと思うかね」
 私は目を上げ、相手の目をじっと見つめて言った。「はい」
「そうか。ところで俺はそうは思わない」 老人はエヘンと咳払いをした。「やはりこの鍵はあなたが受け取るべきだ。今は辛い思い出ばかりかもしれないが、いずれ必要になる時が来るだろう」
「必要になる」
「あるいは、鍵の方であなたを必要とするかもしれない。あなたが経験したことは、とても大切なこと、厳かなことだった。ただ、あなたがそれを理解していないだけだと思う」
「それを理解するために、この鍵が必要だと?」
「いや、この鍵は単なる事実の記憶だ。だから本当の意味は無い。でも、美凪さん。みちるちゃんは、これをあなたに返したがっていると思うのだ。そして、あなたに理解して欲しいと願っているのだ」
 心底から真剣な口調だった。私は心配になった。「あのう、すみませんが、私、何か愚かなことを申し上げましたでしょうか」
「いやいや、そんなことはない。あなたが優しくて賢い女性であることは、みちるから聞いているよ。あなたは、なぜ俺がみちるちゃんの気持ちに確信を持っているのかを疑問に思っているのだろう」 私が頷くのを待って、続ける。「あなたが夢の話を持ち出したとき、俺は内心仰天していたものだ。何故なら、こんな老いぼれが焼け落ちた遠野さんの家に入り込んだのは、正にその夢のお陰だったからね。あれは間違い無く、みちるちゃんの霊魂のようなものが俺に見せたものだと思う。多分、その時にはもうあの娘は死んでしまっていたんじゃないかな。夢の中身は、彼女の視点ではなかったから」
 私は首をかしげながら、老人の様子を見守った。どこか現実離れしたその話は、今にもとんでもないインチキが飛び出しそうで、私の中の警戒ランプが赤々と灯り出した。そんな気配を察したのか、老人は慌てて顔の前で手を振ると吹き出した。
「いや失敬、話が前後したな。年甲斐も無く興奮してしまった。安心しなさい、俺は迷信深い方じゃない。それどころか、目に見たもの以外は一切信じない主義だと言ってもいい。敗戦を真正面から生き延びた奴はみんなそうだ。何も信じないからな。ただ今度のことはちょっとした偶然だったし、良い偶然だった。遠野さん達には不幸なことだったが……。子供の頃のみちるちゃんと子供の頃の美凪さんと、この古い鍵が登場する夢を見て、はっと目が醒めたら遠野さんの家から火が出ていた。そして、鍵を見つけた。別にこれだけのことで、恐山に修行に行ったりはしない。ただ、良い偶然というのはとても貴重なものだからね」
「それはそうだと思います」 私は、こくりと頷いてみせた。「しかし、みちると私の夢というのは……」
 老人は、初めてかすかな躊躇いを見せた。目を伏せて湯飲みの煎茶を飲み干し、次の一杯を注ぐ。的確な所作には他人が手伝う隙も無く、そこには彼が一人で生きてきた年月があった。彼は湯飲みの中の薄緑色をした水面を凝視しながら、地獄への道を行く旅行者がその入り口に目印のろうそくを立てるような慎重さで尋ねた。
「一つ聞きたい。美凪さんは、妹さんを好きだったかい? 今更取り繕うことはないんだよ。俺はどうせ赤の他人だし、聞いたことをおいそれと触れ回ったりしない。みちるちゃんは、あなたのお母さんの子ではないのだよね」
「ええ。でも、私はみちるのことを好きでした。これは決して感傷ではありません」
「では、なぜこんなにも長い間会わなかったのだろう」
「それは――――」
「彼女はそれをとても悲しんでいた。寂しがっていたよ」 視線は湯飲みに合わせたまま、高崎老人は言った。突然私は、自分が間違っていたことを悟った。私は完全に勘違いしていたのだ。ほとんど一世紀を生きてきたこの矍鑠たる老人にとって、半年間などは、飛ぶように過ぎ去る一抹の夢のような季節だったに違いない。「ある時、彼女は俺を見てひどく悲しげな表情をした。どうしてそんな顔をするのかと聞いたら、美凪おねえちゃんを思い出すからと言ったよ。どうしてか、みちるちゃんは以前から、俺の中に美凪さんに似たものを見ていたようだった。それが何かはもう分からないがね。だが、彼女はとても義姉さんに会いたがっていた。美凪さんが不意に家を出られたことにショックを受け、それっきり会えないでいることに深く傷ついていた。いや、あなたを責めるつもりは毛頭無い。けれども、俺が見た夢のことを話す前に、これだけは聞いておきたかった。つまり美凪さん、あなたはみちるちゃんのことをどう思っていたのか」



 私とみちるの関係について一体どう説明すれば良いだろうか。どんな言葉を使ったところで歯がゆい思いをするばかりではないだろうか。私はみちるのことをどう思っていたのだろうか。そもそも、『誰それのことを思う』とはどういうことだろうか。私は、ほんの数日前に全く同じ質問をされたことを思い出した。



「みなぎ、アンタ、その子のこと何だと思ってたのよう!」
 奇妙な訛りの声が私を貫いた。カレンは、首筋に落ちてきた毛虫を見るような目で私の顔を見ていた。イタリア人とロシア人の血が混ざった彼女は、最初に違法ビザを融通してもらった時に付けられた適当な名前を今でも使っていて、人に本名は教えない。抜けるように白い美しい肌とスレンダーな肢体の持ち主だが、少々陰気な顔立ちと緑色の瞳が彼女を幽霊のような存在に見せかけていた。大量のウイスキーの影響か、そこだけ際立って赤くなった頬が、不自然な外見に追い討ちをかける。
「どうしてカレンが怒るの」
「当たり前だよう。日本人、薄情な人も多いけど、みなぎは違うと思ったよ。なのに……その子が可哀想じゃないよう。お父さんだって天国で泣いてるよう」
 小さなクラブの更衣室で、彼女は全身で心底の驚きと落胆を表していた。そこには隠しきれない侮蔑の感情があった。自らに一片の誇りも持てぬ者への優雅な視線。単に軽蔑されるだけのことなら、私はもうすっかり慣れていた。けれど、カレンの声に含まれる軽蔑以外の何かに、私はひどく居心地悪い思いをしなければならなかった。捨てたはずのものを思い出させようとする、鋭く細い棘がちくちくと私の心の皮膚を刺した。部屋の明かりは暗く、ただでさえ分かりにくい私の表情は、彼女には全く見えないだろう。それだけは救いだった。
「カレン、私は何もみちるや父のことを嫌いだなんて言ってないし、そんなことは思ったこともない。ただ単に会えなかっただけよ。あなただって人のことは言えないでしょう」
「あたしとは違うよう。みなぎもみちるも日本の人でしょ。あたしは日本にいるから、イタリーの家族に会えないのはアタリマエよう」
「会えないのは距離のせいじゃないわ。私もあなたも。とうに分かってるんでしょう。あなたは自分がそれを認めたくないから、私のことを怒っているのよ」
 彼女は唇を噛んで私を睨んだ。私の体を、緑色をした呪いの眼差しでどうにかしようと思っているのかもしれない。彼女が私を憎み始めているのと同時に、私もまたカレンのことを疎ましく思い始めていた。彼女の、いかにも外人らしくさっぱりして唯物的なところが気に入っていたのだけれど。やっぱり女の友情は長続きしないものなのだろうか。
「でもみなぎはとても……とても……悲しそう、怒っていた。クールじゃなかった」
「それはそうよ。例え顔を出せない身になったとは言え、家族が亡くなったことを半年間も知らなかったなんて、自分が許せないもの」
「後からあんなに怒るぐらいなら、ちゃ、ちゃんとお家に帰れば良かった。嫌いじゃなかったって……会えないだけ…どうして? どして、分からない、あたし、何を言ってるんだろ。みなぎは何を考えてるの? あたしには分からない…」
 だんだんカレンの言葉が怪しくなってきた。酒を飲んで感情が高ぶってきたときのクセだ。これからとにかくわんわん泣いて、泣き止んだら適当な妥協点を見つけて満足する。それが彼女のやり方のようだった。いつも横でそれを見ていたが、まさか自分がその矛先に立つ羽目に陥るとは思わなかった。私は彼女の二の腕の辺りに手を触れ、小声で言った。
「ごめんなさい。とにかくアパートに帰りましょう?」
 彼女は早くも潤み始めた瞳を上げると頷き、大きな音を立てて鼻をすすった。私は一度店の中に戻って顎髭を生やした店長に挨拶をした。再び更衣室に戻ると着替え終わった彼女をうながして、夏の夜へ歩き出した。終電を過ぎた街は熱気の残り滓に首まで漬かって、喧騒の余韻を楽しんでいるように見えた。くたくたになった背広を着た中年男が電信柱に立小便をし終え、そばにあったゴミ袋を蹴り飛ばしていた。通りの向こうから数人の若い男女が上げる嬌声が聞こえた。ここはどこなのだろう、と不意に私は思った。昭和中期の六本木から、平成の福岡まで、それはどこであっても構わないように思えた。個性と引き換えに昂揚するエネルギーを得た街だ。
 カレンが何かをつぶやいているのに気づき、私は耳を近づけた。すると彼女は私の頬に手を当てて自分のほうを向かせ、私の目を覗きこむようにして言った。強い酒の匂いを含んだ息が、鼻の辺りにむっとかかった。
「みなぎ、あたしを裏切らないで」
「え? どういうこと?」
「あたしを……うらぎらないで…」
 そしてしくしくと泣き始めた。私は内心、やれやれと思いながら、彼女の体を抱えるようにして足を進めた。カレンは私より20cm以上も背が高いので、それは決して楽な作業ではなかった。十五分かけてアパートに辿り着くまでの間、カレンは私の頭の上ですすり泣き続けていた。苦労してハンドバッグから鍵を取り出して扉を開けると部屋に入った。二人分の靴を脱ぐ間も、始終体がぶつかった。狭いキッチンの先の狭い二人部屋に着くと、カレンはふらふらと自分の簡易ベッドの方へ歩いていき、崩れ落ちるように眠りについた。私は溜息をつくと、水色のタオルケットを彼女の体にかけてやった。
 十分後、私はアパートのそばの自販機の前で、一人で缶ジュースを飲んでいた。コンビニが遠いので、自販機が今でも重宝する。周りには誰もいなかった。街灯の光で自分の姿を確認してみる。自分には似合わない、扇情的なスーツ風の服に沢山の皺が寄っていた。やれやれ、とまた思った。右手の缶ジュースを傾ける。煙草を吸わない私にとっては、これが休憩を表すジェスチャーである。
 今日、父の再婚先の一家が、半年前に火事によって全員焼死したと聞いた。不届きなことに、出火の原因は父の寝煙草だったと言う。父は最後までいい加減な男だったということだ。あくまで自分を貫いたという意味では尊敬に値するのかもしれないけれど、そんな冗談みたいなことでは私の憎しみを紛らわすことなど出来はしない。父は母を地獄に置き去り、どこかへ逃げた。そして、新しい家族をもまた死に追いやった。みちるをもだ。
 みちるを最後に見たのはいつだっただろう。いや、考えるまでもなく、それははっきりしている。もちろんあの時だ。バスの窓から身を乗り出して手を振るみちる。こんな都会の泥のような熱気ではなく、新鮮な潮の香りを真上から吹き飛ばしていく強烈な夏の日差し。あれは高校を卒業して初めての夏だった。夏休みに、小学生のみちるが私の家に遊びに来たのだ。二人で町を歩き回って、色々話をした。全ての不安が捨て去られ、薄紙の向こうの未来とも隔てられていた時間だった。それは私のもっとも幸せな記憶だった。
 おかしいな。私はふと思った。最後の時の、みちるの顔が思い出せなくなった。
 私は軽い焦りを抑えながら、彼女の面影を探した。あの時感じた幼い高揚感も、路面から照り返す熱の圧力も、去っていくバスの錆の匂いすらも覚えているというのに、みちるの表情だけが思い出せない。記憶の情景では、細くしなやかな腕だけがエンジとベージュに縁取られた窓から突き出され、風の中で振られていた。どこか懐かしく、映画のような風景だった。
 私は思い出す努力を諦めると、溜息をついた。
(カレンに叱られるだけのことはしていたわけね)
 きっと時は全ての人間に等しく残酷なもの。私だけが忘却の罠から免れ得るはずもないのだ。
 缶ジュースをゴミ箱に捨てると、アパートへと戻る道を歩き出した。私は旅を選んだ。約束された少女であることを捨て、未来のない大人の女を選んだ。みちるは、もういない私の影だった。忘却は必然の咎だ。明日には休みを貰って千葉へ向かうつもりだけれど、位牌との邂逅は私にとって厳しい体験になるだろうと感じた。それは私が捨てたものと得たものを比べ、審判を下す場となるだろう。



 高崎老人の双眸は、私が店で使っていた、氷水の入った黒い陶器のワインクーラーを連想させた。表面にある揺らめきは清々しく、しかしその奥には私の真芯を捕らえようとする底知れない力が感じられた。その視線にこらえきれず、私はうつむいた。
「みちるは私の妹です。それ以上でも以下でもありません。幾ら説明してもそんなものは無意味です」
「そうか」
 老人は肩を落とすと、いかにも意気消沈したような仕草で鍵を取り上げようとした。私は小さく息を呑んだ。
「あ、あの――――」
「なあ美凪さん」 老人は私の言葉を遮った。「言葉に囚われてはいかんよ。大切なのは魂だ、あなたの生の気持ちだよ。いくら間違えても構わないから、どうか教えてくれないか。あなたにとってみちるちゃんはただの妹だったのか。では、美凪さん。みちるちゃん以外の、ごく普通で当たり前で、妹としか説明できない人間を思い浮かべてみなさい。そんなものが在り得るとすればね。そして、その架空の娘とみちるちゃんを比べてみたらどうだろうか」
 老人はあくまで冷静だったが、私は戸惑いを隠せなかった。「あの、すみません、なぜそれほどまでに私達のことをお気になさるのですか? 別に困るわけではありませんけれど……」
「重要だからだよ。とても大切なことだからだ。俺は、この戦場では、託されたメッセージを届けるだけの単なる伝令に過ぎないけれど、伝令には伝令なりの責務というものがある。伝える相手を間違えないというのも、その一つだ。俺はみちるちゃんの憧れのお姉さんを待っていた。しかし、あなたはどうやら違うようだね……」
 反論したかった。確かにみちるは私を慕っていたけれど、それは私に対する過大評価だったこと。私が変わってしまったのは仕方のない事情なのだということ。みちるの伝えた言葉を、私が今やどうしても知りたくなっているということ。しかし、机の上の古びた鍵が、私を封じ込めた。胸が熱くなった。みちるのメッセージは届かないかわり、鍵のメッセージは明確に感じられた。お前は自分達を忘れた。お前は楽園から追放された人間なのだ。お前に資格はない。
 老人は鍵を箱にしまいこんだ。
 扉が開くことはなかった。これで終わりなのだ。
 顔を伏せた私に向かい、老人は意外なほど優しい調子で語り掛けた。「美凪さん、もう宿泊先は決めてあるのかい」
「ええ、あ、いいえ、これから駅前のホテルに行こうかと思っています。予約はまだしていません。こちらへは急いで参りたかったものですから」 何が、急いで参りたかった、だ。半年も経ってから急いだって始まらない。
「そうか。それなら今日はこの家に泊まって行くといい」
「えっ――あの、幾らなんでもそういうわけには。有り難いお言葉ですけれど、ご迷惑でしょうから」
「そんなことはない。大体、部屋ばかり多くて困っているような家だ。時々誰かが使ってくれないと傷んでいくばかりだよ。雨も長引きそうだ。なに、遠慮することはない。人助けだと思えば」
「はあ」
「それに、朝になれば気分も変わるかもしれないだろう?」
 私は苦笑した。ずいぶん強引な性格のようだった。「分かりました。すみませんが、ご厄介になります」
「よし」
 高崎老人は満足げに頷いた。





 どこからか漏れる陽光に、私は心地良いまどろみから目覚めた。薄い掛け布団をめくって体を起こすと、障子の向こうの雨戸が開け放たれているのに気付いた。日はまだそれほど高くは無いが、朝早いというほどでもない。気温はじりじりと上がり始めていた。
 私は素早く服を着替え、鏡を取り出して人として許される程度に顔を整えると、部屋を出た。居間には老人の姿は無かったので、つっかけを拝借して庭に回った。昨日は気付かなかったが、庭は見事なものだった。職人技で刈り上げられた低木が巧みに配置され、歩くたびに新たな美の発見があった。日向には所々、色鮮やかな花が植えられていた。少し素っ気無いけれど、全体としては日本庭園よりも英国のガーデニングに近い趣が感じられる、爽やかな庭だった。多分それは主人の気性を表しているのだろう。私はそれを好ましく感じた。
 彼はポロシャツにスラックスという姿でじょうろを持ったまま、背筋を伸ばしてすたすたと歩き回っていた。こちらに気付くと、あいさつの印にじょうろを掲げた。
「おはようございます」 私は頭を下げた。
「おはよう。良く眠れたかね」
「はい、お蔭様で。ここは朝が気持ちいいですね」
「そうだろう、そうだろう。ここはスモッグもほとんど無いし、若干高さ――土地じゃないよ、地面の、だ――があるせいで開放感がある。いいところだ」
「お庭はご自分でなさってらっしゃるのですか」
「大き目の木を植えるのは業者に頼んだが、後は自分でやってる。土もトラックで運びこんだんだよ」
「土もご自分で」
「そう。やるとなったら徹底的にやるのが俺の性分でね。失敗したって、どうせ自分の庭だ」
「えっと、あの塀の辺りの向日葵は…」
 かなり場違いな向日葵が3本、塀の上に顔を出して道路の方を向いている。さっきからそれが気になっていた。老人は真面目くさって答えた。
「公共サービス」
 私がクスクス笑っていると、彼は微笑んだ。「さあ、朝ご飯が出来ている。腹が減ったから、早く食べよう」

 久し振りにまともな朝食を摂った。ご飯と味噌汁に塩鮭、お浸しといった簡素なものだったけれど、普段は丸っきり食べなかったりゼリーみたいなもので済ませたりしているから、これでも十分立派な朝食だ。
 食事が終わると、お茶を飲みながら話をした。私は、余り他人には言わないようにしている仕事の話を幾つか語った。相手があまり近しい人間ではないということが、かえって自分をさらけ出しやすくしていた。老人は彼がこれまでやってきた事業の話をした。建築方面で成功したそうたが、実際にやってきたことはゼネコン関係とも建築事務所とも違う、少々込み入った内容のようだった。彼の話は色々なトピックの間を行ったり来たりしたが、全体としてみれば、少しずつ時間を遡っていくように感じられた。
「俺だって若い頃は随分と女にモテたんだぜ」 老人は意地悪げに笑った。「その、あなたの白馬の王子様がどうたったか知らないが」
「国崎さんは乗馬もしなければ王子でもありません。ついでに私の恋人でも婚約者でも憧れの君でもありません」
「どうだろうね。意外に今でも好きだったりするんじゃないのかね」
「好きですよ、もちろん」 いかにも心外そうな顔をしてみせた。「家族同然、です。あれ以来会っていないという点を除けばですけれど。どうにも、私にはそういうことが多いみたいですね。高崎さんは奥様は?」
「ああ、あれは俺より先に逝ったよ。ええと、六年前になるかな」
「それはご愁傷様です…。それからずっとお一人で?」
「そうだな。あれが死んだすぐ後は、息子たちが代わる代わる面倒見に来たんだが、なに、このじじいは簡単にはくたばらないと悟った途端に戻っていった。まあ当節、来てくれただけ有り難い」
「半年遅れのバカ娘もいらっしゃらなかったようですし」
「そういう意味じゃないさ。そんな生真面目に受け取らないでくれ」
 老人はくつくつと喉の奥で笑った。筋張った手を組み合わせて指の骨を鳴らし、伸びをする。そして唐突に、そう言えば、と言った。
「昔、ある男に言われたな。大事なものは言葉と実際の間にある、って」
 コトバとジッサイのアイダ?
「なるほど…」 私は釈然としないまま頷いた。「何となく分かるような気もします」
「ああ確か正確にはこうだ。『物事のコツは言葉と実際のちょうど真ん中にある』――――うん、今にして思えば、まるで詐欺師の吐くような台詞だ」
「面白い台詞に思えますけど。どんな方が仰ったんですか?」
「俺の部下だよ。いや仕事じゃない、海軍時代のだ。俺より年上だったがな。聞きたいかい?」
「ええ、高崎さんさえ構わなければ」
「勿論構わんさ、時間は幾らでもある。……不思議なものだ。これもまた鍵にまつわる話だよ」
 高崎老人は勿体ぶった咳払いを一つして語り始めた。

「子供の頃、俺は泥棒になりたかったと、昨日言ったな。それのことなんだが、本当は鍵開けに興味を持っていたんだ。取り憑かれていたと言った方がいいかもしれない。子供ながら一人で道具をそろえて、廃材工場から適当な錠前を見つけてはこじ開けていた。そうなると不思議なものでね、学校やら友達の家やら、とにかくどんな建物に行っても、その建物の雰囲気とか部屋の具合とか、場合によっちゃ住人なんぞよりも、扉にかかってる錠前のことが気にかかるようになる。こいつはちょろいぞ、おい、オマエ、もう少しマシな錠を買っておけよ、なんてな。だが、錠前の種類なんて意外に少ないものだ。自分で言うのもなんだが、腕が上がりすぎて飽きてしまった。今だってちょいと復習しておけば、隣の家だろうが君の家だろうが、10秒で忍び込める自信がある。
「それからだいぶ経って、海軍に志願した。俺は親の教育もあって戦争なんて真っ平だったが、どうせ行かにゃならんのなら兵学校から行った方が生き延びられる。それも艦隊がいいと当時は思った。陸軍はどうしようもない下らん連中の集まりだったし、航空隊は高慢ちきで鼻持ちならん奴らばっかりだ。本当の男は海の男だと、ガキの頭で考えたんだな。結局、大本営の駒でいる限りはどこだって変わりはしなかったんだが……。でもまぁ一ついい所があった。陸軍にあった教示だの教訓だの、長ったらしい女のクソみたいな――ああ、失礼――長話が何も無い。海軍の指導はただ一言、『スマートであれ』だ。あれは良かったな。うん。
「それで話は戻るんだが、俺がまだまだ新米の鉄砲屋だった頃、櫻っておめでたい名前の、信じられないほど古い駆逐艦に乗ってた時期があった。金が足りなくて一等に作れなかったっていう中途半端なフネでなあ、どうにも機関が弱かったな。まあいいや。とにかくそこに一人、とんでもない兵曹がいた。その兵曹の話をしようと思ったんだ。そう、何がとんでもないと言って、女なんだ。数も凄かったが、素人女をモノにするまでの速さが尋常じゃない。みんながその秘訣を知りたがったもんだ」
 初代(二代目もあるそうだ)櫻の主力武装である強力な高射砲を手足のように操るその兵曹は言った。古今東西、すべからく女と言うものは、心に鍵のかかった扉を持っているのだ、と。その鍵を手に入れることが出来れば、熟した果実は簡単に落ちてくる。その発言は青年時代の高崎老人に大いなる感銘を与えた。彼には、女性を意のままにするということは一つの特別な自由への道に思えたし、若さに溢れた男性にとってそれは耐えがたい誘惑でもあった(そうでなくても当時の海軍の若い兵たちには、手当たり次第、といった風潮があったのだが)。そして何よりも兵曹の言葉が気に入った。もっとも難しい鍵は無機質の扉にではなく、人の胸の内にかかっているのだ。
 彼は猛然と実践に取りかかった。寄港のたび、ありとあらゆる女に対して、彼は職人の眼差しを注いだ。美人も、それほど美人でない女も、髪の長い女も、髪の短い女も、痩せた女も、太った女も、たまには子供と思える年齢の娘から、人妻までも相手にした。話をし、酒を飲み、寝床を共にしながら、相手の心を探った。女たちはあるいは語り、あるいは黙して艶を含んだ眼差しを寄越した。彼は、どこか不安を抱えながらそれらのメッセージを逐一解釈し、心に用意した合鍵にまた一つ溝を刻んだ。
 だがそれらの試みは、多少内向的だった彼自身の性格を作り変えはしたものの、期待したほどには成果を上げなかった。寝る、というストレートな目標はかなえられたとしても、それは彼が考える「モノにする」という言葉の定義とはかけ離れていた。何が間違っているのか高崎青年には皆目見当がつかなかった。時に女たちは彼を哀れみの目で見ることすらあった。
『それは少尉が悪いのです』 高射砲担当の二等兵曹は答えた。『誠に遺憾ながら、少尉はご自分の心にエスエー(サック)を被っておられます。それでは女はこちらを疑います。女を渡り歩くような気持ちではいけません。全ての女に本気になることです』
『おいおい。貴様、本当にあれだけの相手に本気になったのか』 高崎青年は呆れた。
『勿論です』 兵曹は大真面目に答えた。『それからもう一つ。物事のコツというものは言葉と実際との、ちょうど真ん中にあるものです。僭越ながら、少尉は賢い方でありますがゆえにそのどちらかに頼り過ぎではありませんか』
 高崎青年には分からなかった。ただ、格好つけやがって、と強がって見せることしか出来なかった。そうしてじきに女漁りへの興味を失った。成功しようがしまいが、それは全く無意味な所業であるように思えてきたのだ。その後、彼は別の戦艦に配置され、南太平洋上で敗け続けた。連合艦隊は度重なる過ちの内に、その栄えある名を失墜させていった。200万人以上の日本人が死亡し、その10倍以上のアジア人が死んだ。
「戦後の日本は、もう全くの出鱈目だった。家も焼夷弾の直撃で見事に粉砕されていて、両親も死んでいた。俺は一人で鍋に放りこまれたのさ。昨日良かったものが今日はもうダメになっていたかと思えば、その正反対のこともあった。本当に日本が復活できるのか誰にも分からなかった。後悔しながら、同時に生き延びるための新しい知恵を学ばなきゃならない。それでもダメかもしれない。この冬は越せないかもしれない。生まれて初めて俺は本気になった。おかしなもんだよな、戦争が終わってから、初めて本気になったんだ。それはきっと俺にとって初めての現実の修羅場だったからだ、自分勝手な話だがね。戦争中ももちろん死に物狂いだったが、後から考えればあれは単に必死になっていただけだった。本当の本気とは少し違っていたよ」
 高崎老人は薄い唇の右端を持ち上げた。何かを言おうとしたが結局それは口に出さず、話を元に戻した。
「奴の言った、言葉と実際の間っていう意味は、実を言えば今でも良く分からない。あいつも自分で本当に分かってて言ってたわけでは無いのだろう。でもあの大混乱を乗り切った後に、ふと、少しだけなら分かるような気になった。それは人生の捉え方そのものみたいなものだ。言いかえれば、『分かる』ってことと、ほとんど同じことなんじゃないかな」
「ええ?」 私は少し混乱して、声を漏らした。「え、ええと?」
「あいつの不思議な台詞だよ。例えば、その意味を掴もうとするだろう。すると我々は、どこかに何かハッキリとした形があるものだと思い込んでしまう。もやもやとした雲の中心に、何か手に取れる形があると思う。要は、それを完璧に正しく言い表せると思ってしまうわけだ。ところが、いざそれを言葉にすると、あの台詞のように何の意味も無い言葉になってしまう。つまり――――」
「ただの鍵になる」
「そう」 老人は膝を打った。「何だ、どうして分かった?」
「さあ……多分、その、言葉と実際の間が伝わったんでしょう」
 老人は皺を寄せて微笑むと、活を入れなおすように小気味良く息を吐いた。「つまり、大事なことはみんな無意味だってことだな」 そう言って笑った。

 高崎老人は、付き合いで人と会う約束をしていると言って出て行った。その様子が、あなたはここに残っていなさい、という無言の圧力を感じさせたので、私は大人しく従った。寝室に戻って何とはなしに片付けをし、化粧を直した。することが無くなると居間に戻った。随分と暇が出来た。こんな風に宙ぶらりんの時間は久し振りだった。腹立ち紛れにリモコンを取り上げてテレビを点け、高校野球にしばし見入った。テレビ局は青春の悲壮と熱狂のどちらを強調すべきか迷った挙句、両方を過度に演出することに決めたようだった。どうしてもっと素直に放送できないのだろう、と考える。そのどちらでもないものがあるかもしれないのに。例えば女にも分かる野球の面白さとか。
 傍らにあった座椅子を引き寄せて腰を下ろし、足を伸ばすと、体の節々が小さく悲鳴を上げた。何だか八十歳のお婆さんになった気分で少し愉快だった。買って帰ったらカレンは面白がるだろうか。彼女はこんなもの見たことが無いだろう。
『みなぎ、これなーにー?』
『最新のダイエットマシンよ、腹筋を鍛えるの』
『わーおう』
 テレビの中では乱打戦が繰り広げられている。遠くセミの声。飛行機の飛び去る音。今日は過ごし易い気候だった。ワンピース一枚でこうして座っていると汗もかかない。夏は映像の向こうにあるみたいに美しく霞んでいた。瞼が独りでに下がってくる。また点が入り、スピーカーから歓声が上がった。指を動かしてチャンネルを変えると、奥様方向け低俗番組をやっていた。ひょっとすると私も視聴者層に含まれるのかもしれないが、まるで興味は沸かなかった。さらにザッピング。釣り番組。世の中には釣りが好きな人も大勢いるのだ。料理番組。もちろん料理が好きな人も沢山いる。科学番組、教育番組、映画、コンサート。次々と新しいKeyが私の中に差し込まれる。そして、錠を開けられぬまま崩れ去っていく。私は硬い欠片の山を足の裏に踏みしめて立っている。赤茶色の錆が私の体を覆っている。錆はごつごつとした鎧で私を守る。夏の向こうにある悲しい思い出から。
 大事なことはみんな無意味だ、と高崎老人の声がした。

 いつの間にか眠っていたようだ。私は机に頬を乗せていた。私は声に出してそれを再確認した。
「いつの間にか眠っていたようだ」
 幸い、年老いた家の主人は帰ってきていなかった。どんなに寛容な人物でも、客が居間で居眠りをしていたらいい顔はしないだろう。私は(ここに来てはっきりと自覚したが、これは職業病だ)ハンドバッグから鏡を取り出して顔を確かめた。特に困ったことにはなっていなかった。涎をたらした形跡も無かった。造作が小さく今風でない顔も、味も素っ気もない長い黒髪も、全ていつも通りだった。よし。私はうなづいて鏡をしまった。
 テレビを見ると昼の2時過ぎだった。期待したよりも時間は経っていなかった。持ってきた小説本を読もうかと思ったが、思い直して外に出ることにした。簡単な書置きをすると、パンプスを履いて勝手口から裏道へ出た。敷居を越えて辺りを見渡した途端、背中の辺りにあった妙なむずむず感が消えて行った。実際、息が詰まりかけていたのかもしれない。この屋敷は私にとっては誇らし過ぎるのだ。
 路線バスに乗って中心街に出ると、まず銀行のATMに立ち寄った。幾ばくかの現金を下ろし、小額を残してその場に用意された赤っぽい封筒に入れた。涼しい建物から出ると、私は神経質に辺りを見渡した。特に自分に注目している人間もいなかったし、見知った人影なども無かった。カレンに色々と物騒な話を聞かされたためか、お金を身に付けていると意味も無く不安になってしまう。ハンドバッグを掛けなおすと、日差しの中、重たい髪を振り払うようにして歩き始めた。
 次の目的地は本屋か文房具屋だった。小奇麗な二階建ての本屋を見つけ、便箋を買う。ついでに週刊誌の最新号をチェックしたが、特に面白い記事は無かった。もっとも、ここ数年面白い記事など出会っていない。本屋を出ると今度はすぐそばにあった喫茶店に入って、耳慣れぬジャズ音楽を聴きながら便箋に自分の連絡先を一つ一つ書く。現住所、電話番号、職場の住所と電話番号、今でも比較的懇意にしてもらっている昔の職場仲間を数人。一人、住所があやふやだったので、店の電話を借りて本人に確かめた。それが終わると便箋を折りたたんで現金封筒に入れ、冷めてしまった砂糖入りのコーヒーを飲み干して喫茶店を出た。店先ではアルバイトの女子高生らしき店員がアンティークな作りのメニューを差し替えていた。時々ある、夕方からはバーに変わる店のようだ。機械的に求人広告を探している自分に気付く。
 途中、思い立って幾つかの店を回り、豚肉と野菜を買ってから、再度バスに乗りこんだ。買い物袋をぶら下げたまま前日訪れた寺へ赴くと、住職氏を呼び出して封筒を渡し、これこれこういうわけだからいつまでも同じ住所とは限らないけれど、と断りを述べた。黒縁の眼鏡をかけた住職は意外にも恐縮した様子で言った。
「いえね、ほら、ここって住宅地でもあるでしょう。時々いらっしゃるんですよ、何も言わずにいなくなっちゃう方。皆さん、現世のことでお忙しいから、坊主とお墓のことなんて忘れっちゃうのかも知れませんね。だから、こんなに丁寧にしていただいて有り難いですよ」
 住職が薦めるのでもう一度墓参りをすることにした。きちんと丘陵の上に位置する寺なので、本堂の裏手にはなだらかに下って行く斜面に比較的広く墓地が作られていた。今は余りにも土地も足りないのでロッカーのような戸棚に遺骨を収めざるを得ないこともあるが、ここはまだ比較的余裕があるようだった。スロープの上辺には、石の囲いを持った、風格漂う大きな墓が並んでいた。石は黒く変色し、そこかしこを雨に削り取られ、一面を緑色の苔に覆われていた。そこから下るにつれ、少しずつ近代的でさっぱりとした墓石に変わっていく。むせるような雑草の匂いが、どこか冷え冷えとした石の匂いと混じっていた。この場所は古く、生者よりも死者の方が数が多い。
 私は木々の影をつたって斜面を下り、『遠野家ノ墓』と刻まれた墓石の前に立った。買い物袋を脇に置くと線香を供え、手を合わせて頭を垂れた。祈りの言葉は何も思いつかなかった。父と小母さん(便宜上、私はそう呼んでいる)とみちるがこの石の下に眠っているという実感は全く沸かなかった。20まで数えたところで、私は頭を上げた。灰色の石を見つめながら、こんな風に葬られたくはないな、と思った。自分が死んだら葬ってなど欲しくはない。死体はどこかの海にでも捨てて、綺麗さっぱり忘れて欲しい。こんな風に中途半端に現世にしがみつくなんて、情けない話ではないか。いつか私が来られなくなったら、訪れる者も無い墓石の下で彼らは一体どうしようと言うのか。それならばいっそ、最初から墓など無い方がましだ。死者はいつまでも生者をわずらわせるべきではないのだ。
 そもそも、誰が彼らをここに葬ることを決めたのだ。私は軽い憤りと共に考えた。何故、彼らは双方の一族から遠く離れたこの地に埋められたのだろう。私には理解できないけれど、世の中にはお墓とか戒名とかといった死んだ他人の扱いを命より大切に考える人が山ほどいると言うのに。
 突然、火柱のように私の脳裏に答えが立ちのぼった。20年以上かけて、私はやっと自分を理解した。
 そう、勿論そうだ。簡単なことだ。そうに決まっている。
 ふらふらと立ち上がった。帰り際にまた立ち寄ると住職に告げると、私は内心呆然としながらバスに乗った。全てはもうとっくに終わってしまっていた。私が変えられる歴史など、もうどこにも残っていなかった。旅に出たのは自分の運命を変えるためだった。そしてその間、私が背負うべきだった運命は別の場所でひっそりと燃え尽きてしまったのだ。バスが動き出した。私は、やれやれ、と呟いた。四本の太いタイヤが、容赦無く私をその場から運び去った。

 高崎家に戻り、台所を勝手に借りて下ごしらえを始めた。手を動かしている内に、感情の波は少しずつ落ち着いていった。程なくして玄関の扉がガラガラと引かれる音がした。高崎老人は顔を出すと、おっ、と言った。
「借りてます」 私は言った。「何か食べられないものとかございますか?」
「ないない。ああ、入れ歯だから固くて小さい物は……」
「はい、分かりました」
「済まないね、お客さんに」
 いえいえ、と私は言って調理場に向き直った。小一時間ほどかけて煮物主体の夕食を作ると、いったん大皿によそって冷蔵庫に入れた。手を洗って居間へ行くと、老人は眼鏡をかけて新聞を読んでいた。眼鏡の上からぎょろりと目を動かして、こちらを見た。
「もう出来たかい」
「いえ、もうちょっと。冷めてからの方が美味しいです」
「いつも自分で料理しているのかい?」
「時によりけりです。そんな気力が無い時はコンビニエンス・ストアのお弁当で済ませます。あとはカレンと私が交代で」
 カレンの料理は悪くなかった。魚料理も出来たし、イタリア育ちらしくパスタが絶品だった。何より、料理を作って食べているときだけは、彼女も私も上機嫌であることが多かった。カレンと私は似たもの同士だった。
 ほどよく冷えたところで皿を取り出し、二人分に取り分けた。私達は黙って夕食を食べた。食べ終わると高崎老人は私の腕前を誉めた。嫁か愛人になれ、などと言い出したので、丁重にお断りする。
 食後、熱い煎茶をすすりながら、雑談をした。老人は相変わらず話し上手だったが、次第に会話は途切れがちになり、最後にはただ黙って虫の音を聞いていた。日はとっぷりと暮れて、星がまたたき始めていた。どこにでもある夏の夜だった。子供たちが、まだ起きていたいと願うような、そんな温かい夜。
「私の父は」 しばらくして、私は話し出した。昨日と同様に、二つの湯のみから湯気が上がっていた。「『私の父』であった頃の父は、さびれたローカル線の駅長を勤めていました。父が出勤していない時間には改札が空いてしまうぐらいに小さな駅でしたけど、それが父には似合っていました。ここでは、父は何をしていたのですか」
「さあね、詳しくは尋ねなかったが…いや、何か環境関係だったかな。うん、小さな金属会社の環境関係で販売員。新しい水道管やら何やら」
「困っていたでしょうね。何も分からなくて」
「そうだろうな。まあ、食うためには仕方ないさ」
「ええ。……でも正直に言って、駅以外の場所で仕事をしている父なんて想像もつきません」 二人で軽く笑った。「駅長、って不思議な響きだと思いませんか。子供ながらに、かっこいい、って思っていたものです。暖かく守っているようでもあり、優しく見送ってくれるようでもあり。だから、それを辞めて出て行った父のことを、私はずっと憎んできました。そう、そのつもりでした。母のこともあって、私は何もかもに嫌気が差していました。嫌いだったんです」
 老人はただうなづいた。「でも?」
「でも。ええ、そうです。”でも”、違うんです。違ってたんです。私は憎んでいたけれど、私が犯した本当の間違いは、無関心だったことなんです。そして一番恐ろしいのは、私はもう自分を変えられないということです。父の境遇など、少し考えればすぐに分かったはずでした。狂気に囚われた妻を捨てて逃げた男と、そんな男の再婚相手になると言った女が、一体どんな扱いを受けることになるか。
「私はみちるを好きでした。ですが…ここでもやっぱり、”でも”です。昨日、私がみちるをどう思っているかと尋ねられましたね。その答えは、こうです。――――私は、みちるのことを、どうとも思っていない。今までも、そして、これからも」



 高崎老人は一言も発さずに部屋を出ると、すぐに例の菓子箱を持って現れた。古びた鍵が取り出され、ちゃぶ台の真ん中にゴトリと置かれた。錆の下から血を流しているかのような、手に取れるほどの禍々しさ。全ては不思議なほどに昨日とよく似ていた。ただ夜空だけが昨日とは異なり、雨雲の代わりに揺らめく星々の光を湛えていた。
「では、俺の見たものをお話しして差し上げよう」
 痛みと共に、扉は開かれた。
 その向こうには生々しい過去が広がっていた。たわいも無い茶番劇だったけれど、恐ろしく忠実に記録を再現する茶番劇だった。それは、予想も覚悟もしていたはずの私をいとも簡単に叩きのめした。めぐり巡って、私はようやく審判の場に這いずり上がったのだ。自らのなした罪を知るために。
 けれども次々と浮かび上がる場面は、どこかで何かが違っていた。フェイクを完全に見破ることは難しかったものの、すぐに奇妙だと気付いたことが一つだけあった。情景を見る目が、私の視点でも、みちるの視点でも無かったのだ。軽くふらつくような感じがして、熱い湯のみに手を当てる。眩暈はいっそうひどくなった。私は空を飛んでいた。同時に全ての場所に存在し、あるいはどこにも存在しなかった。偏在する普遍であり、散逸しながらも唯一だった。ニュアンスは雲のように漂い、意味をなさなかった。ただ私という扉の形だけが、辛うじてそれを手の平の上に留めていた。
(これはただの夢)
 私は自分に言い聞かせ続けた。そうして身を引き剥がすことで、何とか与えられたものを飲み下そうとした。
(夢を見ているだけ――――)


◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇


 路面に落ちる電信柱の短い影は陽炎に大きく歪んでいた。店先の打ち水も、あっという間に手の平ほどの大きさの黒い染みとなってゆく。板塀の足元では、濃い緑色をした雑草達が古いコンクリート舗装を突き破り、真っ青な空の向こうの燃え盛る太陽を目指していた。
 少女の面影を残す娘も眩しそうに空を見上げていた。やがて視線を落とすとかすかに溜息をつき、膝丈のスカートから白いハンカチを取り出して額の汗を拭いた。ブラウスもフレアスカートも、空に浮かぶ入道雲と同じぐらいの、翳りのない白さだった。八百屋の女将は頑丈な腰に手を当てて、いまいましげに笑った。
「いや朝っぱらから暑いね、まったく。どうだい、麦茶でも飲んでくかい、美凪ちゃん。お茶菓子もあるよ」
 美凪はいつものように控えめな微笑を口元に浮かべた。大きなバッグの中には、たった今渡されたばかりの木瓜や生姜が新聞紙に包まれ、その奥にはパックされた生麺が見えている。
「ごめんなさい…今日はちょっと。これから妹を迎えに行かなきゃならないので」
「ああ……ああそうか、夏休みだからね。みちるちゃん、次のバスで来るのかい」
 はい、と美凪はうなづいた。
「楽しみだねぇ。もうどれぐらいの背丈になってるだろう。美凪ちゃんの妹なんだから、きっと大きくなるだろうね」
「……あんまり大きくない方が」
「どうして」
「…可愛いです」
 女将が大声で笑うと、娘は顔を赤らめて口元を手で覆った。うつむくと、麗しい黒髪が絹のような頬にかかる。軒先にかけられた風鈴が涼やかな音を立てた。
「それではそろそろ行きますから」
「ああ、行っといで。そうそう、何かあったらね、必ずおばさんに言うんだよ。みんな助けてあげるからね。忘れるんじゃないよ」
 軽く会釈をして、美凪は人通りの少ない道を歩き出した。ひさしの陰から出ると、たちまち汗が噴き出してくる。麦わら帽子もほとんど役に立っていないように感じられた。暑さのあまり意識がかすんでしまう。強烈な夏の太陽に照りつけられた商店街は、いささか現実味を無くしかけて見えた。水彩画みたいです、と独り言を言った。
 熱の圧力に負けないように力を込めて、もう一度視線を空に向ける。海鳥の黒い影が遥か遠くをすべるように飛んでいた。空にいるお友達は元気だろうか。美凪は久し振りにそんなことを考えた。そしてその友達を追いかけている男の背中を思い浮かべる。
 何が夢で、何が現なのやら。口元に小さな笑みが浮かぶ。少し歪んだ、どうしようもない、というような微笑。
「次の季節は、もう巡っては来ない……。だから、鳥達はあんな遠い場所から誘っている」
 町外れのバス停には誰もいなかった。あまりの暑さに、待合所の屋根の下へ避難する。腐った木造の壁は虫食いやら何やらでぼろぼろになっており、ちょうどいい具合に風を通した。美凪はベンチに腰を下ろして麦わら帽子を脱いだ。道は紺碧の海と深緑の丘の境界を蛇行しながら、ゆらめく視界の遥か先まで伸びていた。車は一台も走っていなかった。バスが来るのは十分後ということになっているが、本当のところは誰にも分からない。美凪はバッグを傍らにおいて体を楽にした。潮風に乗って、くしゃくしゃになった紙切れが転がってきた。拾い上げて開いてみると4つも先の町の映画館の新作宣伝ポスターだった。あまり面白くなさそうな邦画のようだったが、隅っこに映った幼女が目を引いた。確かキックボードとかいう、ハンドルのついたローラーボードのようなものに乗っている。身長より高いところにあるハンドルにぶら下がるようにして乗っているのが、いかにも可愛らしかった。美凪は瞳を輝かせながら色あせた写真に見入った。スモックに似たワンピースをはためかせた幼女は、キックボードで町中を駆け巡り、大冒険をするのだろうか。そうだといい。
 のんびりしたエンジン音を響かせながら、古臭い型のバスがやってきた。ぞっとするようなブレーキ音が終わらない内に、中から一人の少女が飛び出してきた。遅れて、その長い長い左右のお下げがふわふわと主人の頭を追いかける。
「美凪おねえちゃん!」
「みちるっ」
 二人はドラマか何かのような勢いで抱き合い、嬌声を上げた。バスの運転手はにやりと笑って手を上げると、オンボロバスを発進させた。座席に座った若い女性が窓越しに手を振っているのが見える。姉妹のそばを、赤錆の浮いた車体が走り去っていった。
「わーい、美凪おねえちゃんだー」
「はーい」
 美凪は身を離すと、しげしげと妹を眺めた。彼女はあどけない瞳を丸くして美凪を見つめ返した。薄手のジーンズに水色のシャツ。美凪の父親が妻と別れ、再婚した先で産まれた娘だった。異母姉妹ということになるが、二人ともそんなことは露ほども気にかけてなかった。
「良かった……」
「うにゅ、何が?」
「まだあんまり大きくなってない」 背は多少伸びていたが、まだ美凪の胸の辺りの高さだった。
「にゃははは。でも、いつかはおねえちゃんとおんなじぐらいになる予定なのだ」
「予定ですか」
「なのだ」
「…予定は未定であって決定ではないとか」
「じゃ、決定なのだ」
「がっくり」
 アスファルトの照り返しにじりじりと焼かれながら、二人は手を繋いで歩き始めた。お昼ご飯は冷し中華だと言うと、みちるは飛び跳ねて喜んだ。ハンバーグも好きだけど、冷し中華も好き、とみちるは言った。結局何でも好きらしい、と美凪は思った。
 汗だくになりながら家に辿り着き、敷居をまたいだ。「ただいま」と美凪が家の奥に声をかけると、みちるも小さく「ただいま」と言った。手を繋いだまま、ふざけながら靴を脱いだ。みちるは3回、美凪が1回三和土に尻餅をついた。家に上がるとバッグと帽子を放り出して一直線に浴室に向かい、二人で冷たいシャワーを浴びた。汗を流した体を拭いて畳の居間に戻ると、扇風機のスイッチを最強にして、並んで風に当たった。
 ようやく落ち着いて人心地がしたところで、美凪はみちるを連れて小ぢんまりとした仏壇の前に座った。下段の引出しから線香とマッチを取り出し、ろうそくに火をつける。みちるは神妙な顔をして線香に火をつけ、仏前に供えた。立ち並ぶ位牌の中には、一人の水子と、その母親の戒名も並んでいた。みちるがそっと座布団の上から横にずれると、美凪は続いて線香を供えた。
 しばし頭を垂れた後、言った。
「それじゃあ、冷し中華です」
「やったー!」
 妹は輝くような笑顔で叫んだ。
 簡単に調理を終えると、美凪は部屋の端にあった小さな食卓を引っ張り出して、ガラスの大皿を乗せた。以前使っていたテーブルは、少女二人で囲うには大きすぎて使いづらかった。みちるは箸を両手に持って皿の縁を叩き、それから『いただきます』を言った。二人は草原を食い尽くそうとする牛の群れに早変わりした。
 みちるがふと言った。
「美凪おねえちゃんはぁ――――」
「みちる。今日からはまた『おねえちゃん』付きじゃなくてもいいからね」
「そうなの?」 みちるはきょとんとした顔になった。「それじゃ美凪はぁ、好きな人とかいるの?」
 食卓の上の時間が固まった。ずるずると麺を吸うみちるの見ている前で美凪の無表情な顔が一層無表情になった。
「んにゅ。どうした美凪」
「…どうして聞くの?」
「友達に聞かれたから。好きな子がいるんだけど、どうしようって」
 美凪はほっと息をついた。「なんだ、そういうこと」
「なんだとは何だあ、大事なことなのにー」
「ごめんなさい」 美凪は謝った。「……どういうことなのかしら」
「だから、友達が好きな人がいるって、それでどうすればいいのか分からないって」
 美凪は首をかしげた。「えっと、告白?」
「にゅにゅう。やっぱりきっぱりそれしかないかー!」
 他に何があるんだろうと美凪は考えた。ばっと網を投げて捕まえてしまうというのも楽しそうだ。問答無用で分かりやすい。引き揚げられた彼は、魚のようにばたばたと暴れまわる。私は包丁片手に近寄っていく。ふふふ。
「み、美凪恐い……」
「アジの開き」
 大量に作った冷し中華をあっという間に食べ尽くすと、二人は濃い目に作ったカルピスと扇風機を持って縁側に移動した。盛大なセミの声が裸足の娘たちを出迎えた。手入れを怠りがちな庭では雑草が本能的繁栄を欲しい侭にしていた。
 みちるは問われるままに小学校の話をとうとうと喋り続けた。美凪が聞いた範囲では、みちるにとっては授業も休み時間も放課後も、全てがいっしょくたになった遊び時間となってしまっているようだった。テストすら、ただのゲームのようだった。もっとも出来が良いからというわけではなく、単に点数に対する屈託が無いだけのようだ。いずれは美凪同様、補習のお世話になる日が来るだろう。
 みちるの話が終わると、美凪はゆっくりとこの街の様子を話した。どこそこの家で赤ん坊が生まれた。あたらしい料理屋が出来た。それ以外は余り変化は無い。町長さんが代わって、今年の夏祭りは派手にやるらしい。川では相変わらず沢山の蛍が見られる。とても綺麗だから、みちるも見ていくといい。明日は川で水遊びをしよう。
 いつしか話し疲れた二人は、口を閉じて夏の奏でる音楽を聴いた。セミの合唱に重なって、時折鳥の鳴き声や犬の吠える声が聞こえた。太陽は空の頂点に両手で掴まったまま、頑としてそこから退こうとしない。相変わらず暑かったが、二人で座って呆けていると、陽光が透明な水のヴェールとなって体を突き抜けていくような感覚がした。それは美凪の胸の奥のある種の渇きを一時的に癒した。近くの通りを、子供たちがはしゃぎながら走っていった。
「…自転車でもいい」 美凪が唐突に言った。
「んに?」
「みちるは自転車に乗れる?」
「うにゅ〜、あんまり上手くない」
「大丈夫、教えてあげる。自転車に乗りましょう」
 二人分の帽子を用意すると、不安げな顔をするみちるの手を引いて美凪は玄関を出た。自転車はどこにあるのかとみちるが尋ねると、美凪は簡潔に答えた。
「借ります」
 港から続く道にある商店街まで下りると、八百屋の奥をうかがう。女将は、しばしみちるをからかった後、店の自転車を快く貸してくれた。大柄なハンドルや無骨な後部の荷台など、決して洗練されたものではなかったが、それでも自転車には違いなかった。美凪はハンドルを握って、店の前までそれを押した。
「さあ」
 そう言って、バンバン、と荷台を叩く。みちるは呆気に取られた。
「にょー! 二人乗りなんて恐いよー!」
「さあさあ」
 バンバン。
 みちるはあっさり諦めた。姉にそういう強引さがあることは良く知っていた。太いゴム紐が何重にも巻いてある荷台の上に美凪が差し出したハンカチを敷き、ぴょんと飛び乗った。
「だめ。横座り」
 言われるままに姿勢を変える。美凪は満足した様子で、片足をペダルに乗せて押し漕ぎを始めた。頃合いを見て強く地面を蹴り、サドルにまたがる。みちるは姉の意外な運動神経に感心したらしく、歓声を上げた。そしてバランスを崩しかけ、慌てて目の前の腰に掴まった。
 無骨な青緑色の自転車は少女達を乗せて、狭い町の中をゆっくりと回った。美凪は目に映るものを一つ一つ愛しげに眺め、みちるも姉に倣った。海岸沿いの通りには、黄色いブイが付いたままの網が無造作に、しかし、この世の始めからずっとそこにあったように、小さな蟹の死骸に囲まれて静かに並んでいた。横から堤防越しに海の風が吹いて、二人の髪をかき乱した。海岸の端の埠頭では、漁を終えた小さな漁船が幾つか波に揺られていた。美凪はそこでハンドルを返し、再び海岸沿いに戻っていく。赤いペンキが色あせた看板だけが大きな雑貨屋を過ぎた角で右折し、住宅地へ延びるゆるやかで狭い坂道を上り始めた。陽光の下で、町は束の間の静寂に包まれていた。耳の垂れた大きな白い犬が眠そうな目で二人を見送った。美凪は時折、立ち漕ぎで登り坂を乗りきった。みちるは黙って姉の腰に抱き着き、目の前を通り過ぎる家々の中に、姉に見えて自分に見えない何かを探した。太陽は町そのものに根付いてしまったように景色の一点に固定され、同じ角度から熱波を送っていた。自転車は陽炎の中を自由に泳いでいく。住宅地の真ん中で左折すると、閑散とした診療所の隣を通る道で商店街を横断し、美凪の自宅の側を通って学校の正門に辿り着いた。美凪は足をつくと、目を細めて灰色の校舎を見上げた。こんな時期に学校にいる人間は一人もいないようだった。みちるが背後で呟いた。
「何だか、町中、誰もいないみたいだね」
 美凪は肩越しにみちるを見やると微笑んだ。
「……そんなことはありません。みんな家にいるだけ。ほとんど、みんな」
「みちる達は元気だからねっ」
 一瞬の沈黙の後、はい、と美凪は破顔した。
 彼女は再び自転車を反転させると、小さな湾を囲むお碗状の町の、ちょうどへりの辺りを斜めに進んだ。二人の右手には緑に埋もれた沢山の屋根と、その向こうで陽光を反射して美しく輝く海が見えた。全ては満ち足りて平穏の中に眠っていた。かすかな軋みと共に自転車は這うようにして坂を登っていき、野原へと続く木々のトンネルに入った。生い茂る葉の影の中で、美凪はもう一度自転車のハンドルを巡らせた。今しがた登ってきたばかりの長い坂が目の前に延びている。その先に、無限に続く海が伺えた。美凪は息を弾ませていた。汗を吸った白いブラウスが、荒い呼吸に合わせて上下した。彼女は口を結び、決然とした表情になった。
「……もうどこにもいないから」
「んに?」 みちるは不安げな声を上げた。
「出発です」 美凪は言い放つと、力いっぱいペダルを漕ぎ始めた。
 自転車は見る見るうちに加速した。美凪は全くブレーキをかけなかった。二人の少女は矢のように坂を下っていく。みちるの歓声は途中から半分悲鳴に変わっていたが、美凪は止めなかった。耳元で空気が唸り声を上げ、髪は痛いほど後に引っ張られる。足元では二本のタイヤが目に見えないほどのスピードで回転し、時おり段差を踏んでは空を跳んだ。古い屋敷も、同級生たちの住む家も、塀に貼られたポスターや、古くて傾いだ木の電信柱も、何もかもが瞬く間に手の届く範囲から剥がれ飛んで行く。美凪はわき目を振らず、真っ直ぐ前を見つめていた。もう彼女は漕いでいなかった。太陽が照り付ける静止した景色の中で、二人の姉妹だけが、ただ重力に引かれるままに流れ落ちていった。

「――――ごめんなさい」 美凪は深々と頭を下げた。「もうしないです」
「うにゅう〜……恐かった…」
 廃墟と化した駅の前に、自転車はきちんとスタンドを立てて停められていた。どこにも傷は無く、美凪が完全にこれをコントロールしてのけたのは確かだった。もっとも、タイヤはかなり磨り減っていた。路地から路地へと猛スピードで駆け抜けたのだから当然だ。美凪が甲高い音を立ててブレーキをかけ、この駅前広場に止まった頃には、背中のみちるは声も上げられずに泣きながら縮こまって震えていた。
「車より速かった。死ぬかと思った」
「ごめんなさい」
 もう何度目かになるその台詞だったが、みちるはなかなか機嫌を直してくれなかった。美凪は辛抱強く謝り続けた。
「飛行機より速かった」
「ごめんなさい」
「ロケットより速かった」
「反省します」
「隣の銀河まで行っちゃうかと思った」
「本当に申し訳ありません」
 太陽がようやく天頂から離れて地平線へと向かい始め、打ち捨てられた駅舎は美しいオレンジ色に染め上げられていた。アブラゼミの鳴き声の中にツクツクボウシの声が幾筋か混じり出した。ぼろぼろになった掲示板の屋根に、トンボが3匹休んでいた。不意に屋根板を離れ、同時に飛び去っていく。
「にゃははは」
 いつの間にか立ち直ったみちるは、拾った木の枝を片手に駅舎の周りの茂みを探検していた。美凪はその後ろを一歩一歩ついていった。麦わら帽子の下の表情は、いつになく優しいものだった。固い草がふくらはぎを撫でる。鼻歌を歌いながらふんぞり返って歩いていたみちるが突然、ぎにゃっと叫んで倒れた。美凪が駆け寄って助け起こすと、足元にレールが隠れていた。退避用の引込み線だ。電車のすれ違う動きをジェスチャーで説明する姉を、みちるはふんふんとうなづきながら見上げた。
 二人はしばらく信号機を触ったり、ポイントを切り替えたりして遊んだ後、小さな鉄製の階段からホームへと上がった。ハンカチを敷いてベンチに座る。まだ周囲は明るかったが、早くも金星が輝いていた。目の前に横たわる2本のレールは、丈の長い雑草に埋もれながらも、左右に遠くまで伸びていた。このレールをつたって日本のほとんど何処にでも行ける、と美凪は言った。
「じゃあ、沖縄に行きたい!」
「ごめんなさい、それは無理です」
「うにゅう…」
「お父さんは電車の話、してくれないの?」 美凪は尋ねた。
「たまにするよ、駅長さんだった頃の話。でも、すぐ止めちゃうの。申し訳無いからって」
「そう…」
「お星様の話はするよ。星座の話とか。オリオンって悪い奴なんだよね」
「……一応英雄なので、悪い奴というわけでは。お空の話は聞いたことある?」
「んに?」
「無いですか。あのね、お空っていうものは、本当はどこにもないの」
「にょわっ。いきなりな展開」
 美凪は短い言葉で語った。空は人間が大地に立って上を向いた時に見えるものだけれど、それは本来、宇宙だ。昼間は太陽の光が散らばって空気に色が付いて見える。でもそれは地上から見た時だけ見える幻のようなもの。太陽系に住む私達の本当の隣人は、遥か遠くで光る星々なのだ。
 しかしその考えは、内容が難しすぎたためか、みちるには不評だった。美凪は苦笑して話を打ち切ると言った。
「みちる、また駅の中も見てみる?」
「うんっ」 みちるはたちまち瞳を輝かせる。
 二人は立ちあがって改札口に向かい、事務室に繋がる、窓口の隣の木の扉を開けようとした。ドアノブを回そうとした美凪の顔が、ふと固くなる。
「開かない…」
「貸して貸してっ」
 みちるは美凪を押しのけてノブに取り付き、扉に足をかけた。美凪が無言でピンクのラインが入ったスニーカーを壁まで横にずらす。みちるは照れ笑いを浮かべた。そして二度、三度と奇声を上げながら踏ん張ってはみたものの、扉はやはり開かなかった。
「だめだぁ」
「大丈夫。奥の手があります」
「にゅ?」
「じゃん」 と、どこからともなく鍵束を取り出した。「裏口から入りましょう」
 駅舎をぐるりと半周すると、蜘蛛の巣の張った狭い路地の途中に確かに裏口があった。建物のその部分は駅そのものよりも古かった。この町がまだ村だった頃、この軌線には、人ではなく材木を運ぶトロッコが走っていた。そんな時代から残っている小屋だった。美凪はうつむいて鍵束から一番大きくて不恰好な鍵を選び出した。肩口にかかった黒髪を払うと、重たい裏口の扉にかけられた南京錠に差し込んだ。手首を回すと、かちりと、中の仕掛けが外れる音がした。
 無言のまま、幾分の警戒と畏怖を残しながら、二人は捨てられた倉庫へと侵入した。倉庫はかび臭く、暗かった。空間の大部分は巨大な棚や木箱に占められ、今となっては中身を知ることすら困難になっていた。二人は手を繋ぎ、床に置かれた小旗やポールの入った箱の間をすり抜け、奥の小さな扉に向かった。それを開けると、やっと事務室に出ることが出来た。
 事務室の床には埃が溜まり、さながら雲海の様相を呈していた。美凪が大胆に部屋を突っ切ってカーテンを払うと、さっと射し込んだ夕陽の光が後光となって彼女の姿を浮かび上がらせた。
「わあ」 みちるは目を見開いた。
 彼女はさっそく探検を開始した。きょろきょろと辺りを見渡すたびに長いお下げが左右に振りまわされ、もうもうと埃が舞い上がった。発券機や路線図、切符を切る鋏などをいじくり回し、そのたびに、お〜、と声を張り上げる。美凪はしばらく妹の様子を楽しんだ後、ロッカーで区切られた奥の空間の方へ歩いていき、埃を払うとソファに腰掛けた。テーブルには使いこまれた灰皿が乗っていた。机の端には何かの拍子に焦げた跡もあった。彼女はそこを指でこすりながら、部屋を見渡した。改築されてしまった実家と違い、何もかもが昔のままだった。壁にかけられたカレンダーも、暇つぶし用にと机に立てかけられた金属バットやグローブも、覚えのあるものばかりだった。ハンガーにかけられた青い上着が無い他は、それは彼女の記憶と寸分違わぬ光景だった。そのままの形で、埃の層の下に置き去られていた。
 美凪は立ち上がった。
「…そろそろ帰りましょう」
 みちるは口を尖らせて文句を言った。「うにゅ〜、もうちょっとー」
「去年はそんなに熱心じゃなかったのに」
「えーっと、うーんと……あれ?」 何気なく手をかけたノブが回って、みちるは驚きの声を上げた。さっきはどうやっても開かなかったのに。
「開いちゃった」
「開いちゃいましたか」
「うん」 みちるは曖昧に笑った。「もうちょっとだけ遊ぼうよ〜」
 美凪は微笑と共に妹のわがままを許した。どのみち、誰かに叱られる心配も無かった。二人は日が暮れるまで、改札口で駅員さんごっこをしたり、放送用のマイクにちょっとした犯罪ものの文章を吹きこんでみたりした。その間、誰も「ちょっと宿を借りたいんですが」などと言い出す者は現れなかったし、そもそも視界を横切る人影すら無かった。
 藍色に染まった空に星々が輝き始め、次第にその数が増えていった。みちるは、ようやく遊び疲れたのか、眠そうに瞼をこすった。美凪はカーテンを引き、窓口の隣の扉も閉めた。暗闇の中で、部屋は石膏細工のようにたたずんでいた。二人は倉庫を通って裏口から出た。美凪が振り返り、しゃんと背筋を伸ばして重い鍵を取り出した。鍵はくるりと回った。かちり、と音がした。部屋は再び封印された。



 夕飯にハンバーグを食べた後、美凪はみちるを連れて川へ行き、蛍を見た。姉妹はせせらぎの中、闇夜に舞う薄緑色をした数十もの光を飽きもせずに眺めた。みちるも自然の神秘を前にして、じっと黙ったまま立っていた。そこでは小さな虫たちが主役であり、二人は傍観者でしかなかった。その翌日も二人は川へ行って遊んだ。やはり暑かった。陽光がじりじりと二人の肌を灼く中で、小川の水は冷たく心地よいものだった。美凪が水を空中に跳ね上げ、みちるは大声を上げて逃げ回った。その周りを、時は足音を立てず静かに通り過ぎて行った。
 やがて、みちるの帰る時間がやってきた。共通の父親との約束で、一晩だけ美凪のところで泊まれることになっていたのだ。
 夕方、姉妹は連れ立ってバス停へと向かった。傍らの石垣で、二人の影が一緒に歩いていた。影達は、足を遊ばせるようにして、ゆっくりと歩いていた。
「うにゅう、もう終わりかぁ。残念」
「ざんねん」
「今年はシャボン玉…できなかったねぇ」
「うん…」 美凪はうなづいた。「でも、またいつかやりましょう」
 バス停に着くと待合所のベンチに座った。ローカル線が廃止されて以来、この道を走るバスだけが町の内外を結ぶ唯一の公共輸送機関になっていた。日陰ではあったものの、ちょうど凪の時間で、小屋には熱気がこもっていた。姉のバッグから勝手にうちわを取り出そうとして、みちるは地面に紙切れが転がっているのに気付いた。
「んに?」
 美凪が昨日拾った、色あせた映画のポスターだった。美凪はそれに気付くと、開いたポスターの中のキックボードに乗った幼女のところを微笑みながら指差した。
「この子、みちるに似てます」
「はにゃにゃあ」 みちるは照れたように顔を赤くした。「みちる、そんなに可愛くないよ〜」
「いいえ、可愛いです」
 美凪が断言すると、みちるはますます赤くなった。
「照れ屋さん」
「にゅう〜」
 照れ隠しに、みちるはポスターに目を落とした。写真の中の幼女は、あらぬ方向を睨んでいて笑顔こそ浮かべていないけれど、キックボードに乗っていることを楽しんでいるように見えた。ひるがえる白いワンピース。小さな足で地面を蹴り、小さな手でハンドルを握り、全身の力を使って走っている。
「この子、美凪に似てるよ」
「え?」
「ほら」 みちるは写真が良く見えるように掲げた。「みちる、こんな綺麗な黒い髪の毛してないし、こんなに上手く乗り物にも乗れないよ。みちるより美凪の方が女の子らしくて、器用で、ずっと似てる」
「そんな」 美凪は慌てて手を振った。ぽ、と頬が染まる。「わ、私なんかより、みちるの方が百倍可愛いです。私なんてほら、こんなに大きいし、ちょっと変だし、みちるみたいにいつも元気じゃないし――」
「むか。それじゃ、みちるがアホみたいじゃないかぁ」
「ち、違いますっ。あの……私、みちるの元気が羨ましくて言ってるの……」
「にゃははは。美凪はフォローが下手なのだ」
 みちるは、一瞬疲れたような表情を覗かせながらも微笑んだ。美凪は何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかった。みちるが、このポスターを記念にもらっていいかと尋ね、美凪は辛うじてうなづいた。
 蛇行する道の向こうに路線バスの赤い車体が現れた。バスはするすると道を近づいて来た。みちるは跳ねるように立ち上がった。遅れて美凪もその隣に並ぶ。山からの風が二人の髪を揺らす。みちるはお下げを押さえながら言った。
「ねえ、美凪。どうして『お姉ちゃん』って呼ばなくて良くなったの? もう辛くなくなったの?」
「……うん。もう辛くはないから」
「そっか。……にゃはは。それは良かったのだ」
 彼女は笑顔で何度も何度もうなづいた。点のようだったバスは次第に近づき、苦しそうなブレーキ音と共に二人の目の前に停車した。咳き込むような排気と共に、車体中央の扉が開く。客は数名しか乗っていない。この町に降りるものはいない。
「じゃあ」 みちるはステップの上で振り返った。数秒、見つめ合う。
「はい、また…」
 美凪が一歩下がると、再び排気音と共に扉が閉まった。車体が震え、バスが動き出す。みちるは後部座席へと走り、窓を開けて体を乗り出した。美凪は片手で口元を覆ってうつむき加減のまま、もう片方の手を懸命に振っている。みちるは窓から手を一杯に伸ばして勢い良く振り返した。風の中、二本のお下げが暴れる。みちるはそれを振り払いながら、必死で美凪の姿を追い掛けた。それはどんどん小さくなって行き、不意にカーブの向こうに消えた。
 みちるはしばらくそのままで居たが、やがて前を向いて座り直した。近くの座席の女性が話しかけてきた。ジャケットの胸ポケットに、大きな純白の羽根を一枚挿している。
「して、どうであった」
「うにゅ。楽しかった」
「では、涙は流さずともよい」
「笑ってるよ。みちるは嬉しいから、だから笑ってる」
「顔だけで笑おうても詮無きこと。自分のための笑いは、どこにも届きはせぬぞ」
「羽根のお姉さんの言ったとおりだったよ。……美凪は行っちゃうの。みちるには何も言わないで、一人で行っちゃう。美凪の目には、もうみちるは映らないの」
「哀れなことよの」 女性は深くため息をつく。「現世の理はむごい。報われる者など誰もおらぬ」
「早く大人になりたい……。どうしたら大人になれるの?」
「そのように大それたこと、余も知らぬ。――――が、そのような気分を追い払うすべならば知っておる」
 みちるは振り向いた。唇を噛み締め、続きの言葉をうながす。
「心より笑うことだ」 女性は、その台詞の通りに微笑んだ。「確かに、我らにできることは砂粒のごとく僅かとなった。だが、そなたはいずれ大人になる。時が来れば必ずまた会えるのだから、どれほどに悲しくとも、今は心より笑うのだ。そなたの友の未来を信じ、心から笑えば良い。意味を成さぬことなど、何も無いのだからな」
 みちるはうなづくと、車体後部の窓越しに、今はもう見えなくなった町の方角をじっと見つめた。それでも耐えられなくなると、今度はポケットからポスターを取り出して広げ、窓ガラスに当てて眺めた。夕陽が輝く空は、突き進む幼女の顔を一層誇らしげな表情に見せた。
 どうにか笑顔を取り戻したみちるが振り向くと、件の女性は前屈みになってぐっすりと眠りこんでいた。胸ポケットの羽根が無くなっていた。ばさり、と羽音がした。流れて行く景色の中に、白い海鳥が一羽、大空を目指して飛んで行った。



 一ヶ月後、みちる宛てに小包が一つ届いた。差出人は遠野美凪、消印はみちるの知らない場所だった。
 あの倉庫の鍵だった。添えた手紙には”星の見えぬ夜に”とだけ書かれている。
 彼女はその鍵を一番好きな小箱に入れ、机の引き出しの一番奥に大切に収めた。


◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇


 結局、老人の家にはもう一晩泊めてもらい、その翌朝に立つことになった。気の利いた礼も出来ずに困ったことになったが、二日目の夕食と三日目の朝食を作ったことが謝礼として充分であると言われた。この土地に来てからは親切にされることばかりだった。高崎老人には、住職に教えたのと同じだけの、つまり考えられる限りの私の連絡先を伝えた。そしてバスに乗った。
 駅前の小さなバスターミナルでバスを乗り換え、再び席につくと、私は膝に置いたバッグを何気なく手で押さえた。それは焼けた鉄を乾いたタオルでくるんだような熱気を感じさせた。鍵は今でもやり場の無い思いを抱えているのかもしれない。だとすれば、それは今こそ私が引き受けなければならないものなのだろうか。全ての思い出と報われぬ笑顔を墓場まで運び続けることで、人は罪を贖うことができるのだろうか。私には分からない。
 寺の門をくぐり寺務所を訪ねると、またしても住職が現れた。これぐらい大きな寺なら、他のお坊さんが出て来ても良さそうなものだ。ここを立つ前にもう一度墓参りをしたいので、と言い、水桶と柄杓と箒を借りた。水なら幾らでもサービスすると真顔で言われ、どうにも態度を決めかねていると、黒縁眼鏡の住職は、冗談です、と笑った。いつまで経っても人付き合いに慣れないのは遠野家の病だ。末には坊主にすらからかわれる始末だ。
 ゆるやかなスロープは、今日も陽射しを浴びて草の匂いを立ち昇らせていた。夏空は呆れるぐらいに真っ青だった。私は再び家族の墓の前に立った。水で墓石を清め、周辺を掃いた。そして、正面に立って長い間瞼を閉じた。祈ろうなどとは考えず、彼らとの思い出を一つ一つ思い起こし、そこに居た自分を確かめた。それで充分だ。私に分かることなど何も無いけれど、もしもまた私に選択肢と言うものが与えられたとしても、私は何度でも今の道を選んでしまうだろう。思えば父も哀れなものだった。そして勇敢な人間だった。父は己の弱さのために犯した罪の代償を支払いながら、そこから強さを学び、次の幸せを築き上げようと努力したのだ。父は父の人生を立派に歩んだ。私は私の道を歩まねばならない。それがどんなものであっても。
 私は墓石の前に、鍵を置いた。
 ごめんなさい、みちる。私はもう行かなければ。彼女の言う通り、またあなたに会えるのかもしれない。その時は私も手を繋ぐから。おばあさんになっても、必ず覚えているから。
 数歩下がると、バッグと空になった桶を持って歩き始めた。その途端、黒い影が目の前を横切った。どうにか悲鳴を飲み込んだ。一羽の大きな鴉が空気を切り裂いて急降下してきたのだ。鴉は丈夫な両足で私が置いたばかりの鍵をむんずと引っ掴み、ばさりばさりと二度羽ばたくと、すぐに飛び立った。そのままの勢いで、空の一点を目指して真っ直ぐに飛んで行く。私は息を呑んでそれを見送った。鴉は信じられないほど高くまで飛び、あっという間に青い空の中に溶け込んでしまった。ほんの十数秒の出来事だった。
 やっと動悸が治まり、二三度深い息を吐いた。もう一度顔を上げ、空を見渡す。どこまで行っても雲一つ無い、まっさらな青だった。あの鴉の姿はない。どこにも見えない。人の手の届かない場所に消えてしまったのだ。一体そんなことが本当にあるのだろうか。
 いや、と私は思い直した。きっと、そうあるべきだ。世の中はそうやって回るべきなのだ。そうでなければ、世界は敗者にとって余りに悲しすぎる。
 駅のホームに立って電車を待つ間も、広い空を眺めていた。赦される喜びに似た安らかさが天から流れ落ちて、私の意識の底でかすかにたゆたっていた。ホームにある公衆電話から、自分の部屋へ電話をかけた。辛抱強く待っていると、思った通りカレンの寝ぼけた声がした。
「みなぎー。用事は終わったのぅ?」
「ええ。終わったから、今すぐ帰ります」
「んー。ナンか、もう仕事無いよぅ。店長が次の人入れちゃった」
「……え?」
「……」
「……」
「ウソ。”ちょっとしたアメリカンジョーク”だよぅ、きゃははは」
「カレン、帰ったら覚悟することね」
「覚悟してまっす、で、どのぐらいに着くのぅ?」
 夜半になる、と私は答えた。電車を乗り継いで6時間はかかる。ふと気になって、私はカレンにあることを尋ねた。カレンはきっかり十秒考えた挙句、もう一度分かりやすく言ってくれと聞き返して来た。私は律儀に言い直した。
「鍵を持っていく鴉について聞いたことはある?」
「ノォ」 カレンは言った。「無い。ぜんぜん無い。なぁに、それ。鍵を失くしたの」
「シィ」 私は答えた。「鍵は失くした」
「じゃ、お店に来たらいいよぅ。一緒に帰ろう」
「アパートの鍵じゃないの。貰った鍵なのよ。昔、私があげたんだけど」
 カレンは沈黙した。理解できない原因が、言葉なのか、内容なのか、相手なのか、自分なのかを考えているのだろう。そんなこと、彼女の立場で分かるわけが無い。だからこそ私は聞いてみたのだ。
「分からなぁい」
「気にしないで。意味は無いの、本当よ。じゃあ、これから帰ります」
 受話器を置いた。青とベージュの古びた電車が、ちょうど入って来るところだった。まあいい、と私は心の中で呟いた。鍵なら作りなおせば良いだけの話だ。


01/28/2001 Suikyo