"Honey"




 かちゃり。
 背後のドアのノブが回って、ロックのはずれる音がする。
 誰? なんて尋ねる必要は無い。

「何してるの、栞。そんなところで」
「見て分かんない?」
「分からないから訊いてるんだけど」

 トレーナー姿のお姉ちゃんが眉根を寄せる姿が目に見えるようで、私は密かに苦笑いをする。

「雨を見てるんだよ」
「確かに、踊り狂ってるようには見えないわね」
「雨を見てたら悪い?」
「善し悪しを判断するほどに、意味のある行動には感じられないけど」
「嫌いだよ、もう……。なーに、お姉ちゃん」

 仕方なく窓際から離れて振り返ると、つかつかとお姉ちゃんに歩み寄った。
 左足に体重をかけて、ふかふかの絨毯の感触に右足を遊ばせる。

「家の掃除をする、って、朝ご飯の時に決めたじゃない。忘れたの?」
「ああ」 私は、ぽんと手を打った。「忘れてた」
「こら」

 お姉ちゃんが不意に顔を寄せ……頭突きを入れた。

「いたっ」
「あ、本当。手を動かす元気も出ない時には便利なものね」
「変な突っ込み、覚えないでよ」
「文句は、あなたの彼氏さんにどうぞ」
「うー…、祐一さんのバカぁ…」
「ほら、着替えて来なさい。あなたはリビングね」

 私はおでこをさすりながら衣装棚を探る。祐一さんと付き合うようになってから、家の中で着る服が増えた――要は、「お出かけ服」のランクが上がったから、こんな時も色々コーディネートを選べたりする。もっとも、それ以前に持っていた服なんて限られていたから、数的にはみんなと同じなのかな。
 お姉ちゃんが階段を下りていく足音がすると、視線をもう一度窓へ向ける。
 透明なガラスの向こうに、透明な雫が降り注いでいた。咲き始めたアジサイの花びらが、それを受けて小刻みに笑っていた。何だって受け止めてくれそうな、柔らかい世界。
 くっだらない、自分との約束。でも、ずっと前から決めていたのにね。

「もうちょっと、待っていて下さいね」

 私はつぶやいて、ブラウスの裾をスカートから引き出した。



 雨を見てるんだよ、ね。
 あたしは一階の廊下を紙モップで撫でながら、独り呟いた。そう言えば、前に何やらファンタジックなことを宣言していたような気がする。
 あの子のドリーマー成分たっぷりなハチミツ頭は、一体どうにかならないものかしら。見ている分には面白いけど、姉妹としては困ったものだわ。

「はいはい、お姉ちゃん、ちょっとどいて〜」

 階段を下りてきた妹が、ひらひらと、穴あきソックスを履いた足であたしを「あっち行け」する。あたしは無言のまま、手に持ったモップの先で、その生意気なソックスを小突いた。

「あ、武器反対っ」

 栞は笑いながらそれを飛び越す。
 ま、明るく過ごしている分には、別にいいわ。小学生みたいな性格だって。

「……お姉ちゃん、ひどいこと考えてるでしょ」
「いいえ。あたしにしては極度に寛容な結論を出したところよ」
「うー、良く分かんないけど、なんかむかつく…」

 仏頂面が可愛くて、あたしはついニヤニヤ笑ってしまう。栞は、えいっ、とばかりにあたしの足を踏んづけて、子猫のように脱走した。
 ほほう。
 全然痛くは無かったけれど、復讐だけはしっかりさせてもらうわ。

 それにしても。
 あたしは小窓から外を覗いた。この地方に梅雨は来ないけれど、多分こんな雨が梅雨って呼ばれるものなんだと思う。細く、弱く、心に染み入るように、あたし達から何かを誘い出すように降る雨だった。

「お風呂、早めに沸かしておこうかしら」

 休日出勤の父を心配してみせる。母も親類が主催するバザーに出かけてしまった。家の中にいるあたし達は気楽だけど、きっと外は寒いに違いない。たまには娘らしい気遣いを見せてあげよう。
 さて、廊下は終わった。両親の、もう一人の娘はどうしていることやら。



 家のリビングの掃除って結構たいへん。ものが多い。ものが重い!

「ステレオとテレビとコンピュータと、絨毯の上にソファとテーブル。それに棚一杯の本」

 私は腰に手を当てて立ちつくす。将来の自分の家のリビングには、何も置かないことにしようと決心した。祐一さんとごろごろ出来ればそれでいいんだから、ござ一枚でいい。大体、そのころにはテレビだって、きっと薄くて軽くなってるに違いない。きっとゲーム機の方が重いぐらいだ。
 この部屋も、何とかならないかな。

「ステレオとテレビとコンピュータのラックはキャスターが付いてるからいいとして、ソファが邪魔だよ」

 ソファにキャスターを付ける。それは無理か。じゃ、要らない。
 リビングにぽつんとテーブルだけが置かれている様を思い浮かべ、私はにんまりした。使わないテーブルを置く必要もない。視界からテーブルも削除する。本は、お父さんだって読まないんだから、もう思い切って焼き払っちゃえ。

「働け、栞」
「わ」

 後頭部に、こつん、と衝撃。お姉ちゃんがモップの柄を掲げていた。

「どうして、あなたは、そう……」
「ご、ごめん。ちょっと、どうやって掃除しようかな〜、って」
「どうやっても、こうやっても――」
「『手を動かすだけ』 はい、そうでーす」
「お母さんが帰ってくる前に終わらせようって、言ったじゃない」

 お姉ちゃんは、私の皮肉にも動じることなく言い募った。

「うー。分かったよ、やるよー」
「やりたくないなら、最初から言えばいいのに」
「そうじゃないよ。…お姉ちゃん、何だか厳しいね。私が――」

 お姉ちゃんの目が、すうっと細くなった。病気だった頃は、と言おうとして、私は口をつぐんだ。こんなつまらないことで喧嘩したって仕方ない。
 身を縮めたけれど、別に怒られはしなかった。

「あたしはキッチンと玄関をやってるわ。栞は、次、階段と2階の廊下だからね」
「はい」

 しおらしい答えを聞いて、お姉ちゃんは、ついっと踵を返して歩いていった。うー、絶対怒ってる。あとで謝ろう。
 私は――特に必要は無いけれど、気分の問題として――腕まくりをして、よし、と気合いを入れると、テレビの台を壁から離し、掃除機のホースを持ってその裏に入った。手元のスイッチを入れて、たまった埃を吸い取る。そのまま壁沿いに横にずれて行き、ステレオやスピーカを次々と足で押しやりながら、ノズルの先を目に付いた場所へ走らせた。いつも部屋の隅っこから始めるところを見ると、どうも私は細かいのが好きみたい。
 庭へ通じるガラス戸に達した時点で人外の秘境から脱出し、AV機器を壁際に戻して床を拭く。後は本棚やラックなんかの埃を拭き取って終了。大掃除じゃないんだから、絨毯の下は許してもらおう。
 リビングを見渡す。
 うん、綺麗になった。多分。
 束の間、さっきの愉快な想像を思い出す。お姉ちゃんは気付いているだろうか。私が夢を見るようになったのは、病気で寝ていた最中ではなくて、むしろ快復した後だったと言うことを。
 キッチンを覗くと、お姉ちゃんはもういなかった。もう次に取りかかってるのかな。さすが、仕事人は仕事が速いよ。



 広告紙を敷いた上に靴を待避しておき、玄関のタイルの上に、濡らしたトイレットペーパーをちぎってばらまく。これを小箒で集めると、それなりに汚れが取れる仕掛け。伊達に我が家で仕事人の異名を取っているわけじゃない。

「何だか厳しいね、って言われてもねぇ。これがあたしだもの」

 つまらないことを言うな、と怒り出すのを予期したように身をすくめる妹の姿を思い出す。そして、自分の胸の中に残るしこりに気付いて、あたしは手を止めた。
 沈黙の中、細く開けられた扉から、かすかな水のノイズが流れ込んで場を満たしている。口論は、単なるきっかけだった。あたしはいつもそれを保留して、だけど忘れられずに苦しんでいる。
 あたしは、違う。どうしようもなく違うんだ。
 気付くと、あたしは小箒とどうにもならない問題を手にして清流の中に立っていた。
 考えたって仕方ないとは思うけれど、折に触れてあたしはそういう風に思い悩む。何を否定すべきか、という、とても単純で答えの無いジレンマ。でも静かな雨は、それさえも柔らかく包んで押し流していく。ただ、そうあることを大切に思うべきなのだ、と。そんな風に、ただ素直に受け止められたなら、とあたしも思う。

「お姉ちゃん、手が止まってる」
「えっ」

 してやったり、という顔で栞が立っていた。小さな太陽のような、明快そのものの、小憎らしい表情。どこから手に入れたのか、人の悩みなんて笑って吹き飛ばすような無神経な強さを遠慮なく放っている。
 ……いーえ、やっぱりあたしが正しいのよ! こんな子供に負けてなるものですか。

「やかましいわね。才女が憂いを見せるのは世の習いなのよ」
「ふぅん。じゃあ、お姉ちゃんは男の人を引っかける練習をしていた、と…」
「ばかっ」
「祐一さんに教えちゃお〜〜」

 し、信じられない。栞、あなた、家の中で携帯持ち歩いてるわけ!?

「ばか、やめなさいっ」
「えへへ…ワンタッチだもんねー」
「こらあっ」
「わっ――――きゃああっ」

 あたしが伸ばした手から逃れるように動いた栞が、足をもつれさせてその場に倒れた。木に固いものが当たる、ぞっとするような音が聞こえた。
 放り出された携帯電話から、接続前の無機質な発信音が小さく響く。

「し、栞っ」

 うわずる声で名前を呼びながら、ぴくりとも動かない華奢な体に飛びつく。乱れたショートカットを払い、なめらかすぎる頬に手を当てる。
 恐ろしさで全身が凍り付くような気がした。
 その時。

「うぅっ……。いったー……」
「栞っ、大丈夫!?」
「お姉ちゃん。いたいよ、もう……」

 あたしはがっくりと膝をついた。栞は半身を起こすと後頭部に手を当てて、こぶが出来たとか何とか文句を言っている。あたしは、もう力が抜けてしまって、言い返す気力も無い。
 突然、廊下の奥の電話が鳴り響いて、あたしは再びぎょっとした。

「あ、大丈夫」

 栞が言って手を伸ばし、落とした携帯電話を拾ってコールを切ると、スカートのポケットに納める。

「幾ら何でも、あんなことで祐一さんの家に電話したりしないよ」

 と無邪気に笑った。



 もう掃除はいいから、と私は部屋に追い返された。
 ちょっとお姉ちゃんは心配性だと思うけれど、実際こぶは痛いし、今日は甘えることにした。当初の計画に従うためだ。
 私はシンプルなブラウスにキュロットの普段着に着替えると、椅子を持ち出して窓際にセットした。部屋に隠し持っているお菓子を並べ、準備完了。深々と体をクッションに沈め、窓の外の穏やかな囁きに耳を傾ける。
 今日は雨を眺める日。
 元気になってからずっと、存在しないどこかに、私の思いを待っている何かが居るような気がしていた。ひょっとするとそれは、起こらなかった何か、や、起こらない何か、かも知れない。私はそんな何かに感謝せずには、安心して暮らしていられない。別に変なことじゃない。要は、私は私がこうあることを大切に思うべきだ、ということなんだから。
 だから今日は、全てを受け止めてくれる空気と水の柔らかい交流の中に、私が思い浮かべられる精一杯の夢をぶつける日。

 かちゃり。
 背後のドアのノブが回って、ロックのはずれる音がする。
 誰? なんて尋ねる必要は無い。

「ご一緒しても、よろしいかしら」

 自分の部屋の椅子を持ち出したお姉ちゃんが、ぎこちなく微笑む。

「どーぞどーぞ、大歓迎」

 私は笑って場所を空けた。お姉ちゃんは椅子を並べると、廊下においた紅茶のトレイを持ってきて座った。窓の外には相変わらず優しい雨と、咲き始めたアジサイ。

 ふと目が合う。

 心でほほえみ合う。

 ゆっくりと流れる、ハチミツのような時間。


03/23/2000 Suikyo



CCさくらが分かる人向けのおまけです(笑)
こにゃにゃちわーー!
長い冬もよーやっと終わりやなー。
みんな雪合戦したかー? スキー行ったかー?
ほなら今週もいくで、ピロちゃんにおまかせぇー!

まずは栞のお掃除ルックからやー。
香里ネエからのお下がりのジーンズに、穴あきソックスがかわいーなぁ。
上は中学の時に買った、ピンクのキュートなブラウスや。
恥ずかしゅうて、外ではよう使わへんけど、体が成長せーへんからまだ着られるんやな(笑)
何や、いかにも「庶民」ちゅー味が、意外に栞らしーな。
カード集めしとる時のキレた感じとは、ひと味ちゃうでー。

行け行けピロちゃんチェーック!
今回はラストで栞が広げとったお菓子や。
ビスケットやスナック菓子が多いなー。
栞は時々学校帰りに買った菓子なんか、こっそり部屋に貯めこんで夜中に食ってるんや。
おやつばっかり食ってると、ぶくぶく太るから、良い子は真似したらあかんでー。
ん、このスナックは、栞の好きなパソコンゲームのおまけ付きやな。
栞は、この羽根付きランドセル背負ったキャラがお気に入りや。
ちなみに、わいはこの金髪美少女がええなぁ。持ってる肉まんが美味そうや。

今週はこれでしまいやけど、どやった。
香里ネエとのあったかい関係、ちっと泣けたやろ。
来週からはカード集めもいよいよ盛り上がってくるで〜、
このコーナーもみんなもお待ちかねの、ピクシィミッシー特集や!
ほなな〜〜