『天使は幻の夕焼けに微笑む』







 幾山川を越えて来たこの旅路であった。

 どこの地平のはてまでもめぐりめぐった。

 だが、向うから誰一人来るのに会わず、

 道はただ行く道、帰る旅人を見なかった。


            ――――――――――― 『ルバイヤート』 オマル・ハイヤーム





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 闇にそびえる666階建ての塔のイメージ。部屋に入れば、見たことも無い13次元の狂気が甘美な臭気を撒き散らし、ねっとりとしたその触手を伸ばすだろう。お前は魅入られ、ただそれを受け入れる。口に。目に。鼻に。蛆虫どもが喜悦の叫びを上げる。ねじくれた業火と永遠の夕陽の中で、お前の心は静かにほどけ、互いも知らぬ無数の孤独に溶けていく。未来永劫、血の闇にまみれ、ただその孤独に悶え狂い――――。
 くそくらえ。
 ケインは毒づいた。悪質な精神防壁。"お仲間"。"そろそろ引退しなよ、オヤジ"。『お前の手の内は読めてるのさ』 ケインは唇を歪めた。何をすればいいのかは分かっていた。正面からねじ伏せる必要すらなかった。ただ、使いなれたワームを放てば良かった。ケインは自分のバンクにある無数のエントリに正しい検索イメージを投射し、正しい答えを一つ得た。虹色の光を放つワームは、ただケインだけが知る作用を持って、防壁にもぐり込む。無音のファンファーレ=歓喜の歌。無血開城。ちゃち過ぎる。仕事しろよ、相棒。
《相棒? 俺のことかい?》
――ふざけんなよ、ギブスン。
《こちらは依然異常無しだ。お客さんは安らかに眠ってるよ》
――そのまま永眠。
《アーメン》
 「城」に踏み込んだ。無数の連想のレーザーが空中を飛び交う。まとわりつく疑いのイメージ。次に親和的な取り込みの感触。最後に、体=心ごと持って行かれそうな、敵意に満ちた解体の魔手。ケインは、そのどれにも捕らわれることなく、静かな自信を持って歩み続ける。『俺はベストだ』 脳裏に去来する思い。『俺の名を知っているか』――"CHILL BEHIND YOU". 背後の冷気。誰にも気付かれない。俺はどこにでも存在する。お前達の脳の中に。俺は過去を持たない。虹色世界に漂う、一息の冷気なのだ。
 唐突に「城」の複雑な尖塔の一つが姿を表す。貧相なペンフィールド。弱体化したインターフェース小人。ケインは哀れみを持ってそれを見つめた。尖塔はケインには気付いていない。全神経を集中して、どこかの恋人と愛を囀りあっている。ご本尊はマカリスター社のプライベート・ルームで涎を垂らす。迂回して、更なる深みへ。"意識"へ。不安定な界面。虹色に光るオブラートへ。無数の波紋で世界を形作る創世機械へ。
 漏斗状の回廊が絡み合う終着点。そこに「それ」は存在した。自分が通ってきた回廊は特に行き来が激しい。<ネット>だ。他の回廊では、汚物にまみれた複数の宝物庫から、連想のレーザーに呼応するように更なる汚物がひっきりに無しに届けられる。ケインはそれを避けながら回廊を渡り移り、「それ」に接近する。欲望に歪んだ心の中心。油膜に発生する波紋は児戯に等しい。ケインは侮蔑の念を慎重に抑圧する。俺は冷気だ。氷の心を持つ男。
 遂にそこに至った。ケインは目の前に揺れ動く壁に次々に浮かぶイメージを観察する。この先に意識が存在する。自分の後ろに伸びる回廊から連綿と送り続けられる情報を、照合し、選択し、記憶や、簡単な運動指令として再び回廊に送り返す。あるいは<ネット>へ。
 『仕事の時間だ』 ケインはゆっくりと波紋を歪め始めた。次々とイメージが書きかえられる。絶望のイメージ。暗黒のイメージ。たちまち回廊は疑問符で満ちる。干渉を止める。再び<ネット>へのアクセスが増大する。干渉再開。今度は拒否反応無し。"俺は間違っている""罠がある"。ゴミのような概念は横へ押しやられ、今や意識と無意識は協調して恐ろしいストレスと戦い始める。最後まで抵抗するのは識閾下からの性欲イメージ。よっぽどイイ女だったらしいな。
 唐突に引き戻す力がかかった。ケインは抵抗した。
《くそっ! やばい》
――どうした。
《奴さん、心臓発作だ》
――聞いてない。俺はそこまでやってない。
《そろそろ危ないぜ》
 ギブスンの発音が終わるや否や、周囲がゆっくりと白くなる。次々と書き換わる連鎖。回廊は頭部に銃弾を食らった蛇のようにのた打ち回る。局所的複雑性の保持活動。だが全てを飲み込む虚無には勝てない。ケインはケツをまくって逃げ出す。屈辱。"有り得ない"。飛躍:"ハメられた"。激しく打ち振るわれる裏切りのイメージ――。
 「城」は跡形もなく吹き飛んだ。



 T・N・ウィーゼルは発作の7分後に、セキュリティルームから息せき切って駆け付けた警備員によって発見された。脈無し。細動を伴う心停止状態。直ちに蘇生措置が行われる。心臓が動き出す。病院に運ばれる。医者が首を振った。脳死。
 "<ネット>接続中の死"――俗称「ケース・ウィルスン」。マカリスター社CEO突然死の電撃的ニュースが専用ネットワークを駆け巡り、20分で12人の幹部が集合する。最初は誰一人、トミー大伯父を殺したのがブロンド美人のEカップのおっぱいであることを疑わなかった。ロートルには刺激が強すぎた。大人しくスクールガールのピンナップでも眺めていればいいものを。
 だが、会合が解散しようと言う時、社内システム部の部長が駆け込んできた。部下が大変なことを報告してきた。これはまだ完全には確認されておらず、現在も調査中で、もし真実なら責任問題に…。全員の恫喝を受け、部長は震え上がって結論をぶちまける――マカリスターの<ネット>が、世界最強のコア・ネットワークが、レイプされている。
 ブラックハウンドのようなトレーサーが電子の海に残るかすかな痕跡を追い、巧妙に限界まで拡散させられた匂いの中心を突き止める。腐ったリンゴ。ウィーゼルの死からきっかり40分後、FBIのテロ対策部隊、マカリスターの対"ヤクザ"専門チームが同時に出動する。正義と暴力がガッチリ握手。暴走。
 伝説の男、"CHILL"を捕らえろ。
 殺せ。



 "どんなに高速で飛んでも、この質量は支えきれない"。ケインは周囲を見渡す。止まったような他のプロセスをあざ笑うように、隣を超光速で駆けぬける、かすかな暗紫色を帯びた怒涛の奔流。この次元では馬鹿げたエントロピーの浪費にしか見えない。だが、その正体をケインは知っている。――これは人間の意識に浮かぶ概念。そして、高度にフィルタリングされた生の感覚=主観的質感――クオリア。デルフィの作り出す悪魔的天国の住人の心の全ての表層がここにある。彼自身、彼の肉体の1m以内では、この濁流に組み込まれているのだ。だが、この場所ではこのプロトコルを使うわけにはいかない。
 ケインは意を決してプローブにインタラプトをかけた。この高度な移動式プラットフォーム――何なら一種のOS――は、回収するには巨大過ぎる。たった400msほどの我慢。それで、バン! 落下傘が開いて緊急着陸。彼ほど強固な意識を持つ人間なら、危険は少ない。精神被傷率は1割程度。ママは泣いて止めるだろう。
 突然、全ての感覚がシャットアウトされる。次の瞬間、激烈なフラッシュバック。抑圧されていた、ありとあらゆる邪悪な連想が空っぽの脳髄に叩き込まれる。歪んだ魚眼レンズ。生々しい悪夢の味。手に取れる暗闇。酸のよだれを垂らしながら迫り来る死の顎。海沿いを走る健康的な肢体。首にかけられた両手。マッハで飛ぶミサイル――撃ち落してやった。力を込める腕の下で震える死。ガーシュインの歯切れのいい薫り。蒼穹。降り積もる雪。血まみれの天使。"666階建ての塔""血の闇"。凍りつく太陽。"鮮やか過ぎる赤"。無限に繰り返される殺伐と狂気のアンソロジー。
 叫び声を上げ、機械を支えたアングルを殴りつけると、その痛みでようやくケインは正気を取り戻した。汗に濡れる短い黒髪。開ききった黒い瞳孔は徐々に収縮して、通常の大きさに戻っていく。肺を絞り尽くすような荒い息を数回吐く。ヘッドセットをかなぐり捨て、傍らで吸入器を片手に自分を見つめる痩せぎすの地中海系の青年の胸倉を掴んだ。灰色の目と黒い目が交錯する。整形跡に沿って頬の筋肉がぴくつく。ギブスン――オルタナティブ文化の申し子。旧式サイバーパンク狂信者。1つの偽名に20の隠れ蓑を持つ男。誰も彼の本名を知らない。誰も彼の素顔を知らない……
「たやすい仕事だと言ったな」
「オーケー、ケイン。落ち着けよ。クールになれ」
「俺の中の冷静な部分は、お前を撃ち殺せと言っている」
「くそっ、頼むぜ。じいさんは抜群の健康体だった。データ上は。誰が自分の遺伝子の欠陥なんざデータに残すもんかい」
 それを確かめるのが貴様の仕事だろうが。ケインはその言葉を燃え上がりかけた瞋恚の炎と共に飲み込む。
「5分で脱出する。打ち合わせ通りで行く」
 ギブスンは頷いて、ラックに嵌め込まれたパネルの電源を片っ端から切断し、記憶素子とカスタムチップを抜き出す。吸入器。メタの瘴気。万引き少年のように焦っている。『ハードウェアの<エッジ>になるんだ』……まだまだ隙が多すぎた。こいつを信用したのが馬鹿だった。ガセを掴まされたに違いない。ケインは、ギブスンの野心に賭けていた。賭けはボロ負けだ。
 油汚れが目立つ窓を持った、アパートの一室。薄暗いのは照明のせいではなく、デタラメに組んだアングルに、所狭しと積み重ねられた機材群のため。その全てが一流。全てが必須。――いい要塞だった。ケインは全身に巣食う疲労にも関わらず、ほんの一瞬、感慨を覚える。俺達は、ここから世界中を支配した。信仰無き時代の冷酷無残な神の手だった。記憶を失って道に倒れていた俺は、20年かけてここまでになった。
 だが、軍事産業において世界にその名を轟かすマカリスターのヘッドを殺っちまった。『幽霊になれ』『この商売は気付かれないのが原則』 ケインは、甘美で穢れたこの道に自分を引きずり込んだ男の言葉を思い出す。『ターゲットの頭の中身をほんの少し捻じ曲げてやれ。だが、気付かれるな。気付かれなければ疑われない。気付かれなければ、ターゲットがヘマをやらかしたという結論になる。誰もお前を見付けようは考えない。この商売のポイントは、いかに気付かれずに忍び寄り、仕事をするかだ。幽霊になれ。それがプロの身上だ』 ケインは自分の仕事の結果、誰かが"ヘマをやらかした"ことで、どれだけの組織が崩壊し、どれだけの財閥がまた一つ拠点を築き、どれだけの国家が転覆させられたかを知っている。彼らは未だに、どんな力学が働いたのか"気付いていない"。
 しばらく休業だ。
 ケインは屈辱・憤怒・喪失感・感傷・爛れた誇りの全てを凍らせた。
 脳裏に逃走シークェンスを繰り返し浮かべる。生半可では逃げ切れない。用意してあるルートにも幾つか弱い環が存在する。一時逃げられても、そこを責められて追跡されれば終わりだ。身軽に、借りを作らずに行く。自分には幸いにして持ち出すべき何物も無い――ただ一つ、この鋼鉄の心を除けば。これが彼の唯一にして最大の武器。『ウェットウェアの<エッジ>』とギブスンなら言うだろう。悪夢すらも拒否する頑健な意識。ギブスンのラリった脳とは違う。
 ――だしぬけにケインは一つの疑念にとらわれる。



 デルフィ・サテライト本社ビルの56階にあるオフィス。額縁に入れられた絵、無し。ミニ・ゴルフコース、無し。金髪美人の秘書、無し。ただ、壁の一角に無機質なパネルが整然と並ぶ。たくましい肩と旧式の人工網膜処理をされた義眼を持つ男が、ニヤリと口元を吊り上げた。針にかかった魚は逃げられない。万が一今の針を食いちぎったとしても、その存在は全ての漁師の間で噂に上り、常に追われ、罠をかけられ、餌を取る力を失って死ぬのだ。
 『奴は優秀過ぎた』 男は考える。『その才能が自分を殺したのだ』=教訓:平凡であれ。男は再びニヤリと笑う。この男ほど、平凡とかけ離れた人間はいなかった。ジャン=ピエール・ラクロワ――デルフィの誇る<意識共有網>CSN(Consciousness Sharing Network)の開発責任者。神を目指す男。世界の終局を企む男。全ての障害を消せ。揺らぎは確実にコントロールせよ。
 ラクロワもまた指令を下した。
 魚を追え。
 追い続けろ。



「何してる、ケイン」
 ギブスンが苛立ちを隠そうともせずに詰問する。ケインはコートを着込み、優雅な手つきでポケットの中身を確かめると、次いで携帯端末を取り出した。
「位置を掴まれる心配は無い」
「そうじゃねぇ。何してるかって聞いてんだ!」
「ホテルの予約さ」
 ケインはのんびりと答えた。ギブスンは燃えあがった。
「ふざけるな! 俺は行くぜ。どうせ道は違うんだ」
「いや、一緒に行こう」
 ギブスンはその言葉を無視した。ボロボロのバッグを背負う。扉を開ける。非常階段を下り始める。裏路地が見える。星の見えない夜。ハーレムの表通りにも人影は無い。どこからか調子っぱずれの歌が聞こえてくる。ケインはコートを翻し、ギブスンの後を追った。
「仲良く一緒に逃避行と行こうじゃないか、ええ?」
 穏やかな声にギブスンは振り向いた。途端に足がガクガクと震え出す。バッグを取り落とした。両手を上げる。
「おい、そんなもん向けるんじゃ――」
「お前が下手を踏むのは構わなかったんだ…」 ケインはゆっくりと歩を進める。かつてのパートナーに向けたコルトの銃口は微動だにしない。
「止めてくれっ!」
「あんなデカい仕事を嗅ぎつけたのは何故だ? 逃走路を分けたがったのは何故だ? 下らないミスを犯したのは何故だ?」 彼の声は鞭のようにギブスンを打ち据えた。下品なネオンが瞬いて、束の間、彼の氷の仮面を滑稽に照らし出す。だが、彼の黒い瞳は、あくまでも暗い井戸のように全てを飲み込んで光を拒否していた。「何故今ごろ国境の遥か手前で検問をやってる? 俺が行く先に何があった? ライフルを持った歓迎委員か?」
「知らねぇよっ! 俺はやれって言われたことをやっただけだ! くそっ、その先なんか知るかよっ!」
「金か。そんなもので<エッジ>が手に入るのか。俺を裏切って」
 ギブスンは声にならない悲鳴を上げる。張り詰めた永遠の数秒の間、二人の視線が絡み合う。二人の間に横たわる静寂。ギブスンが震える手で最後の一吸いとばかりに吸入器を持ち上げ――それをケインに向けた。その瞬間、乾いた音が立て続けに鳴り響いた。3発の銃弾は正確に心臓を射抜き、痩せた体を石壁に叩きつけた。力を失った体はスローモーションのようにゆっくりと、ぎこちなく、壁からずり落ちて行く。驚愕と衝撃に歪む顔がケインを凝視する。ケインは自分が殺した男の、限界まで見開かれた灰色の瞳を見つめ返し、彼の最期の瞬間を思った。死の恐怖が視覚の一部を極限まで活性化させる。世界から色が失せ、ケインの一挙一動がカメラで撮った白黒写真のように脳に刻まれる。やがて激烈な痛み。ショック。急激に遠のく混濁した意識。やがて闇に満たされた安逸――。俺が撃たなければ、あるいは彼は救いを得られたのだろうか。メタンフェタミンに犯された魂は、その渇きを癒せただろうか。
 命の灯が消えたギブスンの体が地面に倒れる。ケインは突然、彼はやり遂げたのだ、という事実を理解した。俺は二度と平穏を得られない。誰が彼を買収し、俺を陥れたのか、今となっては分からないが、それはもうどうでもいい。俺は命の続く限り追われる。全世界から。『幽霊になれ』 ケインはほろ苦い想いでその言葉を噛み締める。俺はただしくじったのではない。俺は罠にかけられ、再びこの世に罪にまみれた生を得てしまった。世界中の牧師がゾンビを今度こそ本物の地獄に追い返しにやってくるだろう。

 前触れも無く、風が吹いた。
 ケインは顔を上げた。目を細めた。痛いほどに赤い光が網膜に飛び込む。ギブスンの体から流れ出した血溜まりに、向かいの建物に出鱈目に配置された赤いネオンが反射している。こんな赤さを知っている。どこで。いつ。それは分からなかった。彼は方向感覚を失って、壁にもたれかかった。赤い光を身にまとい、誰かが近づいてきた。ケインはコルトを向けた。
「道連れ、しようか?」 その影が言った。
 きらきらした翼を付けた少女――何の冗談だ。いや、翼は消えた。ネオンの形に幻惑されたのだ。今しがた人を殺したばかりの男に声をかけるローティーンの娘。狂気の沙汰だ。
「お前は何も見なかった。そのまま黙って帰れ。命は助けてやる」 ケインは言った。
 少女は物珍しげにケインを眺めた。古臭いだぶだぶのコートに身を包み、指が繋がった形の手袋をしている。その手を上げて、ケインを指した。
「探し物があるはずだよ」
「なに?」
「一緒に探しに行こうよ」
「くそったれ。ジャンキーか、お前。何でもいいから行け。これをやる」
 ケインはギブスンの吸入器を取り上げ、少女に放った。運が良ければメタが吸える。悪ければ致死性ガスが出て死ぬ。俺の知ったことか。
 だが次の瞬間、ケインは魅入られたように吸入器を見つめた。にっこり笑う少女は手を差し出して――吸入器は彼女の体を通り抜け、地面に落ちて陰気な音を立てた。出来の悪い映画のような不自然さ。彼は呆然と少女を見た。彼女はケインに歩み寄り、その腕を掴んだ――感触が感じられた。陶然とした笑みで言う。
「探しに行こうよ、祐一君」


<To be continued?>