『予感』




 ある初夏の日。その平凡な中年男が、祐一の心をがらりと変えたのだった。祐一は彼について何も知らなかったが、それは問題にはならなかった。出会いとも呼べない小さな関わりが、時に大きな力を持つ。




 祐一とあゆの喧嘩は珍しいことではなかったが、その日は様子が違った。
 最初は普段のじゃれ合いのつもりだったそれは、終わってみれば今までに無いほどの決定的な何かを二人に残したのだ。

 祐一は大学の工学部を卒業すると、そのまま街の中心部にオフィスを持つ小さな計測機器会社の営業兼総合職に着いた。実力のある小規模な会社の常としてクライアント獲得は社員の生命線であり、祐一は有望な若手としてこき使われ、家に戻るとそのままベッドへ直行というケースもしばしばだった。
 彼は努力したのだが、あゆとの時間はどうしても減って行った。二人はあの冬から何年も、恋人のような親友のような関係を続けていた。公称では恋人同士なのだが、二人とも、何となく心理的にそういう生々しい呼び方はふさわしくない気がしていた。ただ、ずっと二人で生きて行くという決意は固かった。
 あゆは小学校と中学校で一年ずつ学年を飛ばして、今は地元の大学に通っている。
 彼女の方では時間は幾らでも調整できたので、デートの約束は全て祐一の都合に合わせた。
 あゆは明るい笑顔で、そんなの当然だよ、と祐一を安心させていた。
 今日までは。

「でも、これで三度目だよっ」 と、携帯電話から情けない叫び声。
「悪いな、あゆ。言い訳にはしたくないけど、仕事が大変なんだよ、マジで」 祐一は電車待ちのプラットホームで小声で謝った。
「それは分かってるよ。分かってるけど…、うぐぅ」
「おい、泣くなよ。これぐらい、前にもあったろ。埋め合わせは絶対するからさ」
「だって、悲しいよ…」
「お前はタフで明るいのが取り柄じゃないか。みんな誉めてるんだぜ、あゆは偉くなった、あゆみたいにいい子いないってな。だから、泣くなって。俺だって、どうしていいか困っちまうぜ」
「ボクは祐一君に言って欲しい」 その声は携帯電話のノイズに負けてしまうほど小さかった。
「は?」
「何でも無いよ。じゃ、帰りにちょっとだけ寄って行ってよ」
「分かった。それだけなら何とかする」

 数時間後、祐一は先輩社員に頼み込んで仕事の後始末を任せ、スーツのまま、いっさんにあゆの大学を目指した。
 霞のように漠然とした何かが心に巣くっていて、上手く飲み下せないでいた。
 嫌な予感がした。彼の予感は当たるのだ。
 早くあゆに会って、元通りにしたいと思った。
 巨大な校門の脇では、あゆがジュースのストローをくわえながら、地平線に沈みかけた夕日を浴びて植え込みのレンガに腰掛けていた。
 憂鬱そうに通りすぎる車を眺めていた顔は、祐一が駆け寄ると、ぱっと輝く。だが、すぐにそれもしぼんでしまった。

「やっぱり、ちょっと遅いよ」
「仕方ないだろっ」 咄嗟に出た大きな声に自分で驚いて、祐一は慌てて声のトーンを落とした。「ごめんな。でも、これでも精一杯なんだよ。先輩に仕事押し付けちゃったから、明日は大変だ」
「うん、ごめん。ボクがわがままだったね」

 あゆは小さく謝り、えへっと笑って舌を出した。そんな所に良く知った表情を見出して、祐一はほっとした。

「メシでも食うか」
「そうだねっ。お腹すいちゃったよ」

 二人は街の中心街に向かって歩き出した。あゆの歩幅に合わせて、ゆっくりと。祐一は走って来た間にかいた汗をハンカチでぬぐった。
 そして、何か話題をひねり出そうと疲れた頭をフル回転させた。
 自分が悪いのは分かっていたが、とにかく機嫌を直して欲しい。何とかいつもの調子に戻っておけば、次会った時はまた楽しい時を過ごせるだろう。
 祐一は半歩先を行くあゆを何気なく眺めた。

「そう言えば、お前、髪の毛伸びたな」
「あ、やっぱり?」

 分かるかな、と、あゆは目を細め、肩の線より20cmぐらい下まで伸びた自分の髪に触れた。切り揃えられた柔らかい髪は、あゆが歩くリズムに乗って、彼女の背中でさらさらと左右に流れた。タータンチェックのプリーツスカートと一緒に。
 それを見て祐一は、あゆについて時折感じることのある、ちょっとした混乱を覚えた。
 あゆは昏睡から目覚めた時には成長期を終えていたので、体格的には並の女子中学生程度で止まってしまっている。顔立ちはやや大人びてきているが、体は子供と同じようなものなのだ。
 従って、大人と同じ年を経た中学生の肉体に、高校生程度の年を経た大学生の精神が宿っていることになる。
 そんな彼女が伸びた髪をなびかせて振り向き、無邪気に微笑むと、祐一は軽い眩暈を覚えるのだった。

「きれいかな」 とあゆは尋ねた。

 祐一は内心、しめたと思った。結局のところ、こうやって軽くやり合ってるぐらいの関係が、彼にとって一番しっくりくる。

「何が」
「ボク」
「何だ、やぶから棒に。そういうテレビドラマでも見たのか」
「違うよ。ただ聞いただけだよ。ボク、きれいかな」
「そもそも『ボク、きれいかな』っていう字面にすさまじい違和感があるぞ。何だか自意識過剰な美少年に聞かれているみたいだ。取りあえず、ボクっていうのが他の一人称に変わったら考えてやろう」
「ひどいよ。じゃあ、『あたし、きれいかな』」
「ブラウスからジュニアサイズブラを透かせてる奴が言うには100年早い」
「じゅ、ジュニアサイズじゃないもんっ!」
「じゃあ、何カップだ」
「うぐぅ…、意地悪」
「そう言えば、『うぐぅ』は最近減ったな」
「う…、ぅぐぅ…」
「何だか張りの無いうぐぅだな。『ぐ』ばかり大きくて、昔のカレーの宣伝みたいだ」
「…」

 遂にあゆは完全に沈黙し、ぴたりと足を止めた。
 祐一は慌てて振りかえって彼女の小さな顔を覗きこんだ。
 泣いてはいない。ただ、呆然としたような、ふと何かを悟った人間が見せる、底知れない無表情があった。
 彼は唐突に、言い知れぬ、重苦しい不安を覚えた。

「あゆ?」 祐一は慎重に名前を呼んだ。

 あゆは微妙に視線を動かした。焦点が合う。

「うん」
「悪かった。言い過ぎた」
「いいんだよ。ボクがいけないんだよね。いつも通りなのに。祐一君は悪くないよ」
「そんな事は無い。俺が言い過ぎた」

 あゆは首を振った。

「祐一君、ボクのわがままに付き合ってくれてありがとう。今日は遅いから、やっぱりもう帰るよ」
「なぁ、そんな怒るなって――」
「怒ってなんてないよ。ただ、もう遅いから」 あゆは自分の手首の、細いバンドの腕時計を指差して微笑んだ。「またにしよ。祐一君も疲れてるでしょ」
「そりゃあ、疲れてないわきゃないけど、折角会えたんだぞ。メシぐらい食って行こうぜ」
「祐一君」

 彼女は真っ直ぐに祐一の目を見上げた。
 髪が風になびいた。
 子供のように細い肩の上の顔に浮かんだ表情は、紛れも無く真剣な大人のものだった。
 またしても祐一は幻惑されそうになる自分を押さえ込まなければならなかった。

「ボクのこと、好き?」
「決まってるだろっ」
「真面目に考えて。今のボクのこと、好き?」

 それも決まってる、と言いたかった。
 だが、それを簡単には言わせない迫力が、あゆの言葉と瞳にはあった。
 祐一は唾を飲み込んだ。
 考えが上手くまとまらない。

「ボクは祐一君に無理して欲しく無いよ。だから、ちゃんと考えて答えてね。待ってるから」
「おいっ」
「答えが出たら教えて。――それじゃ、ボクはこっちだから」

 四つ角の信号を渡って、あゆは去って行った。
 その後姿を見送りながら、祐一は自分の心の中の霞が、今や濃霧となって何もかもを押し隠し、全てを麻痺させようとしているのに気付いた。





 祐一は一人住まいのアパートの部屋に戻ると、上着を脱ぎ、ネクタイを外してベッドに倒れ込んだ。頭の後ろに手を組んで、天井を見つめながら考える。

『ボクのこと、好き?』
「好きに決まってるだろ」

 自分で口にした言葉は虚空に吸い込まれ、ちっとも自分を力づけてはくれなかった。

『今のボクのこと、好き?』

 あゆの真剣な表情。こちらの心を見透かすような目。
 その目に見つめられると喉がカラカラになって、何かを言わなければ、何かしなければ、と唐突にスポットライトを当てられたサーカスの素人団員になったような気分になる。
 いつの間にあゆはそんな風に俺を見るようになったんだろう。
 いつから俺は、あゆとのデートに違和感を感じるようになったんだろう。
 どうして俺は、答えを見つけられないのだろう。

 ふと祐一は、自分の中にあって心を包み隠そうとしている霧の正体に気付いた。
 それは恐怖だった。
 俺は、何かを恐れているのだ。

 恐れている? 何を?
 祐一は憑かれたように自問を繰り返した。
 あゆを恐れている?
 俺の心を、俺が考えまいとしていることを、あゆに知られてしまうことを?

 違う。
 それが白日の下にさらされることを、何より自分が気づいてしまうことを恐れている。
 俺は、自分の心を恐れている。
 その事実を。

 祐一はなおも逃げ道を探してさまよった。そんなことは絶対にあってはならないのだ。
 嘘だ、と叫びたかった。そんなものは、まやかしだ、と。
 だが、どんなに考えを巡らせても、どんなに力づくで否定しようとしても、最後にはその薄ら寒い結論に至ってしまうのだった。

 母を亡くして一人で泣いていたあゆ。たい焼きを頬張って、俺に笑いかけていたあゆ。
 俺がずっと忘れていた間、7年間も覚めない夢の中で待ちつづけた、あんなにも健気だったあゆ。
 そして、自分が消えてしまう運命を悟り、自分を忘れてくれと願ったあゆ。

『今のボクのこと、好き?』

 そのあゆの、疑いと、恐怖と、どこか悟ったような諦めを込めた眼差し。あの眼差しが、心の闇に描かれた秘密の文字をあぶり出す。

 あゆを想う気持ちが、薄れてきている。





「ありがとう、今まで付き合ってくれて」 と、あゆ。「っていうのは、あっさりし過ぎかな…」

 彼女もまた自宅のベッドに転がりながら、何事かぼそぼそと独り言をつぶやいていた。

「たい焼き、美味しかったよ。…っていうのも…何だか…ちがうし」

 ごろり、とまた寝返りを打ってうつぶせになり、頬杖をつく。伸びた髪の毛が首と言わず肩と言わず巻き散らかっている。

「何て言えばいいんだろう、難しいよ」 あゆはため息をついた。「でも、祐一君の負担になりたくないし、やっぱりボクが頑張らないと」

 そして再び思いついた台詞を口にしては、自分で批評を下し始めた。
 心を強く持って、そして何とか祐一を傷つけずに、自分から身を引くような台詞を考えよう。

 最初に何か変だと気付いたのは、いつだったろう。あゆには、はっきりとは思い出せなかった。
 ただいつの間にか、祐一の言葉が、気持ちが、自分の頭の上を通り越して、どこか知らない存在に吸い込まれて行くようになっていた。
 祐一君は気付いてないのかな、とあゆは思った。
 祐一君、今、ボクを見てないんだよ?
 本当のボクと話してはくれないの?

 不吉な予感が心をよぎるようになった。
 だんだん祐一が自分と離れて行ってしまうのではないか。ひょっとして、もう自分のことを好きでは無いんじゃないか。このまま、別れることになるんじゃないか。
 あゆには、自分がふられるという想像の根拠がありすぎるほどあった。指折り数えることが出来るぐらいだ。
 最も大きな理由が三つあった。心の中で挙げてみる。

 一つ目。ボクの体は、機能的には大人だけど、見かけは子供だ。おばあちゃんになるまで、ずっと。これは冗談ごとじゃなくて、きっと男の人には大切なのに違いない。

 二つ目。同じ理由で、つまり7年間の昏睡のせいで、ボクは同年代の女の子と同じような、体の成長に合わせた経験ができなかった。だからボクは心のバランスが今でもおかしい。きちんと祐一君に合うような恋愛が出来ているのか、ボクには自信が無い。

 三つ目。ボク達の出会いは劇的過ぎた。きっとこれは祐一君に対してフェアじゃない。

「うぐぅ…」 あゆは枕に突っ伏した。

 あゆにとって、三つ目の事実が一番恐かった。
 自分の事故と一連の事件に対する負い目が、優しい祐一を縛り付けているのかもしれない。
 口ではそんなことは決して言わないが、祐一が7年間もあゆのことを忘れていたことを悔やみ、そして奇跡的に目を覚ますことが出来たあゆに対して一種の誓いを立てていることを、あゆは敏感に察していた。
 あゆは祐一が好きだ。
 でも、義務感で一緒にいてもらうことは出来ない。そんな風に、祐一を自分の好き勝手にすることは許されない。

 だから、聞いてみた。

『今のボクのこと、好き?』

 それを聞いた祐一の表情が、あゆの心を決めさせた。

「祐一君。ボクは大丈夫だよ。ボクは一人で頑張れるから」

 枕から顔を上げて、どうやら笑顔らしきものを浮かべた。





「私は楽しい祐一さんと遊ぶために電話したんで、祐一さんの顔をした幽霊と街をうろつくために電話したんじゃないんですよ」

 と栞は眉をしかめて言い放った。
 だが、向かいに座る祐一は、うん、と曖昧に相槌を打ってみせるだけだった。
 栞はため息をついた。

「『言うことが香里に似てきたな』とか何とか、一言あって然るべきじゃないんですか」
「うん」
「はぁ…。誘うんじゃありませんでした。調子が悪いなら遠慮無く断ってくれて良かったんですよ」

 祐一は僅かに顔を上げて答えた。

「ごめんよ。別に調子悪いってわけじゃないんだ」
「どうせ、あゆさんと喧嘩したんでしょう」

 栞は肩をすくめて何気なく言った。
 祐一は答えなかった。その顔に翳りが差し、栞は自分の軽はずみな発言を後悔した。
 彼女はテーブル越しに手を伸ばし、祐一の腕を軽く掴んだ。

「ごめんなさい、祐一さん」

 彼は目で、いいよ、とその謝罪を流した。
 栞は雰囲気を変えようと、冗談のつもりで言った。

「祐一さんが寂しいなら、いつでも呼んで下さいね」

 ところが祐一は顔を上げて栞の瞳をじっと見つめた。栞は自分が裸になったような気分になって何だか落ち着かなくなった。
 祐一は視線を栞から外さずに、ぼそりと呟いた。

「それも…、いいかも知れない」

 栞は絶句した。
 そして、ようやっと言った。

「そんな事言う人…、嫌いです」
「ごめん…」

 二人は沈黙した。

 栞はその日の昼食に、祐一を新しく出来た安いフランス料理店に誘っていた。
 彼女は健康不安と不景気を理由にまともな就職を最初から諦め、香里が始めたライター活動の手伝いをしたり、アルバイトを重ねたりして暮らしている。そんなわけで、大学卒業からは余り濃密な交友関係は無い。大学時代にも友達を何人か作ったが、やはり栞にとって一番気のおけない友達は高校の頃に知り合った人達であるように思った。姉である香里の友人達も、栞の大切な友達だった。
 だから祐一を誘ったのだ。
 二人の間にはほとんど秘密も無く、会話と言っても余り話すことなど無いのだが、一緒にいると楽な気分になれた。それは彼らにとって貴重な時間で、二人ともそれを大切にしていた。

 祐一は、いみじくも栞が指摘した通りの幽霊のような働きぶりで午前中の仕事の大半を更に混乱させ、昼休みになると先輩社員の冷たい視線をものともせずに会社を抜け出した。
 一睡もしていない彼の頭の中は、暗い考えでぐちゃぐちゃになっていた。
 俺達は元には戻れないのか。
 どうして俺はあゆを好きだと、心から言えなくなってしまったのか。まさか…、飽きてしまったのか。――それは無い。そうかもしれない。分からない。
 凍り付いていた時を溶かして二人で歩き始めた時から、こんな運命が始まっていたのか。時間が流れるというのはそう言うものなのか。止まっていたから、二人でいられたのか。
 子供の頃は良かった。二人で『学校』にいる時が、一番楽しい時だった。ただ一緒にいるだけで幸せだったのだ。そんな単純な幸せは、俺達にはもう手に入らないのか。必死で思い込んでいないと切れてしまうような、そんな弱い絆だったのか。俺が信じたものは一体何だったのだろう。
 あゆに何て言えばいい。
 もう好きじゃないんだ、とでも言うのか。あるいは、大好きだ、などと。

 絶対に別れたくないという思いと、このままの、まやかしの関係ではいられないという思いで、彼の心は引き裂かれそうになっていた。
 彼は気持ちを貫くことの出来ない自分を責め、軽蔑した。
 栞の電話を受けた時、彼の思考はもう麻痺していた。ただ、そんな風に堕落して行くのが、自分にはお似合いかもしれないと感じた。

 だが傷ついた栞を見て、そこに自分の浅ましさを見て、祐一は暗澹たる気持ちになった。そんな風にしてはいけなかったのだ。
 再び心が激しく揺らぎ始めた。
 その揺れは、答えを求める気持ちが強ければ強いほど、より一層激しいものになった。

 これが。
 これが、終わりというものなのか。





 その時、祐一はその男を見たのだった。




◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇




「ちょっと、ゲームをしませんか」

 栞が、小ぶりなガラスの器に乗ったアイスクリームをつつきながら、言った。
 祐一は思考を中断され、顔を上げた。
 栞は全面ガラスのウィンドウの外を見ていた。彼もそちらを向いた。ガラスに書かれた店の名前が裏返しに見える。

「あそこに、男の人がいるでしょう。ほら、道の向かい側。あの木のそば」
「ああ」
「ずっとあそこで誰かを待ってるんですよ。だから、誰が来るか、当てて見ませんか」

 栞は探るような目つきで祐一を見た。
 祐一はそれには気付かずに、じっと窓の外の中年太りの男を観察した。腕に脱いだ背広をかけ、直射日光を避けて木陰に避難しているが、それでもしきりに扇子であおぎながら優しい丸顔の額に浮かぶ汗を拭いている。一分おきにきょろきょろと周囲を眺めては、待ち合わせ相手を探し、待ち合わせ場所が間違っていないか確認している。時計を見ないところを見ると、時間にはこだわっていないのか、それともとっくに時間を過ぎているのか。顔立ちにも、背格好にも、これと言って特徴の無い平凡なサラリーマンだった。
 俺もあんな風になるのかな、と祐一はぼんやりと思った。仕事の問題じゃない。例え何か他に生きがいを見つけても、結局のところ人間っていうのはそういう生き物だ。段々年を取って、中年になって、老人になって、死んで行く。そういう意味では、生まれながらにして人間は凡庸な生き物なのだ。

「愛人、かな」
「わっ、大きく出ましたね」
「仕事関係で、ああゆう待ち合わせの仕方はしないだろ。奴はこれから愛に生きる決心をしたのだ。二人の仕事場からも離れ、駅のように人が集まるところも避けて待ち合わせ、会えたらすぐにタクシーに乗ってどこかへ行くんだな」
「わー、まるで見てきたようですね」
「俺は千里眼だからな」

 栞はくすっと笑った。やっと少し調子が出てきたようだった。例え本質的な解決でなくても、一時気を紛らわしてくれるならそれでいい。それが自分の役目だ。

「私は奥さんだと思いますよ」
「下らん」 祐一は鼻で笑った。
「何でですか〜。きっと奥さんですよ。多分、慣れないデートで緊張してるんです」
「緊張してるっつーか、おどおどしてる、って感じだぞ」
「じゃあ、きっと恐い奥さんなんですよ」

 二人は少し言い争って、それから男の待ち合わせ相手が現れるのをじっと待った。

 だが、相手はなかなか現れなかった。
 男も、そして二人も焦れた。
 昼休みの時間を過ぎようとしていたので、祐一は会社に電話をかけ、休みを取った。いずれにしろ、今日の調子では仕事になりそうに無かった。それなら、いっそ顛末を見届けておきたい。
 二人は飲み物を追加注文し、そして待った。
 男も自販機でジュースを買い、飲んだ。
 再び扇子であおぎ、ハンカチで汗をぬぐい出す。
 祐一は唇を噛んだ。
 その時、唐突に男は、ぱっと顔を明るくして立ち上がった。

「あっ、来ましたよ、祐一さんっ」

 栞は好奇心に瞳を輝かせて小さく叫んだ。
 祐一は顔を巡らせて男の待ち合わせ相手を探した。

「何だよ、おい」
「わっ、びっくり。全然違いましたね…」

 それは高校生ぐらいの若い男だった。
 短い髪を逆立てた今風の髪型で、ジーンズにTシャツのラフな格好。手を振って駆けつけると、二人は親しそうに話を始めた。

「残念、二人とも外れだな」
「えっ、愛人じゃないんですか」
「愛人でたまるかっ!」
「えへへっ、そうですね〜。多分、親子ですよね」
「そうか?」
「似てるじゃないですか、あの二人。目の辺りとかそっくり」

 祐一は注意深く二人を眺めた。確かに、言われてみれば良く似ている。顔の造作だけでなく、仕草も時折おやっと思わせるものがある。

「でしょう」
「ああ」

 祐一は曖昧にうなづいて、なおも二人を観察した。彼らのどこかに、心引かれるものを感じたのだ。だが、それが何かは分からなかった。二人は良く似た顔で、しかし二周り以上も違う年齢で、会えたことを嬉しそうにして話をしていた。若い方はジェスチャーを交え、年を取った方は笑顔を絶やさなかった。
 二人は全く違う人間だ。それが何だか不思議な気がした。そして二人は良く似ていた。それがまた不思議なのだった。
 やがて二人は連れ立ってどこかに歩き去った。

 栞は黙ってのんびりと紅茶をすすった。どうせ今日は予定も無いのだ。
 祐一はテーブルに向き直ったが、まだ二人のことを考えていた。何かが気になった。あの二人は、自分に何かを教えているような気がした。

 その意味が分かった時、祐一の中で何かが消えた。

「栞」
「はい」
「ちょっと付き合って欲しいところがあるんだ」





 公園の常夜灯の照らし出すベンチに祐一を見つけ、あゆは足取り重く近づいた。それに気付いて祐一は片手を挙げ、傍らに書類挟みを置いて立ち上がった。
 あゆは祐一の正面に立った。
 夏の始めの夜は暖かく、これからの話題にふさわしいとは思えなかった。
 こんな気分には凍え死ぬような冬の寒さの方が似合う。そうだ。ボクは元々雪の中で死ぬ運命だった。

「留守電、聞いたから」 あゆは言った。
「こんな時間に済まないな」
「いいよ」 あゆはうつむいた。覚悟を決めなきゃ。練習したんだから。「答え、見つかった?」

 祐一はゆっくりと言葉を選んで言った。

「長い間、俺は勘違いしてたよ。ずっと昔と同じようにいられると思ってた」
「…」
「何もしなくても、二人でいれば楽しいんだろう、って」
「うん」

 あゆは暖かい空気の中で、自分の手がどんどん冷たくなって行くのを感じた。
 恐くなって、両手を握り締めた。

「時間は流れているのにな」
「そうだね…」

 祐一は、一呼吸置いた。

「潮時かな、って思うんだよ」

 あゆは文字通り言葉を失った。

 こんな風だとは。
 こんな生き地獄を味わうとは思わなかった。

 心臓をわしづかみにされる。鼓動が止まった。
 初めて、その臓器に痛覚があることを知った。
 あゆの心臓は今や氷よりも冷たい鉛の固まりとなって、小さな体をどこまでも暗黒の底に引きずり落とそうとしていた。
 全身が濡れるような感覚がした。
 汗? それとも幻覚? もう、あゆには何も分からなかった。
 頭の中に冷水が流し込まれて、何もかもが麻痺して行く。
 暗闇が立ち込めて視界が狭まる。果てしの無い落下の感覚。首の後ろ辺りの産毛が逆立つ。
 手を伸ばして必死に何かに掴まろうとした。
 祐一のシャツが指先に触れ、あゆはそれを命綱のようにしっかりと握った。それでも細い腕は壊れたおもちゃのようにぶるぶる震えた。震えているのは全身? それも分からない。

「うそ」

 そのしわがれた声が自分の発したものだと気付くのにしばらくかかった。
 喉がひりひりと痛かったが、全身を絞り尽くすような苦い痛みの方がずっと苦しかった。きゃしゃな体が壊れそうだった。

「考え…直してよ」

 ボクは、こんなことを言うはずじゃなかったのに。
 あゆは情けなく思った。
 きつく閉じられたあゆの目から涙が流れだし、くっきりとした細い顎の線を伝って、ぽたぽたと地面に落ちた。それは際限なく続いた。
 ボクは大丈夫、って言うはずだったのに。
 こんなことを言うつもりじゃ…

「ボク、祐一君無しじゃ…、えぐっ、…う…うぅ」
「おい」
「ボクは馬鹿だったよっ!」 あゆはこらえ切れずに祐一の胴に腕を巻きつけ、彼のシャツに顔を押し付けて泣き叫んだ。「あんなこと言うんじゃなかったよっ! こんな…、こんなの、耐えられないよ。どんなに迷惑でも、やっぱり祐一君に居て欲しいよっ!」
「あゆ、落ち着けって」
「こんなこと言うつもりじゃ…うぐぅ…無かったんだよっ。祐一君を自由にしてあげようと思ってたのに。…だけど。…だけどぉっ」

 祐一は何も言わず、泣きじゃくるあゆの肩を優しく抱いた。
 片手で乱れた髪の毛を梳いてやる。
 その間もずっとあゆは小さく呟き続けていた。

「ごめんなさい…、ごめんなさい…、ごめんなさい…」

 祐一は肩に回した腕に少し力を込め、あゆの頭に自分の頬を重ねた。そうすると、あゆの震えが全身で感じられた。それが小さくなって、やがて時折散発的に起きる発作のようなものになるまで、祐一はじっと待っていた。





「少しは、落ち着いたか」 と、祐一。
「うぐぅ…ごめんなさい。祐一君。ボク――」
「何を勘違いしてんだ。俺は何も、これで終わりだなんて言ってないんだけどな」
「え?」
「まぁ座れって。今にも倒れそうだぞ」
「うぐぅ…」

 二人はベンチに腰を下ろした。だがあゆは再び祐一のシャツを掴んで、その手を離さなかった。離そうと思っても、手が言うことを聞かないのだ。既にシャツのその部分は皺くちゃになっている。
 祐一は脇に置いてあった書類挟みから小箱を取り出した。

「開けて見ろよ」
「え」

 あゆは戸惑いながらも涙を拭き、片手で不器用に箱を開けた。
 そして閉めた。

「うそだよ」
「は?」
「これは夢なんだよね? 祐一君も本当はここにいなくて、ボクはベッドの中で悪い夢を見てるんだよね?」
「都合のいい夢だな…」
「だってこんな…。どうして? ボク、一生懸命心の準備をして、でも全然足りなくて――こんなの変だよっ」

 ぽかっ、と祐一は無言であゆの頭をはたいた。

「うぐっ。イタイよ、祐一君!」
「夢だったか?」
「夢じゃないよっ。…でも夢だよっ」 あゆはまた涙を溢れさせた。「わかんないよぅっ。どうして? こんな綺麗な指輪。祐一君はボクが嫌いなんでしょ? ボク、祐一君を縛り付けたくないよっ」
「俺は今のあゆが好きだ」
「えっ?」 あゆは呆然と祐一を見上げた。そして、顔を歪める。「うそは駄目だよ。そんなうそ、嬉しくないよ」
「うそじゃない。本当は俺が馬鹿だったんだ。恥かしいよ。いつまでも、お前が昔のままでいるような気がして――なまじ、体つきが子供のまんまなもんだから――お前だって俺と同じように流れる時の上を生きる人間なんだってことを忘れていたんだ。昔の俺達にこだわって、いつの間にか本当のお前が分からなくなっていた」

 あゆは、未だにこれが夢であることを恐れているかのような無表情で、丁寧に紡がれる祐一の言葉を聞いている。その語り聞かせるような調子から、祐一がどれほど自分を伝えようと苦吟しているのかが伝わってくる。

「お前はちゃんと成長していたのに、馬鹿な俺は受け入れられなかったんだ。本当に済まなかった。今はもう、そんなことは無い。確かに、もう俺達はあの頃の俺達じゃない。誰だって変わるんだ。それでも――」 一旦言葉を切り、そして続けた。「今でも俺は今のあゆが大好きだ。愛してる」
「ほんとう? 信じて…、信じていいの?」
「本当だ。もう一つ言おうと思ってたことがあるんだ」
「何?」

 祐一はあゆの顔を正面から見つめた。

「きれいだよ」

 そして忍び笑いをもらす。

「って言おうと思ったんだけどな。ダメだこりゃ。滅茶苦茶な顔だぞ」
「うぐぅっ!」 あゆは祐一の胸に飛び込んだ。「意地悪っ!」
「ははっ。俺だって辛かったんだぜ」

 二人は久しぶりの互いの温度を確かめるように抱き締めあった。祐一は、ずっと感じていたわだかまりや、違和感がウソのように消えていくのを感じていた。そうだ。もう昔の俺達を捨てる時期に来ているんだ。だが、それがどうした? こいつは、確かにここに居てくれるじゃないか。全ては変わっていくけれども――…
 あゆが、顔を祐一のシャツにうずめたまま、喋り出した。口の動きと吐く息の湿り気が肌に伝わって、少々くすぐったい。

「あのね、祐一君。ボク、こんな体のままだよ。ちょっとぐらいは変わるかもしれないけど、普通の人が見たら変に思うよ」
「構うもんか」 祐一はニヤリと笑った。「俺はロリコンなんだ」
「…何だかフクザツだけど、前半は嬉しいかな。それと、ボク、やっぱり他の人に比べたらちょっと変だと思うよ。祐一君が期待するような女の人になれないと思うよ」
「大丈夫だ。始めから期待してない」
「…ますますフクザツな気分だよ。あとね、これが一番大事なんだけど」 あゆは顔を半分持ち上げて、上目遣いに祐一を見た。「祐一君。ボクのことを引け目に感じないでね。ボクはもう普通に生きていけるんだから、もし祐一君が――」

 祐一と目が合った。あゆは口をぱくぱくさせて、言葉を続けようとしたが、どうにも言えない。

「うそだな」
「えっ」
「さっき、散々『祐一君に一緒にいて欲しい』って泣きわめいたろうが」
「うぐぅ…。でもぅ」
「じゃあ、交換条件にしよう」 祐一はあゆの肩を起こした。首を垂れるあゆの、前髪越しに見える瞳に話しかける。「俺はあゆ無しではいられない。お前は俺に一緒にいて欲しい。俺はあの事件を自分の責任だと思わないようにする。だから、お前もあのことを自分のせいだと思わないようにする」
「ボクが?」
「俺に分からないと思うか」 祐一は片眉を上げた。
「そっか…。そうだよね。じゃあ、分かったよ。ボク達はただ子供の頃に出会って、ちょっと不思議な体験をして、それ以来ずっと好きあってるんだね。あんまり好きなもんだから、もう離れられないんだね」
「そう言うことだな」

 祐一が満足そうにうなづき、あゆは小さく笑った。そして再び祐一の体にもたれかかった。
 二人は、そのまま数分抱き合っていた。祐一がもう一度、小箱を押しやり、あゆは大人しくその指輪をはめた。
 やがて、あゆが再び口を開いた。その頃には、もうすっかり安心したような口調だった。優しい口調、と言っても良かった。

「気付いてる?」
「何にさ」
「あれから、ボクが目を覚ましてから、もう7年過ぎたよ」
「そうか。そう言えばそうだ」

 祐一は、髪の毛を切りすぎたと言って妙な帽子をかぶってきたあゆの姿を、鮮やかに思い出すことが出来た。そうか、あれから7年か。そのまた7年前は、俺達はまだ子供だった。それは果てしなく続く俺達の道。ずっと歩いてきた。これからも歩いていく。

「ボクは祐一君に追い付けたかな」
「いや、案外俺がようやくお前に追い付いたのかもしれないぜ」
「結局ボク達って、ずっとこんな風なのかもしれないね」
「そうだな」  それはなかなか骨の折れる人生だ、と内心、祐一は思った。 だが、喜んで受けて立とう。
「祐一君。次の7年はどうしよっか?」
「まず小麦の生産性向上だ」
「…うぐぅ、それじゃ旧ソ連みたいだよ」 あゆは苦笑した。
「なかなかアカデミックなツッコミだな」
「全くもう。祐一君は変わらないよね。いつまでもお気楽なんだから」
「何っ、あゆがそれを言うか!」

 二人は夜の公園で、喉がかれるまで喋り続けた。
 俺達の新しい始まりとしては悪くない、と祐一は思った。
 次の7年は、きっと楽しいものになるだろう。
 そんな予感がするのだ。

10/12/1999 Suikyo