『使い人』





 木漏れ日が射して、僕の体をまだらに染め上げている。辺りは静寂に包まれ、稀に鳥の鳴き声を聞く他には、一匹の動物――つまり僕だ――がガサゴソと不器用に歩いていく音だけが無闇に大きい。僕は足裏に濡れ落ち葉を踏みしめ、時折行く手を遮る若枝を掻き分けて道を進んだ。立ち止まって見渡しても、周りには誰もいない。ただ僕の影だけがひっそりと後ろを着いてきている。追っ手の気配がしないのがありがたい。
 僕は小さくため息をつき、前進を再開した。目的地はまだ見えない。
 峠を過ぎると、やがて道は沢に辿り着いた。太陽はもう随分傾いて、水面も茜色に輝いている。今夜はここで眠ろう、と決めた。近くの茂みに潜り込んで小さな枯れ枝を集めた。それを葉の生い茂る大木の下に持っていって焚き火をする。夕べの雨のためか火は着きにくかったけれど、一旦燃え始めれば何とかなった。数日前に自分でこしらえた銛を使ってイワナを3匹仕留め、じっくりとあぶってから、取っておきの塩を振って食べる。旨い。野外生活なんて意外と簡単なもんだ、と僕は思った。腹が一杯になると、眠気が襲ってきた。枯れ枝を最後まで火にくべると、横になった。大樹の枝越しに見える夜空には一際大きな月が輝き、他の星々を圧倒していた。
 明くる朝、日の出と同時に目が覚めた。火は既に消えて、燃え残りの枝がくすぶっていた。腰の革袋に水を汲んで、焚き火跡にかける。炭は入念に踏み砕いて地面に埋めた。煙は上で木の葉に紛れたはずだし、これでしばらくは時間を稼げるだろう。
 道はやがて沢を外れ、再び坂を上り始めた。ペースを乱さないように、一歩一歩踏み出していく。ほとんど荷物を持っていないから負担は軽いけれど、何日も朝から晩まで歩き続けていると流石に疲れてしまう。靴はあちこち破れ出しているし、足の怪我も増える一方だ。
 いつの間にか地面ばかりを見つめていた僕は、遙か上空から聞こえてくる鳥の声にはっとなった。カモメだ。海が近いんだ。
 勇気百倍、僕は胸を張って歩き始めた。木々の重なりの向こうに空の色が見え始め、潮の香りがはっきりと嗅ぎ取れるようになった。最後には必死になって走っていた。突如視界が開けた。余りの青さに、僕は一瞬めまいを覚える。遠く澄み切った空と、見渡す限りの海が広がっていた。僕は海沿いに走る崖の上に立っていた。両足のずっと下には、白い砂浜が筋となってえんえんと続いている。何て美しい景色なんだろう、と僕は思った。そしてすぐ、目的の場所はどこだろう、と思った。
 遠くに動くものがあって、僕の目を引いた。崖のへりに沿って近づいていくと、人影が海から上がってくるのが見えた。籠を背負っている。籠の中に入ったものがきらきら光って、やがてそれが貝殻であることが分かった。見とがめられないために腹這いになって、じっと目を凝らした。人影は若い男で、僕よりは五つぐらい年上に見える。素潜りで貝や海草を捕る、海人だろう。この土地の人間には違いない。
「おーい」
 僕は立ち上がって声を上げた。若い男は気付いて手を振った。どこか降りる場所はないか、と叫ぶと、男は大きく腕を上げて一点を指さした。行ってみると、崖に走った亀裂が雨に削られて坂になっていた。僕は両手で岩に掴まりながら足がかりを辿り、どうにか砂浜に降り立った。男は背中の籠の中身を、砂浜に置いたたらいに空け、貝をより分けていた。綺麗な刺繍を施した帽子を被っていて、耳の上の辺りがちょっと膨らんでいる。
「やあ」
 男は振り返ると答えた。「うん」
「取れた?」
「どうかな」 彼は首をひねった。素朴な顔立ちの人で、思った通りの年齢のようだった。「きのう、時化たから」
「そうだね」
「どこから来たんだい」
「都から。ねえお兄さん、――――っていうお城がこの辺にあるはずなんだけど、知らないかな」
「何の城だって?」
 僕はもう一度その名前を発音した。
「知らないなあ……」
 彼は呟き、仕事に戻った。一際美しく虹色に輝く貝をつまみ上げると、別の袋に分けた。
「綺麗な貝だね。誰かに贈るの」
「妻にね」
「奥さんがいるの」
「うん」 彼ははにかんだ。「まあ」
「じゃあ、僕はこれで。この辺の海伝いに行けば、どこかにあるはずなんだ」
 数歩歩いたところで、呼び止められた。彼はしゃがみこんで貝を手に持ったまま、肩越しに言った。
「その、何とか言う城のことだけど、どうして探しに出たんだい」
「誰かの落とし物を届けに行く夢を見たんだ。僕は使い人だ。行かなきゃ」
「それで飛び出して来たの。よく追いかけられなかったね」
「実を言うと分からないんだ。追っ手が出ているのかどうか」 僕は腕に彫られた入れ墨をそっと撫でた。奴隷の脱走は死刑ものだ。「捕まらないよ。城に辿り着くまでは」
 彼は困った顔をして振り向いた。
「城は海に沈んだ」 彼は言った。
「何だって!?」
「失くなってしまったんだ。僕はここでこうして海人をやりながら、あの城に近づく者が出ないように見張っている。古い力が残っていて、とても危険だから」
「沈んだって、いつ?」
「六年ぐらい前かな。僕がちょうど君ぐらいの歳の頃だ」
 じゃあ、僕が夢を見た頃には、もう城は無かったことになる。
「そんなはず無い」
「朝早くに崖の上から見ていると、海面が一ヶ所、淡く光るんだ。城にあった、大きくて不思議な力を持った鏡が、日の光を反射しているんだと思う」
「そう……」
 僕がうなだれると、彼は気まずそうに手を差し出して僕の肩を掴んだ。
「あんな場所には行かない方がいい。君のいた場所に戻りなよ」
「そうした方がいいかも知れない」
 遠くから女の人の声がして、崖の上に白っぽい姿が見えた。若い海人は振り返って手を振った。女の人は細い手足を使って、ゆっくりと亀裂を降りてきた。透き通るような肌をしている。僕は海人の脇をつついた。
「姉さん女房?」
「うん」 彼は頬を赤くした。
「それじゃ、僕はもう行くよ。あんまり長くいると迷惑がかかるかも知れないし」
 大分行ってから振り返ると、海人の側で、女の人が口に手を当てて心配そうにこちらを見ていた。浜に他の漁師は見えなかった。あの城と関わり合いがあるために、彼は彼の村に上手く溶け込めないのではないかと思った。彼は何かを城に奪われたのだ。
 崖を登り、道を少し戻った辺りの茂みの裏で、早々と横になった。眠りにつくまでの間、打ち寄せる波の音がずっと続いていた。耳慣れなかったその音も、今ではもう体の一部のように感じていた。



 目を覚ますと、夜になっていた。両腕を突っ張って体を起こす。東の空に満月が上り始めているのが見えた。僕は立ち上がり、茂みを越えて崖沿いの道に戻った。強い月の光が、視界を蒼白く染めていた。僕は崖のへりに腰をかけて、じっと待った。
 時が来て、遠くの海面が一カ所、月の色に輝き始めた。やっぱりだ、と僕は思った。亀裂の場所まで小走りに駆けて行き、急いで砂浜へ降りた。輝きはまだ海面をたゆたっていた。あの下で、海の底で、城はまだ生きている。光は届いていた。光のあるところには、常に影が必要なんだ。あの城には、影が足りていない。
 僕は振り返った。蒼い砂浜に、僕の影がくっきりと映っていた。僕が旅に出ることになった理由が。

 あの夢を見て以来、僕の影には二本の角が生えている。

 つま先を、ひんやりとした海の水に浸す。僕と影は一歩ずつ、ゆらめく光へ歩き出す。



01/06/2002 Suikyo