"Do the Angels have a home?"





 それは一段と寒い日でした。陽も地平線の下に落ちて、もう辺りは真っ暗です。

「じゃあ、気を付けてな、栞」 祐一さんが白い息の向こうで言いました。
「はい。祐一さんも」
「自分だって襲われることもある、なんて証明しようと思うなよ」
「思いませんっ!」

 べーっ。

 いつもの公園の噴水の前、いつもの軽口で別れました。
 今日のデートはこれでお終いです。
 祐一さんが曲がり角で振り向いたので、ひらひらと手を振ってあげました。
 祐一さんは照れたように片手を挙げて、足早に去って行きました。
 そんな仕草が、私は好きです。

 恋しい人の姿が消えると、それを待っていたかのように、冬の夜の冷たい風が胸の中まで吹き込んで来ました。
 こんなにもすぐに寂しくなるなんて、おかしいですね。
 こんなにも二人、楽しく過ごしているのに。
 そんな気持ちを振り払うようにマフラーをなおして、コートの襟を合わせました。
 寂しくなるのは、あの人を心から愛しているから。
 さぁ、風邪を引かないうちに、私も家に帰りましょう。

 そう思った時、思いがけなく頬にひんやりした感触がして、私は飛びあがりました。
 手を当てるとそれは指の先で、あっという間に融けていきます。

「雪……」

 私は辺りを見渡しました。
 木々は、常夜灯の無機質な光に肌をさらして、凍えながら立ちすくんでいました。
 無人のベンチ。冷え切った足もとのレンガ。一人ぽつんと影を作る私。
 闇に縁取られた空間に、物悲しく降り注ぐ雪の結晶。
 私は靴の下の地面が消え失せたような気がして、軽い眩暈を覚えました。

 細い光にはおかしな効果があります。
 全てから色彩を奪い、ただ光と影に変えてしまうのです。

 その瞬間。私を世界に繋ぐ錨の綱が断ち切られました。
 私は灰色の砂の波を砕きながら、過去に幾度か旅した航路を逆に辿り始めます。

 見慣れたはずの公園は、いつしか悲しい夢のかたち。
 忘れ得ぬ記憶を映す鏡。
 心を責める、モノトーンの思い出。

「あゆさん…」



 あの頃、私は小学生みたいにウブな高校生で。
 人生のスパンから言えば自分は老人なのだと思っていました。
 その振りかぶった鎌のような事実を背に、転びながら、惑いながら、私は逃げ回りました。

 女の子は傷つきやすいんですよ。そう言うと笑われるかも知れませんけれど。
 弱くて傷つきやすいから、身を守る事にかけてはとても上手なのです。それこそ、エゴイスティックなほどに。
 きっと、いざとなったら自分で何とかできる男の人には、ちょっとピンと来ないかも知れませんね。

 私はある厳しい決意を秘めて、沢山の買い物をしました。
 やけに遠く見える景色を眺めながら、私はお別れを告げました。
 私の滅びを感じ取って、先回りして私を切り離しにかかる世界に。

 せめて、最後の糸ぐらいは自分で切りたかったのです。
 最後だけは、私自身の意思と行動を、結果に反映させたいと思いました。

 胸を去来するものは、失われゆくものへの嘆願ではなくて、失われたものへの懐旧。
 心を焦がすのは、燃えあがる炎ではなくて、砂漠のような乾き。
 その心算でした。

 恵みの雨は唐突に訪れました。

「運命だよね」

 あなたの、ちょっと可愛い声が、鮮やかに蘇ります。
 私に相応しい、笑えない冗談みたいな出会い。
 あなた達の明るさが、私には眩しかった。それはひび割れた心に染み入って、私は傷みを覚えました。

 それから私は家に帰って部屋にこもり、手首を切り、泣きました。
 流すはずだった血の代わりに、ただひたすら涙を流しました。
 何もかもが下らなく感じられた事を覚えています。
 全部決まった事だと信じていたのに、たったあれだけの事で動揺してしまう自分が。
 ずっと悲劇のヒロインを気取って、悲愴な決意を固めていた自分が。
 そのくせ、死ぬために、わざわざ家に戻って自分の小さな部屋に閉じこもって身を守っている自分がバカみたいで、心底可笑しかったのを覚えています。

 私はそんな大した人間じゃ無かったんです。
 薄幸の美少女、なんて華々しく散るような、そんな柄じゃないんです。
 せいぜい、とびきりの幸せを夢見て、とびきりにドラマチックな展開を夢見て、何も果たせずに残念がるのが関の山。

 解放されたわけではありません。
 目を逸らす方法が無くなったために、それはむしろくっきりと浮かび上がりました。
 私の存在には限界があります。
 限界までは存在があるのです。

 信じられないほどの涙を流し尽くしたあと、もう泣くまい、と決心しました。
 私には泣いている暇はありませんでした。
 戻る場所だってありません。
 乾ききった私の心に降り注いだスコールは、矢のような速度で遠ざかって行きました。
 私は倒れるまで、それを追いかけようと思いました。
 雨を浴びるだけなら、誰にも迷惑はかけないでしょう?



「栞。お風呂、空いたよ」

 階下からのお姉ちゃんの声に、私の物思いは破られました。
 お姉ちゃんは、とんとんと階段を上って、踊り場の私の側にやって来ます。

「雪見てるの?」
「うん……」
「ふぅん」

 お姉ちゃんは後ろから、私のこめかみに触れんばかりの距離に鼻先を突き出して、窓の外を眺めました。
 暗闇の中に街の中心街がほんのり光を放って、流れ落ちる白い氷の結晶を静かに輝かせます。
 心奪われる死の情景。

「何だか寂しい景色ね…」 お姉ちゃんは落ち着いた声で呟きました。

 お風呂上りのお姉ちゃんの温かい腕が私の身体を包み、お腹の辺りで指が絡み合わさりました。
 その手を両手で包むと、鈴のように軽く揺さぶられます。
 湿った長い髪の毛からシャンプーの香りが漂ってきます。

「お姉ちゃん」 私は、鏡のような窓ガラスに映る、目を閉じたお姉ちゃんに呼びかけました。
「なぁに?」
「…大好き」
「どうしたの、急に」 全然動じません。
「何となく」

 お姉ちゃんはゆっくり息を吐いて、私の肩に顔を載せました。

「栞?」
「…なに?」

 お姉ちゃんは、しばらく答えませんでした。
 窓ガラスの闇に映るお姉ちゃんは、ごろん、と頭を寝かせて、私の横顔を見て微笑みました。

「何でもないわ」
「…うん」

 お風呂、と言って、私はお姉ちゃんの腕を解いて階段を下り始めました。

「栞」

 私は振り向いて、お姉ちゃんを見上げました。

「寒いんだからね。冷やさないようにしなさいよ。風邪を引くから」

 いつもなら、子供扱いしないで、と言う場面でした。

「ありがと」

 お姉ちゃんはうなづいて、階段を上がって行きます。
 私は慌てて声をかけました。

「お姉ちゃんっ」
「ん?」 階段の手すり越しに、顔を覗かせました。
「…ごめん」
「何が?」
「え、えっと、何となく」

 お姉ちゃんの目が細くなりました。

「夕食に何か入れたの?」
「ち、違うよっ!」
「あたしの服を勝手に使って汚した?」
「そんなんじゃなくてっ」
「じゃ、許す」

 素っ気無く言って、自分の部屋に戻って行きました。
 何だか、全部分かっていたみたいでした。



「私のことを、普通の女の子として扱ってください」

 何て酷いことを!
 その身勝手に自己嫌悪を感じながらも、私は自分を抑えられませんでした。
 切なさに震えながら、初めてのキス。

 ありふれたものが特別になって、だからそれは偽物の日常だったのです。
 でも、私にとっては充分でした。
 味わう事の出来なかった日常、私がとうに失っていたはずの夢。
 例え目に見える夢は偽物でも、それを一生懸命作ってくれる人達の想いは本物でした。
 だから、私の気持ちも本物でした。

 一緒に公園を散歩しました。
 ウィンドウショッピングをしました。
 愛する人にお弁当を作りました。

 祐一さん。あの頃の私の気持ち、きっと知らなかったでしょうね。
 あなたへの想いは、あれでもほんの氷山の一角。
 一年の、一生の中の、たったの一週間。

 でも、例えどんなに小さなカケラでも、私はそれを掴みました。
 余計な荷物を全て投げ捨てて、無我夢中で走って、私は追いついたのです。


 失ったはずの夢。それは失ったはずの私。
 追いかけた蜃気楼は、等身大の情景。
 あなたと交わす言葉に、精一杯の自分を。



 私の思いは果たされました。

 甘さも、苦味も両手に抱えて、私は最後まで走り抜きました。
 全てを得ようとするのは、ただのわがまま。
 そんなことは誰にも出来ません。

 あの時、私は充ち足りていました。


 ですから…
 ですから、本当はこの時間は――


「あゆさん…」

 私は枕に顔を埋めて呻きました。


 あの頃の私は余りに必死で、とても大事なことに気付きませんでした。

 そこに居る人間が、私一人ではないことに。

 降りしきる白黒の雪の夢の中、あなたに出会うまでは。



 細い細い、同じ光に照らされて。
 深い深い、同じ闇に胸まで浸かって。

 あの色の消えた世界で、私達に何の違いがあったと言うのでしょう。
 紙切れにまで圧縮されながら、傷つけ合い、分かち合い、愛し合い、許し合った二つの影絵。
 私は家に帰り、あなたは二度と戻らない。



 ――あゆさん。

   あなたは今でも笑っていますか?

   あなたはそこで、この雪を見ていますか?



 あなたは、もう一人の私。
 あなたのしたことは、もう一つの私の想い。
 だから私は、もう謝りはしません。
 あなたが側にいる振りをして、私は私の道を歩いて行きます。



   空の彼方は自由ですか?

   雲の形は美しいですか?



 別れ際には優しく手を振って、
 私はこの暖かい場所にいます。
 隣には、愛する人達が微笑むから、
 笑って、頑張って、生きて行きます。



   そこには七色の虹がありますか?

   風にそよぐ明るい花がありますか?



 でもこんな夜には、私は「どうして」と泣き叫ばずにはいられません。
 血が出るまで唇を噛み締め、
 喉が枯れるまで嗚咽を漏らし、
 そして、遠過ぎる場所に行ってしまった、あなたのためだけに、たった一つのことを願います。
 いつか完全な癒しの訪れ。
 あなたの傷が過去のものとなる日。

 それまでは――




   あなたには、帰る家がありますか?




 あなたは二度と戻らない。

 だから私は、ただあなたが、ただあなたのためだけの、せめて束の間の安らぎを得ることを願います。



 ただひたすらに、願わずにはおれないのです。





12/14/1999 Suikyo

Inspired by a song "Do The Angels Have A Home?" from Album CD "seven sisters" by Meja.





あとがき

こんなモノに、本当は後書きは必要ありません。

ですからこれは、作品にかこつけた、「語り」だと思って下さい。 私はもう、栞に関して深刻なシリアスSSを書く気が全くありません。 こんな場所でしか、語る事が出来ないのです。


私にとって栞というキャラクターは、栞シナリオのためにある存在に感じられます。 その造形は薄っぺらで、全てがシナリオの効果を高める為に存在していました。 「死ぬためにあるキャラクター」でした。 だからこそ、香里の「あの子は何の為に生まれてきたの」という台詞が生きるのでしょう。 本当の人間ならば、そんな事を言われる人間にだけはなりたくないと思うでしょうから。 ですが、もしシナリオが完璧なら、全ては許されました。 並べられたエピソード自体は魅力的でした。

 SFX映画に似ています。
 一箇所でもウソがあったら、全てのリアリティが崩壊する。
 そういうお話。

あの、実にあっさりとした復活の奇跡。 スピードを増すための単純な圧縮のトリックが、私の中に深い違和感を残しました。 ただ単に、余りにも速過ぎたのです。 それはそのまま、余りにも軽過ぎ、お約束過ぎるキャラクターのイメージに繋がり、 やがて「栞シナリオにおけるあゆの軽さ」をも吸い寄せて固着しました。

あゆは犠牲になりました。気高い心の持ち主です。 しかし、あゆのその行為に対して、その想いに対して、栞は余りにも無関心です。 私は、その事に気付いてしまいました。 それはシナリオの計算外なのですから、あるいはシナリオに対する非難にはならないのかも知れません。 酷い話ではありますが、力学的には、あながち間違った作りとは言えないでしょう。

でも、気付いてしまったら、ファンはどうしようもないのです。


ここには、あゆの思いは書かれておらず、祐一すら排除されています。 それは、このSSが完全に補完系SS、それもシナリオの補完ですらなく、キャラクターの補完を行うSSだからです。

栞は見かけに反して(失礼)非常に理性的なキャラクターで、かつ真面目、かつ精神的に器用です。 彼女は常に、たった一つのことだけを目標にします。 現実を見据え、受け入れ、その上で最も大切なものだけを目指して行動します。 切り捨てる事で強くなる。自信が出る。そういう少女なのです。 その切り捨てる際の心境に悲観的な眼差しが混じりながら、 しかしその行為によって精神的にタフに、結果的に陽性になっていく。 それが彼女のピュアリティを生むのだと思います。 細部にこだわる癖も、そうした心理の残滓と取れなくもありません。 こう考えると、意外と自分に似ているかも知れません。
(勿論、こうやって理で説明したことは、現実には何も説明していません。 私が考える栞像は、あくまで私の頭の中にしかありません)

いずれそんな性格も変わらざるを得ないのでしょう。 それを描くのも一興です。

ですが、私は、そんな栞の元あった個性を尊重しつつ、彼女にあゆの重さをきちんと受けとめさせ、彼女なりに消化させたいと思いました。 栞とあゆは違います。 でも、シナリオによって追いやられた『世界の果て』では、彼女達は全く同じでした。 全てを知り、全てが終わった後に、栞にとって最も大切なこととは何でしょう? それをSSにしました。

本編の栞は、死にたくない、と内心を吐露します。そこだけは書いていません。 でも、書いても同じでしょう。 だから外しました。 天使、という言葉も作中からは外しました。 天使なのかそうで無いのかという、言葉遊びに堕したくなかったので。


私は結局、話のキモを正面から物語化せず、後日談として、 しかもモノローグの詩という形式に大脱走してしまいましたが、 喜ばしいことに、長年、美坂姉妹救済に難渋しておられる(笑) LOTHさんが、 某F,Fのオリジナル版として、 『このSS("Do the...")が後日談として読める』ようなSSを書かれました。 私は、とても嬉しいです。 自分の考え(あえて作品とは言いますまい(笑))を認めてもらえたことと、 LOTHさんのF,Fの鎮魂歌であるオリジナルバージョンが読めることの両方が。 是非、「賛歌」にまで発展するF,F/Sが完結することも希望しています。 来年でしょうかね(笑)

"Do the..."はその後、調子を整え、分かり易くするために改訂してしまったので、 今では細かい齟齬もあるかとは思います。 が、それでも、 栞と言うキャラクターに有り得べき優しさ、 あゆとの同一性、それ故に生まれる二人だけの共感、 などの重要な点では同じ意識に立たせてもらえていると信じています。 そして、悲しい別れから一年近くが過ぎ、ここに書いたような境地に栞が達することを祈ります。


元ネタになったMejaの曲は、その詩を和訳するだけでKanonSSになる、素晴らしい歌です。 と言うか、ラストは相当にパクってます。 パクらざるを得ない状況に追いこまれる内に、何だか詩の勉強が出来た気がします。 とっくにレンタルに出ているので、お暇な方はちょっと探してみてくださいね。