けっこん、という言葉に少し似ている。
小さな胸を焦がしていた甘いあこがれ。
時の流れと形持つ体から束縛を解かれたわたしは、
どこまでも、さよならのない旅を続ける。
『さよならのない旅』
深夜の閑静な住宅街に、眠りを破る物音が響き渡った。
ごろごろごろごろごろごろごろころごろごろーーっっ!!
どすんっ!!
「階段の最下段に捕獲用ネットを張るというのはどうだろう」 男は思わず呟いていた。「引っかかった小動物を片っ端から闇動物取引市場に売り出す」
「…祐一さん」
背後からの氷水のような呼びかけに、男――相沢祐一は飛びあがった。彼の妻、美汐は機嫌が悪くなるとこういう呼び方になる。
「どうした」
「冗談もほどほどにして下さい」
「ん? 何の事だ? 俺はただ、ああまた真琴がやったなぁ、と言っただけだ。なぁ、ミッシー」
「誰がミッシーですか。あなたの軽薄さには、ほとほと愛想が尽きます」
そう言い捨てて寝巻きの上にショールを羽織りなおした美汐は、夫に構わず、裸足のまま階段をトントンと降りて行った。生真面目な奴め、と祐一は浮かんだ苦笑いを心に押し隠して、美汐の後をついていく。明日の朝は早いのだから、今夜はほどほどにしよう。
階下では彼の予想通り、6歳になる彼らの娘、真琴が泣きじゃくっていた。
大きな瞳から大粒の涙。
大きな口から大きな声。
「はぅーっ、イタイよーっ!」
「夜中に電気も点けずに歩き回るからですよ、真琴」
「そんなこと言って聞くタマかよ、こいつが」
祐一が妻の肩からひょいと顔を覗かせて言った。美汐は祐一から離れると、目を吊り上げて彼を睨む。
「ゆ・う・い・ち・さん」
「おおこわ」 と言っておどけ、祐一は今度は愛娘の背後に回った。「真琴っ、助けてくれ。パパは殺されそうだ!」
「えぐっ…、ママ、パパを殺さないで…」
「二人とも、いつからグルになったんですか?」 と、呆れ顔の美汐。
「おう、俺達は仲良しだもんな? 真琴」 祐一は笑って娘の頬にキスをした。
「うん」
「ママは仲間に入れてくれないの?」
「ママも仲間だよっ!」
「そうね。じゃ、一緒にパパをいじめましょう」
「うんっ!」
「おいこらっ! 裏切り者っ!」
泣いたカラスが何とやら。寝巻きで廊下に座った三人は声を合わせて笑った。
母は娘に尋ねた。
「どうしてこんな夜中に下りてきたの?」
「真琴、恐い夢見たの…」
「恐い夢?」
うん、と小さく頷いて、娘はその一際大きな瞳を再び潤ませた。
「あのねっ、あのねっ、パパとママがどこかに行っちゃって帰ってこないの…。すごく寂しくて…、真琴一人ぼっちで…」
その言葉に祐一は思わず身を震わせた。不吉な影が心をよぎる。だが、美汐はその肩に優しく触れると、膝ですり寄って娘を抱きしめた。
「バカねぇ」
何て可愛い子でしょう、とつぶやく。すがるべき場所を見つけた真琴は母の胸に顔をうずめ、小さな肩を震わせて不規則にしゃくりあげた。
美汐は抱きしめた手で娘の背中をさすった。
「パパもママもどこにも行くわけ無いでしょう? 真琴が大好きなんだもの」
「そうだぞ」 祐一は何とか笑顔を作り、大げさに手を広げた。「例え全人類がロケットに乗って宇宙に行ってしまっても、パパはお前の側にいるぞ」
真琴はその恐るべき情景を思い描いのか、目を丸くした。わずかに開かれた唇がわななく。だが、何も言わない内から、母親が先回りをした。
「大丈夫。誰もどこにも行かないから。……まぁ、仮にパパがロケットに乗って行っちゃっても、ママは真琴の側にいるから、安心なさい」
美汐は、抱き締めた娘に見えないように、さり気なく目で祐一をたしなめた。祐一は軽く肩をすくめ、反省の意らしきものを示した。こうやってふざける事ぐらいしか、俺にはできないよ。と内心思う。
その場を切り上げるように美汐が言った。
「さ、お手洗いに行くなら行ってらっしゃい。明日は早いのよ」
「うん。そうする」
真琴は手の甲で目をこすりながら答え、ぺたぺたと廊下を歩いてトイレに向かった。それを見ながら祐一が美汐の肩を抱くと、美汐はほんの少し体重を預けた。娘への複雑な気持ちは、腕にかかる妻の身体の温度の中に静かに溶けていった。
軽快な音を立て、8両編成のそれぞれの車両の前後に付いた16枚の乗降扉が一斉にスライドして開く。流れ込む暖かい空気が、どこか覚えのあるような緑の香りを運んだ。
「綺麗になったなぁ」
カジュアルな服装に旅行鞄を抱えた祐一は、柔らかな陽光の降り注ぐ、改装されたばかりのホームに降り立つと感嘆の声を上げた。
「ほんとうに」
まぶしそうに目を細める美汐。ワンピースに丈の短いカーディガンを一枚羽織っただけのシンプルな格好だ。
二人は間に挟まっている真琴をよいしょと持ち上げると、ホームに降ろした。そのまま三人でホームを横切る。高架の上のホームからは、柵越しに、遅い春の色をした街並みが良く見えた。
祐一と美汐が良く知る街。
数台の木製ベンチを持つ駅前の広場から4方向に続き、名も無い路地に消えていく通り。買い物客と学生達で賑やかな商店街。何度も走った川沿いの通学路。その遥か向こうに、青いキャンバスになだらかなスカイラインを描く深緑の丘陵。
ほんの所々の日陰に、もう余り白くない雪が解け残り、変わって街路樹の緑が栄華を誇っていた。
数人の客を降ろした休日用の特別列車は、そのスマートな曲線を自慢するように、ゆったりとホームを離れて行く。
「まだ都会にならないな」
「その方が個人的には嬉しいです。あなたは?」 美汐は夫を見上げた。
祐一は答えず、じっと目に映るものに見入っていた。そして、胸に沸き起こる奇妙な衝動を楽しんでいた。ノスタルジーと呼ぶには日常的過ぎ、記憶と言うには生々し過ぎる、肌に馴染むような過去からの干渉。あの圧縮された時間、一生分の体験をした自分から、連続的に今の自分が存在するという確かな感覚。
高校時代。彼は奇跡を見たのだった。束の間の奇跡。ほのかな喜びの後に大きな悲しみを残した、切ない青春。思い出深い街だった。過去の面影を色濃く残す街並みの全てが、それは、お前の心にあるものは嘘ではないと教えてくれた。
「ふふっ」
隣で妻が立てた笑い声に、祐一は自分が柄にも無く遠い目をしていたことに気付いた。照れ隠しに美汐の髪をくしゃっとやるが、彼女は笑顔を絶やさない。
彼女は祐一と共に奇跡を体験した女性。自分と同じ傷を負い、悲しみを知った祐一を支え、そして共に生きて来た、祐一を誰よりも良く理解している人間だった。
その控えめの笑みの前に、自分の気恥ずかしさは瑣末事に思えてくる。
これで瞬間湯沸かし器タイプじゃなければ最高なんだけどな、と彼は密かに思った。それとも瞬間冷凍庫と言うべきだろうか。
「ねぇ、早く行こーーーよぅーーー」
焦れた真琴が、この年齢特有の、苛立ちと哀願の入り混じった甘え声を上げる。リボンのついた麦藁帽子に、ゆったりしたワンピースが可愛らしい。もっとも、その下は泥の落ちる暇の無いスニーカーだ。
「はいはい」 仕方ないですね、と美汐。
「よしっ、階段まで競争だっ」
「あなた、恥かしい真似は止めて下さいっ!」
「秋子さん、お久しぶりです」 祐一は頭を下げた。
「お帰りなさい、祐一さん。また少し立派になりましたね」
「秋子さんも、また少し若くなりました」
「お世辞も一段と上手くなりましたね」
水瀬家の玄関で、昔と変わらず、頬に手を当ててにっこりと笑う秋子。そんな彼女を見ると、祐一はいつも圧倒されてしまう。
あの頃は、こうやっていつでも笑顔を作っていられる彼女の心中を計りかね、どうしてそんなに強くなれるのか、笑っていることに罪悪感は無いのかと勘ぐったことも、思い余ってその通りに聞いてしまったこともあった。秋子は精一杯の真心を込めて自分を明かしたのだが、結局それはその当時の祐一では理解できなかった。
ようやく最近になって、何のことは無い、秋子さんはそういう人なのだ、と思えるようになった。
誰でも過去の経験が自分を支えているのであって、強いとか弱いとかそういうことではない。秋子さんは彼女の人生を歩み、結果として秋子さんになったのだ。
祐一は、それを一種の神聖なる母性と捉えていた。与える事に全てを集中できる力。犠牲を厭わず、常に笑顔を絶やさなかった彼女が、どれほど祐一の助けになっていただろうか。祐一にとって、秋子はいつまでも逆らえない母親のようなものだった。
「秋子さん。またお邪魔します」
「美汐さん、お久しぶりです。ゆっくりしていらして下さいね」
美汐は丁寧に頭を下げた。
彼女もまた、祐一の高校時代の親友に数多い秋子信者の一人だ。今、親子三人で住んでいる、亡くなった親類から譲り受けた家を売って、秋子を迎えてこの街で暮らそうかと密かに考えているほどだ。
秋子の落ち着いた物腰と決して破綻しない優しさを、美汐は心から羨ましく思っているが、彼女がさり気なく真似しようとしても、祐一が鋭く「おばさんくさい」と一言で切り捨ててしまうのだった。
だからますます美汐は秋子に、嫉妬心に似た憧れを持っている。
「ご、ごぶさた、ですっ、秋子さん」 真琴は勢い良く、ぺこりっと挨拶した。
「はい、真琴ちゃん、ごぶさたです。良くご挨拶できましたね」 秋子は、かがんで微笑む。
「パパが、絶対におばあちゃんって言うなって…」
「げっ、真琴っ!」
「わっ、えっ、むぐぅっ」
「気にしないで下さい、祐一さん。……時に、ジャムパンなんて食べません?」
「思いっきり気にしてるじゃないですかっ!」
祐一は照れつつも、昔と同じようにおどけて笑った。秋子は目を細め、美汐は困ったような顔をする。
再会の挨拶の後、秋子は三人をいつもの二階の奥の空き部屋に案内した。
「わーい、久しぶり〜っ」
真琴は真っ先に飛び込んで、隅に重ねられた布団の山に身体ごと飛び込んだ。
「こーら、真琴っ。おいたしちゃいけません」
美汐がたしなめるのも聞かず、真琴はごろごろと布団の柔らかい感触を楽しむ。旅行先の真っ白でふかふかの布団ほど、子供にとって気持ちの良いものはない。
「構いませんよ。もうその布団はあなた達専用ですから」 と微笑む秋子。次いで、「お昼ご飯、あがりますか?」
真琴は、ガバッと体を起こして叫んだ。
「秋子さんっ、肉まんある!?」
「ありますよ」 当然のように答える。
「わぁーい、肉まーんっ!」
真琴は大人達の膝の間をすり抜け、大きな足音を立てて廊下を走ると階段を駆け下りた。
いや、本人は駆け下りるつもりでいた。
ごろごろごろごろごろごろごろころごろごろーーっっ!!
どすんっ!!
「……」
二階の三人は顔を見合わせると一斉に吹き出した。
興奮気味だった娘がようやく寝つき、更に10分ほど監視して本当に起きてこないことを確かめると、美汐は居間に戻って来た。
「よう、久しぶりだな」
「20分前にも居ました」
「そうだったか?」
「…もう酔ってるんですか?」 美汐は夫の顔を覗きこんだ。
「酔っちゃいるが、今のは冗談だ」
「そうですか。あなたはこちらに戻ると、いつも泥酔されるから」
「構いませんよ。美汐さんもたまには羽目を外されたら?」 と秋子。
「そ、そんなわけには行きませんっ」
祐一がとろんとした目でしどろもどろの妻を視界の隅に捉え、ニヤリと笑った。
「お前は相変わらず引っ込み思案だからな。たまには酒の力を借りて喋ったらどうだ」
どうしてこう無神経なのだろう。
美汐は眉を逆立てて夫の耳を掴み、そこに叫んだ。
「勝手なことを言わないで下さいっ」
「うわっと、と、と。こぼれるだろうが」
「知りません。まったくもう…」
「ふふふ」 秋子は二人の様子を眺めて微笑んだ。「二人とも、相変わらず照れ屋さんですね」
「は、はぁ…」
二人はずばりと言われてしまい、言葉も無く顔を赤らめた。
秋子は美汐と自分の分の飲み物を作って、片方をテーブル越しに寄越した。美汐は恐縮しながらそれを受け取った。舌先で刺激の具合を確かめる。これぐらいなら普通に飲めそうだ。
「俺と秋子さんはともかく、お前もスコッチがいけるようになるとは思わなかったよ」
「あなたに鍛えられましたからね」
「最初はビールも危なかったのにな」
「最初は匂いで駄目でした」
美汐は顔をしかめながらグラス越しに二人の顔を見る。
そう、私にも色々可能性はあるんです。負けられません。
私だって、いつまでも内気な女学生でいたいわけじゃありません。あなたが私のことを思ってくださるのは嬉しいけれど、私はそれ以上に、あなたをいつでも支えられる一人の強い人間になりたい。
…こんなことを考えるのは、それこそお酒のせいなのかしら。
「それで、秋子さんはお変わりありませんか」 祐一が尋ねた。
「ええ、元気ですよ。たまには名雪も帰ってきますし、何とかやってます」 肩をすくめる秋子。
「お仕事は続けられてるんですよね」
「そうですね。最近は時間が不定期ですけど、まだ声はかかりますよ」
「空いた時間はどうなさってるんですか?」 と、今度は美汐。「何かご趣味でも?」
「ふふ、それは秘密です」
「あははは。相変わらずミステリアスですね」 祐一が笑い声を立てた。
だが、ミステリアス、という言葉に秋子は少し後悔の表情を浮かべた。
「本当は…、何もしてないんですよ」 秋子は心持ち首を傾けた。「何かしなければ、って思うんですけどね。でももう…、するべきことは全部し終えた気もしますし」 肩をすくめる。
「そうですか…」
祐一は、秋子が見せた思いがけない一面に、二の句の継げない様子だった。
しばし、静寂が訪れた。二人とも、その言葉の重み、その言葉を言ってくれたことの重みを理解していた。
美汐は不意に口を開いた。
「でも、秋子さんなら、何かあるはずですよ」
「そうでしょうか…」
「そう思います」 不思議な確信を込めて、美汐は繰り返した。「私は、そう思います」
秋子は、くすり、と笑いを漏らし、手に持ったグラスを美汐のグラスに軽く合わせた。
「それじゃ、それを願うことにしますね」
美汐は顔を赤らめて、もごもごと口の中で何かつぶやいた。
何だか浮き上がった感じで恥かしい。
その後も彼らはとりとめもなく話し続け、様々な話題が口に上った。
東京で嫁いだ名雪のこと。
信じがたいことに出張先の国籍を取って居座ってしまった祐一の両親のこと。
美汐の実家の経営する動物病院の話。
そして最後には、やはり真琴の話題になった。
「どんどん似てきますよ」 と祐一は感慨深げに言った。「違う人間なんだと割り切ったつもりでも、時折恐くなります」
「あなたは、自分のお腹を痛めていないから」 美汐は一口飲んで、続けた。「あの子は私の生んだ子、あなたと私の子です。ただ、私達が愛した人の名前を付けただけ」
「ええ、勿論そうですとも」
嬉しそうに同意する秋子に、祐一は苦笑いで答える。
「分かってはいるんですがね。でも夕べなんか、夜中に起き出して階段を転げ落ちた挙句、こう言うんですよ。『恐い夢を見たの。パパとママがどこかへ行ってしまう夢』ってね。恐いでしょう」
秋子は優しく首を横に振った。噛んで含めるような口調で言う。
「私は、あの子があなた方に真琴を授けてくれたのかもしれないと、思っていますよ。でもね、その夢は子供が大抵何度も見る夢です。その場に居合わせて慰めてあげられたのは、むしろ幸運ですよ」
「もう、あんな事を言う歳でも無いと思うんですけどね」
「それだけ、真琴があなた達になついているということですよ」
「そうかも知れませんけど」
祐一には分からなかった。
理屈を信じることだけでは、心の闇に巣くう漠然とした不安を完全に拭い去ることは出来ないから。
それでも秋子の言葉は彼の心に染み入って、彼の心の弱い部分を暖かく支えてくれた。
祐一はグラスをあおった。
そして酔いが回ると、いつしか祐一は忘れ得ぬ時間の記憶を、あたかもこの家のあの部屋のように、普段はぴったりと閉じてある心の奥の金色の思い出を解放する。
やはり『真琴』と呼ばれたもう一人の少女。
人の温もりを求める気持ちを、拗ねた行動の影に隠して。
持って生まれた全ての時間と引き換えに、祐一と共に過ごす一瞬の日常を選んで。
目を閉じると溢れる熱い涙が、今もまだその思い出が鮮烈な印象を保ちつづけていることを彼に教えた。
「あいつは幸せだったのかな」
それは合言葉。
「幸せでしたよ」
二人の女性は愛情を込めて答えるのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
墨のような穹窿が白むに連れ、星の光はまたたき薄れ、丘は死の静寂に包まれた。
草葉はその痩身を朝露に濡らし、霧を孕んだ重い空気がねっとりと沈下する。
永遠とも思われる灰色の時間の底。
やがて、峰々の隙間から白い日の光がその長い腕を伸ばし、立ち込めた霧を払う。
希望を込めた爽やかな冷たい風が吹き始め、草原の緑は光を受けてゆっくりと踊り始めた。
朝焼けが天を美しく彩り、雲が滑らかに動きを添え、朝の到来を告げ知らせた。
木々の間を抜け、丘を吹き下りた風は、ざわめきを増す街の上を悠々と越えて行く。
昇り始めた太陽の光を浴びて体温を上げ、徐々に高度を取り戻しながら大地を愛しむように両腕を広げる。
人々は穏やかな眠りより目覚め、道々を行き交い始める。
風は、暖かく緩やかに流れ、やがて海に抜けてどこまでも空に広がって行った。
「いい天気ーっ」 幼い真琴は手をかざしながら青空を見上げて叫んだ。
返事が無い。
真琴は大仰に身体を捻じ曲げて、父親の顔を見上げた。父親が反応しないので、ズボンの裾を掴んで揺さぶる。
「パパ、頭イタイのーっ?」
「痛いぞ。物凄く痛いぞ。だから、騒がないでくれぇ」
祐一は、その言葉を裏付けるように苦悶の表情を浮かべた。まるで瀕死の病人のようだ。顔を上げ、眩しい朝日をまともに目に受けて、呻いた。
「あんなに飲むからです」
その妻は言葉少なに言った。だが、その表情も余り冴えたものではない。
「あぅーっ。何だかパパもママも元気無いね。なっさけないなぁー」 真琴は腰に両手を当ててむくれた。「そんなんで行けるのーっ?」
「パパは疲れたよ。真琴、パパをおぶってくれ」
「ぎゃーっ! 重いよ、パパぁ!」
「だから、バカな真似はしないで下さいっ! …っつぅ…」
美汐は自分の叫びが頭の中に巻き起こした予想以上の痛みに、数秒間全身をこわばらせた。
全く情けない。
夕べのささやかな宴会は、物悲しくて、それでいて暖かくて、何だか闇雲にお酒が飲みたくなるような気分だった。で、気付いた時には限度を超していた。何とか体裁を保ったまま布団に辿り着けて良かった、と密かに胸をなでおろす。
「それじゃあ、行きましょうか。早くしないとお昼前に着けなくなってしまいます」
「そうだな。じゃあ、真琴。パパをおぶれ」
「でーーーきーーーなーーーいーーーよーーーっ!」
「ぐぁっ」「うぅっ」
真琴の甲高い声は、半秒で両親をノックアウトした。
三人は、ものみの丘にやって来た。
既にこの街へ来た時の恒例行事となっているので、幼い真琴ですらほとんどの道順を覚えていた。
朝の吹き降ろしの風は、暖かい南風に移り変わっている。
「わーーいっ」
真琴は森の向こうに平地が見え始めた辺りから走り始め、そのまま野生動物のように日の当たる草原を疾駆した。しなやかで健康な素足は、ふくらはぎまで柔らかい草に埋もれても切り傷を作りはしないようだ。麦藁帽子がどんどん遠ざかって行く。
「あんまり遠くに行くんじゃありませんよ…」
「わかってるってばーっ」
どうだかな、と祐一は苦笑し、美汐はやれやれといった表情を浮かべた。顔を見合わせて微笑む。
二人は適当な場所を選んで、並んで寝転んだ。今日は日がな一日、この丘で過ごすのだ。
「あったかいですね」
「ん」
妻の呟きに祐一は相槌を打つ。
高いところにすじのような雲を残して、少し色の薄い青空が広がっている。草地は適度に温度を保ち、ぼんやりと時間を過ごすには最適の環境だった。
二人は遠慮無くぼんやりと時間を過ごした。
ただ、吹き渡る風を、そよぐ草の音を、流れる雲を、遠くに聞こえる娘の声を感じていた。
二日酔いもゆっくりと癒されていく。
「春、ですね」
「ん」
風が柔らかく二人の頬を撫でた。
美汐は乱れる自分の前髪を、目を寄せて見つめた。ふぅっ、と口で吹いてそれを跳ね上げる。
また風が吹いて、今度はもっとくしゃくしゃになった。
ふと気付くと横から奇妙な顔で自分を見つめている夫がいて、自分が真剣な表情で遊んでいたことが突然恥かしくなった。
「あんまり見ないで下さい」
「そう言うなって」 祐一はおかしそうに笑った。「お前がそんな顔してるのは珍しいからな」
「そんなに変な顔でしたか」
「いや、変じゃない。無邪気な顔」
「子供っぽいってことですか」
「ま、おばさんっぽいよりマシだろ」
「マシはマシですが、余り嬉しくありません」
「可愛い顔ってことだよ、血の巡りの悪い奴だな」
祐一は苦笑すると、妻の額に軽くキスをした。美汐は顔面を紅潮させ、そっぽを向いた。それを見て、祐一はまたひとしきりクスクス笑いをする。
真琴は走りたいだけ走ると立ち止まり、燦々と降り注ぐ日の光を受け、その陽気を胸一杯に吸い込んだ。意味も無く笑い声を立てる。楽しげな声は原っぱ中に響き渡った。その余韻を楽しんでいると、かすかにゴーッという音が混じってきた。
「あ、飛行機!」
真琴は空を見上げ、青い背景にわくわくするような白い筋を残していく飛行機を、麦藁帽子のつば越しにじっと見つめた。あれに人が乗っているなんて信じられない。でも、もし本当に乗っているなら、真琴達はどんな風に見えるかな。やっぱり豆粒みたいなんだろうな。
飛行機が去って、飛行機の音も去ってしまうと、真琴はようやく目線を下ろした。ずっと見上げていたから、首が痛い。
唐突に、いつの間にか近くに見慣れない動物が現れ、草の間からこちらを見ていたのに気付いた。全く動かないので、しばらく気付かなかった。
「きつねだ…」
図鑑やテレビで見たことがある。黄色い毛皮をした綺麗な生き物。鋭い顔立ちと優しい目をしている。
でも、昔話なんかだと、ずる賢くて人間を騙したりするらしい。
真琴はヘビに睨まれたカエルのように、そのままの姿勢でじっと狐を見つめた。どうしよう。近づいたら逃げるかな。騙されたらどうしよう。
狐はふと左前足を上げて頬の辺りを掻いた。猫を思わせるような優雅で機敏な仕草に、真琴はにっこり笑った。
「きつねさん」
狐はびくっと身を震わせた。真琴は慌てて立ち止まった。そのまま凍りつく両者。
これじゃにらめっこだよ、と真琴は苦笑した。それとも、だるまさんがころんだ、かな。
「だるまさんがころんだ」 と、小声で言ってみる。
相手は逃げなかったものの、若干姿勢を低くした。これは一体何のサイン?
「にらめっこ?」 少し首を傾げて聞いてみる。
今度は身体の向きを変え、斜に構えるような姿勢で真琴を見上げる。
「遊ぼ?」
お前に必要なのは忍耐である、とパパから言われている。忍耐とは、これ即ち肉まんが1秒で出来ないからと言って泣き叫んだり、友達がちょっと意地悪な事をしたからと言って蹴りを入れたりしないことである、と良く分からない口調で言われた。横でママがくすくす笑っていた。
つまりは、じっとガマンしなさい、ということだ。
ここで軽々しく近づいたら、きっと狐は逃げてしまう気がする。
よし、ガマンだ。
「遊ぼうよ」
真琴は一歩下がって、そこでしゃがみ込んだ。相手が近付いてくれるまで、じっと待っていよう。
狐は真琴の目をじっと見た。真琴も見つめ返す。すると、相手は身体の向きを逆にして、また首を曲げて真琴を見る。
何だろう、と真琴は内心首をひねった。早く、来てくれないかな。
その内、ふいっと違う方向を向いた。真琴も連られてそちらを見ると、シロアゲハが飛んでいた。
視線を戻すと、狐もまたこちらを見ていた。しかし、すぐに再び顔を逸らすと、『もう飽きた』とでも言いたげな表情をちらりと見せて、足早に去って行ってしまった。真琴は呆気に取られた。結構長い間付き合ってくれたのに、何だろう最後の、あの突然の失礼な態度は。
だが、狐という、普段見かけない動物を見られたことは大収穫だ。あんな生き物が間近で動いているのを見れたのはドキドキするような体験だった。真琴はそう考えて気を良くした。
満足したら、急にお腹が空いてきた。そろそろ、ママの所に戻ろう。
「あ、そう言えばきつねが居たんだよっ!」 真琴がサンドイッチを頬張りながら突然声を上げた。
「ぶっ」
「わっ、パパ、きったなーい!」
真琴は、魔法瓶から汲んだお茶を吹き出した父親を凄い目つきで睨んだ。祐一は顎を拭きながら、冷や汗をかく。
「それで、真琴はどうしたの?」 美汐は穏やかに聞いた。
「遊ぼうと思ったんだけど、逃げられちった」
「”ちった” じゃなくて、”ちゃった”」
「ちゃった。……何でパパ笑ってるの?」
祐一は苦しそうに腹を抱えて、声も出せずに笑い転げていた。美汐は苦笑いを浮かべた。
「きっと、『真琴が動物を可愛がったら、動物の方こそいい迷惑だ』なんて考えてるんでしょう」
「あぅーっ、真琴、ちゃんとやれるよぅ!」
「ママじゃなくて、パパが考えてるんじゃないか、って言ったのよ」
「い、…ひぃ……、いや、みし――ママの方こそ、そう思ってんじゃないのか?」 祐一は苦しい息の下から、ようやく言った。
「あらっ。じゃあ、真琴。パパの狐さんの可愛がり方を教えてあげましょうか」
「うんっ、教えてっ」
真琴は好奇心で瞳を輝かせた。祐一は成り行きが読めずに、訝しげに二人を見つめる。
美汐は弁当を入れたバスケットを置くと、悠々と講釈を始めた。
「じゃあ、まず狐さんをすぐ隣に座らせます」 美汐は真琴をそばに座らせた。
「それでそれで?」
「一緒にマンガを読みます」
「あははっ」
「おーい」
「そして、おもむろに、好きな人の話を始めます」
「え?」
「おいこらっ」
「延々と憧れの先輩について語るのです」
「えええええええーーーーーっ!!」 真琴の、鼓膜が破れそうな絶叫。
「こら、美汐ぉっ!!」
「あら、祐一さん。可愛いお顔ですね」
美汐はここぞとばかりに言って、にっこりと笑った。祐一は両手を振り回して威嚇したが、効き目が無いと悟ると、赤くなった顔を無闇にこすった。美汐はますます笑顔になり、祐一は草の上にひっくり返った。真琴が矢継ぎ早に質問を浴びせ、祐一は遂に敗北を認めた。
太陽が幾らか傾き、空の色が深くなった。
一日中吹いていた風が、少し弱まる。
夜になるとまた寒い風が吹き始めることを二人は知っているが、その時刻にはまだ遠い。
娘は空腹が満たされ、母の脇でこっくりこっくりと舟をこいでいる。
美汐は娘の頭を撫でながら、静かに祐一に尋ねた。
「後悔、していませんよね」
「ああ。…何について言ってるのか知らないけど、どれについても、な」
「真琴が、もし連れてきていたら、どうしました?」
「どうもしない。いや、一緒に可愛がってやるだろうな」
「そうですね」 美汐は頷いて、不意に夫に身を寄せた。「あなたと一緒になって良かった」
祐一はふと眉を曇らせた。
「最初は、ただの強がりだったんだ。俺がだめになっても意味が無いと思って。そして、せめて、お前を救ってやりたいと思って。…心の中は滅茶苦茶だった。ただの意地で気を張っていた」
「私はそれが嬉しかった。それでも前を向こうとするあなたを助けたいと、ぼろぼろの心の中で、それだけが光でした。今は…」
「今は?」
「どうでしょう…。同じ気持ちはありますけれど…、少し違います。私の心を傷つけたあの出来事も、あなたを悲しませたあの出来事も、今では何故か私の心を暖めてくれます…」 美汐はそこで首を傾げた。「これは記憶の美化作用というものでしょうか」
「そりゃ違うだろう」 祐一は苦笑した。「ただ…、何か大切なものが残ったんじゃないかな」
「大切なもの…。ええ、私もそんな感じがします」
祐一は言葉を切った。物憂げな表情に変わる。深く考えている時の顔だ、と美汐は思った。
美汐は夫の胸に頭を乗せ、目を閉じた。祐一の落ち着いた鼓動が聞こえた。胸板が呼吸に合わせて静かに上下するのが感じられた。祐一は妻の肩に腕を回した。
美汐は祐一の鼓動をぼんやりと数えていた。100も数えたところで眠くなってきた。傍らの娘が立てる軽やかな寝息に合わせ、心地よいまどろみに入りかける。
「こんな家族が居てもいいよな」
祐一の声に、美汐は夢うつつの状態から目を覚ました。
「こんな不思議な家族、ですか」
「こんな幸せな家族、さ」
祐一は薄くたなびく雲をじっと見つめていた。美汐はそんな夫から視線を外し、隣で蒼穹を見上げた。
自分を囲む、様々な小さな音が生きていた。
小鳥のさえずり。
草の擦れ合う音。
時折街の方角から運ばれてくる、車の音や、電車の音。
柔らかい微風が吹きぬける。
祐一が口を開いた。
「俺は、お前達が大好きだ。俺はこの丘に、その再確認のために来ているんだと思う」
自分の心を語っているようにも、そう信じようと決心しているようにも聞こえる。
「真琴は、あいつの生まれ変わりかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、俺にとって一番大切なのは、あいつから貰った気持ちさ」
「あの子の、気持ち……」
「あいつはずっと、最後まで人の温もりを求めていた。俺達もみんな、あいつを大好きだったんだ」
しっかりとした声で、祐一は誓いを立てるように言葉を重ねた。
そして、妻の声がそれに唱和する。
「あの子は暖かい子でした。私を慕ってくれました。私もあの子が大好きでした。あの子は私が知らなかった気持ちを教えてくれました」
彼は更に言葉を続ける。
受け取ったものを確かめるために。
心を共にするために。
「あいつを覚えているから。あいつから貰った気持ちを覚えているから。だから俺は、お前も、真琴も、大好きだ。俺はお前と一緒にいたい。真琴と一緒にいたい。――その気持ちの中で、俺はあいつと一緒にいる」
「私も、あなたと、真琴と、一緒にいたいです。あの子がくれた、あの暖かい想いを忘れません。受け取ったものを、今度は私達が伝える番」
即席の誓いの言葉を終え、美汐は熱っぽく潤んだ目で夫を見つめた。
二人は長い長いキスを交わす。
人の想いはさよならのない旅路。
精一杯の愛情は、去って行った少女から受け取ったあこがれに乗せて。
この気持ちを、いつか真琴に伝えよう。
やがてそれは世界中に広がるだろう。
「あ。あれ、やりましょうか」
帰り道、夕焼けに赤く染まる街角で、美汐が道端の機械を指差した。
「お、いいねぇ。まだあるんだな、ああゆうの」
「えー、なになにー?」
「写真を撮る機械だ。魂を抜かれるからやり過ぎに注意」
「えーーーーっ!?」
「……祐一さん?」
「嘘。前言撤回。今の無し。キャンセル」
祐一は慌てて両手を上げた。
美汐は念の為にもう一睨み。
全く、この調子だと真琴が次に何を覚えるか、気が気で無い。
「パパのうそつき。で、結局何なの、これ」
「写真を撮るのは本当ですよ。ほら、こういうシールになるのね」 と美汐は娘にサンプルを指し示した。
「あ、面白ーいっ。やろっ、やろっ」
「よーし、じゃ、これを投入口に入れるんだ」 祐一がコインを持たせる。
「うーー、届かないぃぃっ。あっ、ありがと。うん。届いた。で?」
「えーと、フレームを選ぶのか? どれかな。これにするか」
「それじゃ、真琴はこの台に乗ってね」
「わーい、真ん中、真ん中ぁ〜っ。ねっ、パパもママももっと近寄ってよっ」
「書き文字も入るな。良し、じゃあ、っと」
祐一は思い出の言葉を、ちょっぴり変えて書き込んだ。
『相沢家一同 20XX.6.1』
懐かしいな。
『こんなものは、適当にやれば合ってるんだよ』
あの頃の自分の声が聞こえてくるようだった。
あの時の輪の中央に居たのは、あいつだった。
――――お前を近くに感じるよ。いつまでも、見守っててくれよな。
「じゃあ、撮るわね」 と美汐。
「おう」
「真琴もいい?」
うんっ
<Say, I still be here.>
11/05/1999 Suikyo