"From here, cheers for whole world"




 舞は語り終えるとプリントアウトを膝におき、可愛い動物の絵のついた子供用のプラスチックコップから水を飲んだ。舞を取り囲む十数人の幼稚園児と数人の大人達は、何も言わず、めいめいの思いに浸っていた。黙然と座り込む聴衆を見回し、舞は整った顔に軽い戸惑いをのぞかせた。主人公達の年齢を引き下げ、性格設定を変えたのが裏目に出てしまったのだろうか。
「……つまらなかった?」
 舞が尋ねると、周囲は一斉に首を左右に振った。
「……楽しかった?」
 揃って首を傾げた。
「……面白かった?」
 今度は首が縦に振られた。
 してみると、ある程度は伝わったようだ。舞の悩みは、誰もが笑い転げるような楽しく可笑しいお話を思いつけないということだったが、それでも興味を誘う話を書くことには成功したのかもしれない。舞はほっと胸をなでおろした。実は昨夜からずっと緊張していたのだ。どんな時も飄々として、祐一などには半ば呆れられているにも関わらず。

 お話会が終わると、大部屋にみんなで座ってクリスマスのプチケーキを食べる。幼稚園からのクリスマスプレゼントが配られ、子供達は大はしゃぎだ。十二月に誕生日がある子は、ひと月に二回も大イベントを味わえて歓喜と絶叫の頂点に達している。
 強気そうな瞳をキラキラさせた幼女が一人、舞の膝に寄って来て甲高くねだった。
「舞おねーさん、もっとお話聞かせて!」
「お話……。さっきみたいなもののこと?」
「うんっ」
 あんなパターンで固めた民話風の話でも、結構あれこれ考えて書いたのだから、咄嗟に同じレベルのものを思いつけるはずもない。舞は躊躇い勝ちに答えた。
「ごめんなさい、ゆうちゃん。おねえさんはあれで精一杯。代わりに、ご本を読んであげる」
 ゆう、と呼ばれたその女の子は、いかにもがっかりという風に腕を広げ、唇を尖らせた。すると、聞きなれた声が無責任なことを言うのが聞こえた。
「そう言わずに何か話してやれって」
「うんうん。そうだよ、舞」
 振り返ると佐祐理と祐一が、片や無邪気な笑みを、片や邪気の塊のような笑みを浮かべて立っていた。舞は表情を曖昧に崩す。非常に近い未来への、そこはかとない不安を感じつつも、こんなに対照的な二人の両方が好きだというのは不思議な事だと思った。
 舞と佐祐理の二人は、大学の講義が無い日は幼稚園の手伝いに来ている。資格上、本格的な業務は出来ないけれど、先生達に混じって子供達の相手をしていた。一方、祐一は彼女達二人に引きずられるようにして、数日に一回顔を見せる。もちろん彼には子供の相手など無理な話――舞と祐一の一致した見解――だから、裏方の力仕事などを手伝っている。
 一応抗議してみた。
「私には無理」
「別にカンペキじゃなくたっていいじゃねぇか。なぁ、ゆうちゃん」
「うんっ! すごく楽しいのがいいっ」
「おいおい」
 ゆうは、祐一の眇めた目を不審気に見上げた。舞はため息をついた。
「じゃあ、やってみる。でも、可笑しくないと思うから」
 考えをまとめるための数分の時間をもらった後、舞はつっかえつっかえ語り始めた。それはアラビアン・ナイト風の、少し悲しいような物語だった。


 ――昔々のペルシアに、世界を股にかける一人の大どろぼうがいた。彼は昼は普通の商人、夜はどろぼうという、自分の自由な境遇と、膨大な宝物のコレクションを心の中で自慢し、自分ほど世の中を知っている偉い人間は居ないと思っていた。だが、世界にはもう彼の目がねに適うような宝は無く、それが唯一の悩みだった。そろそろ引退すべきかもしれないと思っていたが、何となく踏み切れないでいた。
 ところがある時、彼は一つの噂を聞き付ける。王様の宮殿の奥深くに、それは美しい宝物がある、と。彼は興奮し、計画を練って宮殿に忍び込む。あちこちを探索すると王様の寝室の床に隠された階段があった(寝ている王様に悪戯をするシーンでは、舞も何とか笑いが取れた)。奇妙な魔法の模様が描かれた階段を降りた先の部屋には、見たことも無いほど美しい姫君がいた。捕らわれのお姫様は、ここから救い出してくれないかと涙ながらに訴える。どろぼうは得意の絶頂になって、「俺のコレクションに加わるなら助けてやってもいい」と答えた。彼女はそれを受け入れた。
 二人は手に手を取って階段を上った。どろぼうは一段一段上りながら考えた。彼女が閉じ込められていたのは、きっと王様が誰にもこの美しさを見せたくなかったからだろう。俺も、この女が家に来てくれるなら、もうどろぼうを辞めたって良いかもしれない。どろぼうはとても満足していた。
 だが、階段を上りきると彼女は礼を言い、煙となって消え去ってしまった。どろぼうは唖然とし、気付いた王様は嘆き悲しむ。お姫様はすでに死んでいたのに、王様がそれを惜しんで、娘の魂が抜け出ないように、特別な魔法をかけた階段の先の部屋に閉じ込めていたのだ。その行いはアッラーの教えにも反する事だった。事が知れてしまったと悟った王様は自害した。どろぼうは恐くなって逃げ出した。
 それでも結局、彼はどろぼうを辞めた――


「どろぼうさんは、自分で思っていたほど自分は偉くなかった、って分かったから」
「……それで、どうなったの? 死んじゃったの?」
「え……」
 舞は言葉に詰まり、しばらく黙考した。お話の流れはここで終わりだったので、それからどうしたかなんて見当もつかない。だが子供を相手にして、こういう時にいい加減な事を言ってはいけないのだ。
 どろぼうを辞めたどろぼうは、一体何がしたいだろうか。
 やがて舞は答えた。
「どろぼうさんは旅を始めたの」
「旅行?」
「そう。初めは学者さんになろうと思ったのだけど、お勉強は良く分からなかった。でも、みんなのいる世の中がどうなっているのか知りたくて、それで旅をすることにしたの。…今度はお昼間だけ。そうして世界中を旅して歩いて、色んな物を見て、色んな人とお話をして、沢山の本を書いた。世界中の人がそれを読んで、良く出来てるって誉めた」
「そっかぁ。じゃ、良かったんだ」
「そう。良かった」
「じゃ、けっこんしたかな?」
 無邪気で突飛な質問に、舞はかすかに頬を染めた。
「した……と思う」
「どんな人?」
 声を出さずに笑い転げる祐一を視界の隅に捕らえながら舞は、高校時代に生徒会に呼び出された時にも感じなかったような居心地の悪さを味わっていた。お話の中の人の話で、どうして私までいたたまれなくなるんだろう。なおも戸惑っていると、佐祐理が助け舟を出した。意味ありげな目配せを舞に向ける。
「きっと、とっても優しい女の人だよ」
「そう、多分」 舞は佐祐理の視線の意味を訝った。
「でもちょっと意地悪で面白い人かな」 佐祐理は満面の笑み。
「ふぅん、そっかぁ」
 最初は、暗いエンディングに狐につままれたような顔をしていた幼女も、その付け足しに幾らかは納得した様子となった。おねえさん達に元気良く頭を下げると、再び友達の輪に戻って行った。後には、いつもながらの三人組が残された。まだニヤニヤ笑っている祐一の顔が急に憎らしくなって、舞は一発チョップを入れた。なぜか佐祐理が嬉しそうに抱きついてきた。

 幼稚園での仕事を終えると、三人はクリスマスで賑わう街に出ることにした。三人ともクリスマス騒ぎと2000年騒ぎにはいささか食傷気味だったが、もちろん仲間だけのディナーとお酒には大賛成だった。雪の積もった足元を確かめながら路地を歩いて行く。舞を挟んで左に祐一、右に佐祐理。三人の白い息は、仲良く風にたなびいていた。振り返れば自分達の影が綺麗に背の順に並んでいることを舞は知っている。こうして肩を並べて歩きながら、数え切れないほどの夕陽を見たのだから。
「しかし、えらくヘビーな話だったな」 ふと祐一が言った。「泣き出すかと思ってヒヤヒヤしたぜ」
「ゆうちゃんはこんなことでは泣かない」 と舞。「あの子は、ちょっとこだわりすぎて他の子とケンカすることが多いから、あんなお話にした」
「へぇ……でもそういうのって子供に分かるのか?」
「理屈で分かってもらうつもりは無いから。雰囲気を覚えてもらえばいい」 そして、珍しく自分から薄い笑みをこぼし、「理屈は私にも分からないし」
「あははーっ、祐一さんほどじゃありませんよーっ」
「さ、佐祐理はそんなこと言いませんっ!」 佐祐理は顔を突き出して頬を膨らませた。「祐一さん、ひどいです。佐祐理をそんな風に思ってるんですかっ?」
「はは、ごめんごめん。――でもさ、舞。俺は最初、お前のことを話しているのかと思ったよ」
 舞は頭の上に疑問符を浮かべつつ、祐一を見返した。私のこと、とは何だろう。
 祐一が舞から優しい視線を外して前を向くと、頬を掻いた。
「いや、その……。お前が、剣を捨てるって決めた時のことを思い出して、な」
 舞は心持ち目を見開く。
「全然気付かなかった」
 佐祐理も祐一も膝からがくっと力が抜けた。
「お話なんて何とでも解釈できるもの」
「う、うーん、まぁそうだけど」 佐祐理が苦笑いをした。
「……確かに、もしかしたらそうだったのかも知れない。結局、私、自分の中に沁みついていることしか出てこないから」
「お前の中には、大どろぼうやら、全ての神の母やらが沁みついてるのか?」
「それは別」 舞はほんの一瞬、語気を荒げた。「……でも、それも同じことかも。私は子供の頃、あまり外で友達と遊べなかった――祐一と以外は、ほとんど。だから子供向けの物語をたくさん読んだ」
 声は緩やかな小川のように流れ、星降る夜空に吸い込まれて行った。

 舞は思った。
 永遠とも思える時間の末に祐一と再会し、自分があるべき場所に戻り始めたと思えたあの時、私は無くしていたものを再び得たのではなく、不当に持ち続けていたものを返したのではないだろうか。だから私は、何かを失う物語に惹かれていくのかも知れない。それが正しかったのだと信じるために。今こそ子供時代を大切な思い出に還し、未来を夢見るために。

 三人は、しばし黙って雪道を踏みしめて歩いた。夜気はいよいよ凍てついていた。三人は自然と身を寄せ合い、三人の吐く息は一つとなった。祐一が、ホワイトクリスマスなんて映画の話だと思ってたぜ、とぼやく。
 やがて、ようやく中心街に達した。年間通しての最大の稼ぎ時だけあって、様々な店が呼び込みに精を出し、人々は浮かれ騒いで、賑やかなことこの上ない。広場には大きな緑のクリスマスツリーが出現し、ビルにも街路樹にも大量の電球が取りつけられていた。舞は何度も、ごった返す人の波に飲まれそうになった。なまっているかもしれない、などと場違いなことを考える。どろぼうを辞めて二年になる。
 先を行く祐一が角を曲がり、予約していた店に辿り着いた。身長ほどの高さの階段を下りた先にある、現代的で雰囲気のいい店だった。佐祐理と祐一で見つけ出したらしい。十中八九、佐祐理がまた何か手管を使ったのだろう。コートを店に預け、小さな丸いテーブルを囲んだ。ウェイターが三つのグラスに発泡する液体を注いで去って行くと、祐一が無言でその後姿に歯を剥いて見せた。尋ねると、あからさまに自分達を好奇の目で見ていたらしい。舞には意味が分からなかったが、佐祐理が目で笑っているので、特に困ったことでは無いだろうと判断した。
 シャンパングラスを持ち上げようとした祐一が、ふとその手を止めた。舞はまた嫌な予感を覚える。
 案の定、わがままを言い出した。
「いい加減、ただメリークリスマスってのも芸が無いな。舞、何か面白いネタ無いか」
「無茶を言わないで……」
「クリスマスって、最初はキリストの誕生日じゃなかったんだよね?」 と佐祐理。
「そう」 舞はこくんと頷いた。「キリストの生誕日は誰にも分からなくて、最初は一月六日に設定された。人間が作られた日が創世から六日目だったから。代わりにその頃、十二月二十五日は冬至とされていて、世界中の宗教がそれぞれのお祭りをしていた――お話を書く時に調べたの」
 最後の言葉は、ぽかんと開いた口がどんどん広がり始めていた祐一に向けられていた。
 冬至は、勢力を弱めた太陽が再び蘇り始めるという、普遍的に一年で最大の意味を持つ日だった。キリスト教もそれに倣った。暗い冬の中、小さな希望が静かに生まれるというイメージは、全ての宗教で意味深いことであり、キリストの生誕日としても相応しかったのだ。ローマ帝国を含む、競合する他宗教に対抗する意味があったにせよ。
「よし。それじゃ舞は冬至ネタだ」
 舞はかすかに顎を引いた。グラスを持ち上げ、古代人の気持ちを思い起こす。それは不思議と自分の心境に重なった。乾杯の文句は自然に出てきた。
「……やがて来る春に」
 佐祐理と祐一の顔に浮かんだ笑みに、はにかみながら精一杯の笑顔で応える。
「では佐祐理は……頑張ってきたこの一年に」
「未来、過去と来たから、お約束で。ハッピーな今の俺達に」
 舞は思いがけず目頭が熱くなるのを感じ、慌てて振り払った。そして声とグラスを合わせた。

「乾杯っ」



12/28/1999 Suikyo