『さよならのない旅』






 深夜の住宅街に、静寂を破る物音が響き渡った。

 ごろごろごろごろごろごろごろころごろごろーーっっ!!

 どすんっ!!

「階段の最下段に捕獲用ネットを張るというのはどうだろう」 男は思わず呟いていた。「引っかかった小動物を片っ端から闇動物取引市場に売り出す」
「…祐一さん」

 背後から聞こえた冷たい女の声に、男 ―― 相沢 祐一は飛びあがった。
 彼の妻、美汐は機嫌が悪くなるとこういう呼び方になる。

「どうした」
「冗談もほどほどにして下さい」
「ん? 何の事だ? 俺はただ、ああまた真琴がやったなぁ、と言っただけだ。なぁ、ミッシー」
「誰がミッシーですか。あなたの軽薄さには、ほとほと愛想が尽きます」

 そう言い捨てて寝巻きの上のショールを羽織りなおした美汐は、夫に構わず階段をトントンと降りて行った。
 祐一は心の中で苦笑いしながら、美汐の後をついていく。
 階下では彼の予想通り、6歳になる彼らの娘、真琴が泣きじゃくっていた。
 大きな瞳から大粒の涙。
 大きな口から大きな声。

「はぅーっ、イタイよーっ!」
「夜中に電気も点けずに歩き回るからですよ、真琴」
「そんなこと言って聞くタマかよ、こいつが」
「ゆ・う・い・ち・さん」 と目を吊り上げる美汐。
「おおこわ」 と言っておどけると、祐一は愛娘の背後に回った。「真琴っ、助けてくれ。パパは殺されそうだ!」
「えぐっ…、ママ、パパを殺さないで…」
「二人とも」 呆れ顔の美汐。「いつからグルになったんですか?」
「おう、俺達は仲良しだもんな? 真琴」
「うん」
「ママは仲間に入れてくれないの?」
「ママも仲間だよっ!」
「そうね。じゃ、一緒にパパをいじめましょう」
「うんっ!」 人間関係にルーズな娘である。
「こらっ!」

 泣いたカラスが何とやら。
 三人でひとしきり笑った後、母は娘に尋ねた。

「どうしてこんな夜中に下りてきたの?」
「真琴、恐い夢見たの…」
「恐い夢?」

 うん、と小さく頷いて、娘はその一際大きな瞳を再び潤ませた。

「あのねっ、あのねっ、パパとママがどこかに行っちゃって帰ってこないの…。すごく寂しくて…、真琴一人ぼっちで…えぐっ」
「バカねぇ」

 美汐は目を細めると膝ですり寄って娘を抱きしめた。
 何て可愛い子。
 真琴は母の胸に顔をうずめ、小さな肩を震わせて不規則にしゃくりあげる。
 美汐は抱きしめた手で娘の背中をさすった。

「パパもママもどこにも行くわけ無いでしょう? 真琴が大好きなんだもの」
「そうだぞ」 祐一は大げさに手を広げた。「例え全人類がロケットに乗って宇宙に行ってしまっても、パパはお前の側にいるぞ」
「…あなたは普通に物が言えないんですか」 美汐が脱力したように言う。
「俺の真琴への愛を語るには、普通の言葉では足りないんだ」
「勝手にして下さい。私は付き合いませんからね」
「真琴ぉ〜、パパはママに見捨てられちゃったよ。可哀想なパパを慰めてくれぇ」
「だから、変な言い方は止めて下さいっ――」
「あぅーっ、ママ、パパとケンカしないで…」

 じっと両親のやりとりを見ていた真琴が、すがるように言った。
 それを聞いてびくっとする二人。

「け、ケンカなんかしてませんよ。真琴?」

 二人は揃って真琴に笑顔を見せる。
 が、真琴は母の笑顔がわずかに引きつったのを見逃さなかった。
 確か、前にあたしがケンジ君をぶっちゃった時、ママは何て言ったっけ。

「ママ、パパと仲直りして」
「え?」
「仲直りしてっ」
「ほら見ろ、真琴の目は確かだ」
「仲直りって、ママはパパとケンカなんかしてませんよ?」 美汐は夫を黙殺した。
「うーっ」 だが真琴は肩をいからせて母親を精一杯威圧する。

 美汐は小さく肩を落とすと、祐一に向かい直した。
 両親の性質を強く受け継いだ真琴は、一旦言い出したら絶対きかない。
 結局、折れるのは親である。
 少なくとも今はそうでなければならない、と美汐は思っていた。
 正しいことを言っている限りは。

「あなた。ごめんなさい」
「うむ。苦しゅうない」

 カチンと来た。
 この人は…っ。

「ゆういちさ――…!」

 祐一は絶妙のタイミングで美汐の口を自分の唇でふさいだ。
 美汐は大きく目を見開いて体を強張らせたが、やがてゆっくりと力を抜く。
 片手を夫の顎に添えて本格的なキスに移行しようという時、またしても絶妙のタイミングで祐一は唇を離す。
 美汐は思わず祐一の動きを追いかけてしまい、ばつの悪い思いに顔を赤らめて下を向いた。

「な、俺達はケンカなんかしてないぞ」
「う…うん」

 幼女は唖然としていた。
 無理も無い。
 美汐は早口で夫の耳元に何かまくし立てていたが、祐一が二言三言ささやき返すとそのまま黙ってしまった。

「じゃあ、もう寝よう。明日起きられなくなるぞ」
「うん。そうする」

 早くも大きなあくびを漏らす真琴に、祐一と美汐は肩を寄せ合い、自然と笑みを浮かべた。





「綺麗になったなぁ」

 カジュアルな服装の祐一は、ホームに降り立つと感嘆の声を上げた。

「ほんとうに」

 まぶしそうに目を細める美汐。
 ワンピースに一枚羽織っただけのシンプルな格好だ。
 二人は間に挟まっている真琴をよいしょと持ち上げると、改装されたホームに降ろした。
 休日用の特別列車は、そのスマートな曲線を自慢するように極めてゆっくりと駅舎を離れて行った。
 親子三人は明るい太陽の光を浴びながら並んで歩く。
 高架の上のホームから、遅い春の色をした街並みが良く見えた。
 ほんの所々に余り白くない雪が解け残り、変わって街路樹の緑が栄華を誇っていた。

「まだ都会にならないな」
「その方が個人的には嬉しいです。あなたは?」
「俺も同感だ」

 何だか学生に戻った気分だ、と祐一は思った。
 大学生を飛び越して、高校生に。
 一生分の体験をした、あの時間に。
 その当時の面影を色濃く残す街並みに、そんなことを感じるのかもしれない。

「ふふっ」

 隣で妻が立てた笑い声に、祐一は自分が柄にも無く遠い目をしていたことに気付いた。
 照れ隠しに美汐の髪をくしゃっとやるが、彼女は笑顔を絶やさなかった。
 その控えめの笑みの前に、自分の気恥ずかしさは瑣末事に思えてくるのだった。

「ねぇ、早く行こーーーよぅーーー」

 この年齢特有の、苛立ちと哀願の入り混じった甘え声を上げる真琴。
 リボンのついた麦藁帽子に、ゆったりしたワンピースが可愛らしい。
 もっとも、その下は泥の落ちる暇の無いスニーカーだ。

「はいはい」 仕方ないですね、と美汐。
「よしっ、階段まで競争だっ」
「あなた、いい加減にバカな真似は止めて下さいっ!」





「秋子さん、お久しぶりです」
「お帰りなさい、祐一さん。また少し立派になりましたね」
「秋子さんも、また少し若くなりました」
「お世辞も一段と上手くなりましたね」

 昔と変わらず、頬に手を当ててにっこりと笑う秋子。
 そんな彼女を見ると、祐一はいつも圧倒されてしまう。

 あの頃は、こうやっていつでも笑顔を作っていられる彼女の心中を計りかね、どうしてそんなに強くなれるのか、笑っていることに罪悪感は無いのかと勘ぐったことも、思い余ってその通りに聞いてしまったこともあった。
 秋子は精一杯の真心を込めて自分を明かしたのだが、結局それはその当時の祐一では理解できなかった。
 何のことは無い、秋子さんはそういう人なのだ、と思えるようになったのは最近になってから。
 誰でも過去の経験が自分を支えているのであって、強いとか弱いとかそういうことではないのだ。
 秋子さんは彼女の人生を歩み、結果として秋子さんになった。
 祐一はそういう結論で自分を納得させることにした。
 何にせよ、自分は秋子になれないことは明白だったから。

「秋子さん。またお邪魔します」
「美汐さん、お久しぶりです。ゆっくりしていらして下さいね」

 美汐は丁寧に頭を下げた。
 彼女もまた、祐一の高校時代の親友に数多い秋子信者の一人だ。
 今三人で住んでいる、亡くなった親類から譲り受けた家を売って、秋子を迎えてこの街で暮らそうかと密かに考えているほどだ。
 秋子の落ち着いた物腰と、決して破綻しない優しさを美汐は心から羨ましく思っている。
 が、彼女がさり気なく真似しようとしても、祐一が鋭く「おばさんくさい」と一言で切り捨ててしまうのだった。
 だからますます美汐は秋子に、嫉妬心に似た憧れを持っている。

「ご、ごぶさた、ですっ、秋子さん」
「はい、真琴ちゃん、ごぶさたです。良くご挨拶できましたね」
「パパが、絶対におばちゃんって言うなって…」
「げっ、真琴っ!」
「わっ、えっ、きゃっ」
「気にしないで下さい、祐一さん。…時に、サンドイッチなんて食べません?」
「思いっきり気にしてるじゃないですかっ!」

 祐一はおどけながら、やっぱりここに戻ると高校生の自分になってしまうことを照れくさく思った。
 ともすると、制服を着て雪解け道を学校に向かいたくなる。
 本当はみんなの顔を見れば時の流れを感じてしまうのだが、心はむしろ昔へ回帰していく。
 彼らが同じものを共有していることを、その絆を確かめるためかもしれない。

 再会の挨拶の後、秋子は三人をいつもの二階の奥の空き部屋に案内した。

「わーい、久しぶり〜っ」

 真琴は真っ先に飛び込んで、隅に重ねられた布団の山にダイブした。

「こーら、真琴っ。おいたしちゃいけません」

 美汐がたしなめるのも聞かず、真琴はごろごろと布団の柔らかい感触を楽しんだ。

「構いませんよ。もうその布団はあなた達専用ですから」 と微笑む秋子。次いで、「お昼ご飯、あがりますか?」

 真琴は、ガバッと体を起こして叫んだ。

「秋子さんっ、肉まんある!?」
「ありますよ」 当然のように答える。
「わぁーい、肉まーんっ!」

 真琴は大人達の膝の間をすり抜け、大きな足音を立てて廊下を走ると階段を駆け下りた。
 いや、本人は駆け下りるつもりでいた。

 ごろごろごろごろごろごろごろころごろごろーーっっ!!

 どすんっ!!

「…」

 二階の三人は顔を見合わせると一斉に吹き出した。





 ようやく娘が寝ついたのを見届け、更に10分ほど監視して本当に起きてこないことを確かめると、美汐は居間に戻って来た。

「よう、久しぶりだな」
「20分前にも居ました」
「そうだったか?」
「…もう酔ってるんですか?」 美汐は夫の顔を覗きこんだ。
「酔っちゃいるが、今のは冗談だ」
「そうですか。あなたはこちらに戻ると、いつも泥酔されるから」
「構いませんよ。美汐さんもたまには羽目を外されたら?」 と秋子。
「そ、そんなわけには行きませんっ」

 祐一はとろんとした目でしどろもどろの妻を視界の隅に捉え、ニヤリと笑った。

「お前は相変わらず引っ込み思案だからな。たまには酒の力を借りて喋ったらどうだ」

 どうしてこう無神経なのだろう。
 美汐は眉を逆立てて夫の耳を掴み、そこに叫んだ。

「勝手なことを言わないで下さいっ」
「うわっと、と、と。こぼれるだろうが」
「知りません。まったくもう…」
「ふふふ」 秋子は二人の様子を眺めて微笑んだ。「二人とも、相変わらず照れ屋さんですね」
「は、はぁ…」

 二人はずばりと言われてしまい、言葉も無く顔を赤らめた。
 秋子は自分と、ついでに美汐の分の飲み物を作ってテーブル越しに寄越した。
 美汐は恐縮しながらそれを受け取り、口をつける。

「俺と秋子さんはともかく、お前もスコッチがいけるようになるとは思わなかったよ」
「あなたに鍛えられましたからね」
「最初はビールも危なかったのにな」
「最初は匂いで駄目でした」

 美汐は顔をしかめながらグラス越しに二人の顔を見る。
 そう、私だって色々可能性はあるんです。
 負けられません。

「秋子さんはお変わりありませんか」
「ええ、元気ですよ。たまには名雪も帰ってきますし、何とかやってます」 肩をすくめる秋子。
「お仕事のほうは続けられてるんですか」
「そうですね。最近は時間が不定期ですけど、まだ声はかかりますよ」
「それじゃ、空いた時間はどうしてるんですか?」 と今度は祐一。「何か趣味でも作りました?」
「ふふ、それは秘密です」
「あははは。相変わらずミステリアスですね」

 祐一は笑い声を立てた。
 何せ、未だに彼女の仕事を知らないのだ。
 祐一にとって、秋子は謎に包まれた存在である。
 だが、ミステリアス、という言葉に秋子は少し後悔の表情を浮かべた。

「本当は…、何もしてないんですよ」 秋子は心持ち首を傾けた。「何かしなければ、って思うんですけどね。でももう…、するべきことは全部し終えた気もしますし」
「そうですか…」

 と祐一は弱々しく呟いた。
 祐一は、全てを把握しているように見える秋子に対して、中途半端な言い方は出来ないと思った。
 多少は秋子の境遇が理解できるので、ますます口を出せない。
 だが、美汐はそれでは収まらない。

「でも、秋子さんなら、何かあるはずですよ」
「そうでしょうか…」
「そう思います」 不思議な確信を込めて、美汐は繰り返した。「私は、そう思います」

 秋子は、くすり、と笑いを漏らし、手に持ったグラスを美汐のグラスに軽く合わせた。

「それじゃ、それを願うことにしますね」

 美汐は顔を赤らめて、もごもごと口の中で何かつぶやいた。
 何だか浮き上がった感じで恥かしい。





 その後、彼らは様々な話題を話し合った。
 東京で嫁いだ名雪のこと。
 信じがたいことに出張先の国籍を取って居座ってしまった祐一の両親のこと。
 美汐の実家の経営する動物病院の話。

 そして、最後には、やはり真琴の話題になった。

「どんどん似てきますよ」 と祐一は感慨深げに言った。「割り切ったつもりでも、時折恐くなります」
「あなたは、自分のお腹を痛めていないから」 美汐はグラスから一口飲んで、言葉を続けた。「あの子は私の生んだ子、あなたと私の子です」
「ええ、勿論そうですとも」

 嬉しそうに同意する秋子に、祐一は苦笑いで答える。

「分かってはいるんですがね。でも夕べなんか、夜中に起き出して階段を転げ落ちた挙句、こう言うんですよ。『恐い夢を見たの。パパとママがどこかへ行ってしまう夢』ってね。恐いでしょう」

 秋子は優しく首を横に振った。
 噛んで含めるような口調。

「私は、あの子の心があなた方に真琴を授けたのかもしれないと、本当に信じていますよ。でもね、その夢は子供が大抵何度も見る夢です。その場に居合わせて慰めてあげられたのは、むしろ幸運ですよ」
「そうかも知れませんけどね」

 祐一には分からなかった。
 理屈を信じることだけでは、心の闇に巣くう漠然とした不安を完全に拭い去ることは出来ないから。
 それでも秋子の言葉は祐一の心に染み入って、彼の心の弱い部分を暖かく支えてくれるのだった。

 そして酔いが回ると、いつしか祐一は忘れ得ぬ時間の記憶を、あたかもこの家のあの部屋のように、普段はぴったりと閉じてある心の奥の部屋を解放する。
 やはり真琴と呼ばれたもう一人の少女。
 健気な心を、拗ねた行動の影に隠していた優しい少女。
 自らの命と引き換えに、祐一と共に過ごす僅かな時間を選んだ少女。
 目を閉じると溢れる熱い涙が、今もまだその思い出が鮮烈な印象を保ちつづけていることを彼に教えた。

「あいつは幸せだったのかな」

 それは合言葉だった。

「幸せでしたよ」

 二人の女性は愛情を込めて答えるのだった。





「パパ、頭イタイのーっ?」
「痛いぞ。物凄く痛いぞ。だから、騒がないでくれぇ」

 祐一はその言葉を裏付けるように、苦悶の表情を浮かべた。

「あんなに飲むからです」

 その妻は言葉少なに言った。
 だが、その表情も余り冴えたものではない。

「あぅーっ。何だかパパもママも元気無いね。なっさけないなぁー」
「パパは疲れたよ。真琴、パパをおぶってくれ」
「ぎゃーっ! 重いよ、パパぁ!」
「だから、バカな真似はしないで下さいっ! …っつぅ…」

 美汐は自分の叫びが頭の中に巻き起こした予想以上の痛みに、数秒間全身をこわばらせた。
 全く情けない。
 夕べのささやかな宴会は、物悲しくて、それでいて暖かくて、何だか闇雲にお酒が飲みたくなるような気分だった。
 で、気付いた時には限度を超していた。
 何とか体裁を保ったまま布団に辿り着けて良かった、と密かに胸をなでおろす。

「そんなんで行けるのーっ?」
「おう、パパは這ってでも行くぞ」
「言っておきますがママは這いません。歩いて行きます」

 …素直でないのは私でしょうか。
 と、美汐は自分に問い掛けた。
 這ってでも行きたいのは私も同じです。

 わずかに逡巡した後、美汐は言った。

「パパは這っていきますか?」
「いや、真琴におぶさっていく」
「ぎゃーっ、重いーっ!」
「じゃ、ママもおぶさりましょうか」

 真琴は覆い被さった祐一の肩の下から、大きな目を更に見開いて母親を見た。
 美汐はにっこり笑っている。
 うっそ、ママ本気?

「ええっ!? そんな、真琴つぶれちゃうよぅーっ」
「真琴、パパもママも何だか疲れたから、連れて行ってちょうだい」
「うっそーっ! ママがおかしくなっちゃったよーっ!」
「真琴は相変わらず失礼ですね。私はおかしくなんかありませんよ」 口調は穏やかだが、顔が笑っていない。
「ママを怒らせない方がいいぜ。おっかないからなぁ」
「無理だってばーっ! つぶれるぅーっ!」

 美汐はくすっと笑いをもらしながら、夫がどうして真琴に絡むのか、何となく分かった気がしていた。





 三人は、ものみの丘へやって来た。
 既にこの街へ来た時の恒例行事となっているので、幼い真琴ですらほとんどの道順を覚えていた。
 日当たりの良い草原は、真琴にとって格好の遊び場だった。
 野生に戻ったような娘が小鳥を追って全力疾走している間、その両親は草の上に寝転んでいた。
 そこでぼうっとしていると、二日酔いもゆっくりと癒されていった。

「あったかいですね」
「ん」

 妻の呟きに祐一は相槌を打つ。
 高いところにすじのような雲を残して、少し色の薄い青空が広がっている。
 草地は適度に温度を保ち、ぼんやりと時間を過ごすには最適の環境だった。
 二人は遠慮無くぼんやりと時間を過ごした。
 ただ、吹き渡る風を、そよぐ草の音を、流れる雲を、遠くに聞こえる娘の声を感じていた。

「春、ですね」
「ん」

 風が柔らかく二人の頬を撫でた。
 美汐は乱れる自分の前髪を、目を寄せて見つめた。
 ふぅっ、と口で吹いてそれを跳ね上げる。
 また風が吹いて、今度はもっとくしゃくしゃになった。
 ふと気付くと横から奇妙な顔で自分を見つめている夫がいて、自分が真剣な表情で遊んでいたことが突然恥かしくなった。

「あんまり見ないで下さい」
「そう言うなって」 祐一はおかしそうに笑った。「お前がそんな顔してるのは珍しいからな」
「そんなに変な顔でしたか」
「いや、変じゃない。無邪気な顔」
「子供っぽいってことですか」
「ま、おばさんっぽいよりマシだろ」
「マシはマシですが、余り嬉しくありません」
「可愛い顔ってことだよ、血の巡りの悪い奴だな」

 祐一は苦笑すると、妻の額に軽くキスをした。
 美汐は顔面を紅潮させ、そっぽを向いた。
 それを見て、祐一はまたひとしきりクスクス笑いをする。





 太陽が幾らか傾き、空の色が深くなった。
 風が少し弱まる。
 夜になるとまた寒い風が吹き出すことを二人は知っているが、その時にはまだ遠い。
 娘はいつしか遊び疲れ、母の脇でこっくりこっくりと舟をこいでいる。
 母もまた、甘いまどろみに踏み込みかけていた。

「こんな家族が居てもいいよな」

 唐突な祐一の声に、美汐は夢うつつの状態から目を覚ます。

「こんな不思議な家族、ですか」
「こんな幸せな家族、さ」

 祐一は空をじっと見つめたまま、何かを考えていた。
 美汐はそんな夫から視線を外し、自分も隣で空を見上げた。
 様々な小さな音が生きていた。
 時折街の方角から運ばれてくる、車の音や、電車の音。
 小鳥のさえずり。
 草の擦れ合う音。

「俺は、お前達が大好きだ」
「どうしたんですか、あなた」
「俺はこの丘に、その再確認のために来ているんだと思う」

 自分の気持ちを喋っているようにも、そう信じようと決心しているようにも聞こえる。

「真琴は、あいつの生まれ変わりかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、俺にとって一番大切なのは、あいつから貰った気持ちさ。俺達はみんな、あいつを大好きだった。あいつも、ずっと人の温もりを欲しがっていた」

 しっかりとした声で、祐一は誓いを立てるように言葉を重ねた。
 そして、妻の声がそれに唱和する。

「あの子は、暖かい子でしたよ。私はあの子が大好きでした。あの子は私を慕ってくれました」

 夫は更に言葉を続ける。
 想いを強くするために。
 心を共有するために。

「あいつの気持ちを覚えているから。あいつから貰った気持ちを覚えているから。だから俺は、お前も、真琴も、大好きだ。お前の中にだって、あいつのくれた気持ちと同じものを感じる。俺はお前と一緒にいたい。真琴と一緒にいたい。その気持ちの中で、俺はあいつと一緒にいる」
「私だって、あなたと一緒にいたいです。あの子がくれた、あの暖かい気持ちを忘れません。今度は私が真琴と、そしてあなたにあげる番。あの子にあげる番」

 即席の誓いの言葉を終えて、美汐は熱っぽく潤んだ目で夫を見つめた。
 祐一はそれに応えて、二人は長い長いキスを交わした。
 精一杯の愛情と、去って行った少女から受け取った想いを乗せて。
 この気持ちを、いつか真琴に伝えよう。
 やがてそれは世界中に広がるだろう。





 夕刻が近づき、二人は真琴を揺り起こした。
 真琴は帰り際、毎回の習慣通り、丘一杯に響き渡るような甲高い声で叫んだ。

「また来るからねーーーーーっ!!!」

 そうするといつも、まるでその声に応えるかのように一陣の爽やかな風が吹き渡るのだった。





「あ。あれ、やりましょうか」

 と、帰り道、暮れなずむ街角で美汐が道端の機械を指差した。

「お、いいねぇ。まだあるんだな、ああゆうの」
「えー、なになにー?」
「写真を撮る機械だ。魂を抜かれるからやり過ぎに注意」
「えーーーーっ!?」
「…祐一さん?」
「嘘。前言撤回。今の無し。キャンセル」

 祐一は慌てて両手を上げた。
 美汐は念の為にもう一睨み。
 全く、この調子だと真琴が次に何を覚えるか、気が気で無い。

「パパのうそつき。で、結局何なの、これ」
「写真を撮るのは本当ですよ。ほら、こういうシールになるのね」 と美汐は娘にサンプルを指し示した。
「あ、面白ーいっ。やろっ、やろっ」
「よーし、じゃ、これを投入口に入れるんだ」 祐一がコインを持たせる。
「うーー、届かないぃぃっ。あっ、ありがと。うん。届いた。で?」
「えーと、フレームを選ぶのか? どれかな。これにするか」
「それじゃ、真琴はこの台に乗ってね」
「わーい、真ん中、真ん中ぁ〜っ。ねっ、パパもママももっと近寄ってよっ」
「書き文字も入るな。良し、じゃあ、っと」

 祐一は思い出の言葉を、ちょっぴり変えて書き込んだ。

『相沢家一同 20XX.6.1』

 懐かしいな。

『こんなものは、適当にやれば合ってるんだよ』

 あの頃の自分の声が聞こえてくるようだった。
 もうすっかり変わってしまったけれど、心の中のどこかに残っている。
 あんなに必死だった自分がいるからこそ、今こうして幸せをかみ締める力がある。
 俺達が大好きだったお前。
 お前を本当に近くに感じるよ。
 いつまでも、見守っててくれよな。

「じゃあ、撮るわね」 と美汐。
「おう」
「真琴もいい?」



 うんっ





09/28/1999 Suikyo